保土ヶ谷宿 その1(帷子川-上方見附    地図→ 保土ヶ谷(天王町-境木


帷子川の南−現在の相鉄線天王町駅から、スタートする。


保土ヶ谷宿全体の案内

保土ヶ谷宿の概要は、この案内図でうまくまとめられている。

相鉄線:天王町駅から東側に流れている帷子川を越え、国道16号線を渡った興福寺松原商店街の先に、この案内板がたっている。

この案内板は、保土ヶ谷駅前や境木地蔵前など各所に建てられている。



初代広重『程が谷 新町入口』 と 江戸名所図会『帷子川』・・帷子橋
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帷子川と帷子橋−天王町駅前

保土ヶ谷宿で常に表に出る帷子橋は、現在その跡が、天王町駅前広場に再現されている。

「旧帷子橋跡」の説明板によると『長さ十五間、幅三間であった、という。昭和31年に、帷子川の流れがそれまでの天王町駅の南側から北側に付け替えられたのに伴い、位置も変わった』として、ここにその位置があらわされている。

旧帷子橋跡の説明板帷子川の流れの変化 


旧古町橋跡の説明板

天王町駅前広場から星川駅方向に1ブロック先にある帷子公園を過ぎて、突き当たりの道にぶつかる左側のコーナーに、旧古町橋の説明板が立っている。

 昔の東海道は、保土ヶ谷宿ができた頃は、松原商店街の横浜方面からの入口近くの「追分」から神明社までこの地点を通っていたという。

慶安元年(1648年)に、現在良く知られる「旧東海道」が竣工されたという。

 それまでの道が、保土ヶ谷から戸塚までを、どの様なルートで通っていたかは、年代ごとに変化していたといわれ、その詳細な研究が大畠洋一氏の著作「保土ヶ谷宿の起源と交通史」の中で述べられている

今の帷子川

先ほどの古町橋跡の説明板のコーナーから、相鉄線よりに戻り、踏切を越えると、今の古町橋がある。

そこから、天王橋方向に流れる帷子川。





江戸名所図会 「帷子里、神戸村、神明社」

その頃の、帷子川や神明社など、全体の雰囲気が漂ってくる絵である







神明社前交差点

 道を戻り、古町橋跡を過ぎてしばらくすると、神明社前交差点となる。、標識がたっている。

右側に神明社の鳥居が見える。

神明社

  「由緒」によれば、「今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)と呼ばれていた平安時代の中頃」からの、言い伝えがのこる。「その後嘉禄(かろく)元年(1225)神託があって、神明の下宮がつくられたという。戦乱の時代に一時衰退したが、天正18年(1590)徳川氏入国の時、社殿の造営が行われた。」という。


庚申塔

信号の脇の小堂の中に、、元禄9年(1696年)と文政8年(1825年)の庚申塔が2基立っている。

古東海道を、JR保土ヶ谷駅の方向に向かってすすむと、
両側に由緒あるお寺が現われてくる。

見光寺

境内には、しだれ桜がきれいに咲いている


天徳院

立派な造りのお寺


大蓮寺

本堂

 天徳院の山側の石段を登ったところにあり、紀州徳川家の初代-徳川頼宣の母:おまんの方が寄進したというざくろの木(二代目)がある

遍照寺

本堂   木像の薬師如来像が屈指の佳作という。


現在のJR保土ヶ谷駅前の商店街

JR保土ヶ谷駅前ロータリーに入る手前を西に向かい、商店街をすすむ。

このあたりは、助郷会所跡、問屋場跡、高札場跡があり、保土ヶ谷宿の中心的な役割をはたしていた。



高札場跡


助郷会所跡      問屋場跡
  


高札場
:幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設。通常、土台部分を石垣で固め。その上を柵で囲んだ内部に高札が提示され屋根がかけられていた。宿場の高札場には人馬の駄賃や、宿代などを帰した高札が掲示されており、宿場の中心地に設置された。

助郷:宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村という。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されてきた。享保10年(1725年)に決められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部で40か村、現在の保土ヶ谷区内のみならず、旭、西、中、南、港南、磯子、戸塚等の各地域に及んだ。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場近くに助郷会所という事務所を設けていた。

問屋場:宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中で最も重要な施設の一つ。宿場ではこの業務を勤めるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていた。


金沢横町

問屋場跡の直ぐ先の交差点の一角に、金沢道との分岐点を示す「金沢横町」の道標が4基ある



「横浜の古道−近世道」によると、それぞれに記されている内容は次の通り。

右から1番目-天明3年(1783年)

正面:円海山乃道 かなさわ かまくらへ通りぬけ

右面:是より えんかいさんみち 武州峯村 

道法三里余

右から2番目−天和2年(1682年)

 正面:かなさわ かまくら道

 左面:ぐめうし道

右から3番目−文化11年(1814年)

 正面:程ヶ谷の枝道曲れ梅の花 其爪(きそう)

 右面:是より杉田道 

     (杉田は梅の名所であった)
右から4番目−弘化2年(1845年)

 正面:ほうそう守神 富岡山芋大明神 江の道

 是より行程三里

かなざわ かまくら道

ここで、東海道から外れて、金沢道(かなざわ かまくら道)へ入り、北向き地蔵まで行くことにした。


 金沢横町を東に向かい、JR東海道線の踏切をわたり、国道一号線にでる。国道を渡ったところに「歴史の道」

の案内板が建っている。

 

いわな坂


そこから、いわな坂がはじまる。「石難坂」「石名坂」など諸説あるが、急な坂道である

福聚寺

坂の入口附近の左側に、福聚寺がある.


『東海道中膝栗毛』の作者十返舎一九の弟子五返舎半九の墓があるという。

御所台地蔵堂


坂の途中の左側に、苔むした階段があり、その上に地蔵堂がある。その前に、庚申塔や供養塔が多くたっている。


政子の井戸


その先右側に政子の井戸(御所台の井戸)がある。将軍源頼朝の妻政子が鎌倉への途中でこの水を使ったと言い伝えられている。

北向地蔵

その坂を登りきり、信号のある交差点をすぎた右側に北向き地蔵がある。

案内板によれば 「僧・三誉伝入(さんよでんにゅう)が享保2年(1717)に、天下泰平、国土安全と旅人の道中安全を祈念して建立したもので・・・・(中略)・・

 角柱には、『是(これ)より左の方かなさわ道』『是より右の方くめい寺道』と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内もかねている」という

北向き地蔵から金沢横町まで戻り、東海道をくだる。踏切を過ぎてすぐ国道一号線に突き当たり、その信号をわたったところが、保土ヶ谷宿本陣跡のあとである。

保土ヶ谷宿本陣跡


塀の前の説明板によると「保土ヶ谷本陣は、小田原北条氏の子孫・・苅部家が代々つとめ、問屋・名主を兼ねるなど保土ヶ谷宿の最も有力な家で、安政6年(1859年)横浜が開港する際、当時の当主 清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くし、その後、軽部姓に改称し、現在に至っている」

国道1号線に沿った左側に「保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設」の説明板で、当時の本陣や、旅篭屋、茶屋の様子が記されている。

その先には、一里塚と上方見附跡がある。この一里塚は江戸から八番目という

散策日 2006年3月24日 帷子川−本陣跡