宇都宮:奥州街道/日光街道
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宇都宮へ行く機会に、奥州街道・日光街道の分岐点や、市内の史跡を散策する。昼前に宇都宮駅をスタートし、まず宇都宮城址をめざして歩き出した。 |
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田川 |
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駅前の田川にかかる、宮の橋 |
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宝蔵寺 |
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橋を過ぎて直ぐ右側に近代的な作りの宝蔵寺がある |
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ここには、次のような貴重な文化財がのこされていると、門前の説明板に記されている。 @ およりの鐘 A 粉河寺出土の石棺 B 木像阿弥陀如来坐像 C 木像普賢菩薩坐像 |
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みはし通り |
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大通りを西に向かい、パルコの脇の道を南に向かい、みはし通りを宇都宮城址を目指す。 |
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宇都宮城址 |
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突き当りが、宇都宮城址であるが、大掛かりな工事が行われていた。説明書によると、「天慶3年(940年)平将門の乱をおさめた藤原秀郷が館を構えた時が始まりと伝えられ、その後康平6年(1062年)宇都宮氏の始祖藤原宋円がこの地を本拠地として以来、代々宇都宮氏の居城となり、規模も当初は200m四方位あったと考えられている。 宇都宮城は1619年、本田正純が城主となって、城や町割の大工事を行い本格的な近世城郭の姿を造りあげた」という。 |
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宇都宮城は1619年、本田正純が城主となって、城や町割の大工事を行い本格的な近世城郭の姿をつくりあげ、その後 享保年間(1716−35年)には、本丸の広さは、13,000uもあった」という。 慶応4年の戊辰戦争で全て焼け落ちた。
今回の復原で、富士見櫓と清明台の櫓などが復元されるという。 |
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大いちょう |
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南大通りに戻り、西に向かうと、道路の右側に大きないちょうの木が見える。 大いちょうは、「樹齢400年、樹高33mで、宇都宮城の三の丸と百間掘の境の土塁の上にあり、昭和20年の空襲で焼けたが新芽を吹き見事に再生した宇都宮城ゆかりの名木で、市指定の天然記念物である。」と説明板に記されている。 |
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現在の日光街道 |
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南大通りと今の日光街道(東京街道)との交差点から、東武宇都宮駅方面をのぞむ。 さらに西に向かい、『江戸街道』をめざす |
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蓬莱大黒通り |
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そこから4ブロック行ったところで、新しく道路が整備されている材木町通りとなる。このあとの報恩時のわきにある市の『文化財表示板』によれば、江戸街道であった 。材木町通りとの交差点を南に向かうと蓬莱大黒通りとなる。 |
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| 一向寺 |
その先を右折すると、左側に一向寺がある。 |
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応永12年(1405年)造の、銅造の阿弥陀如来象、幕末から明治にかけて宇都宮で活躍した菊池愛山の墓のことが、説明板に記されている。
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報恩寺 |
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美しい形の茅葺の山門と、境内の庭が印象的である。 |
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『文化財表示板』:伊賀町 |
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報恩寺沿いの道路に、『文化財表示板』がたっており、次のように説明している。 「この付近は、宇都宮城下の西端に位置した武家屋敷町で、宇都宮氏の時代に芳賀伊賀守ゆかりの土地であったことから、伊賀町の名が付けられたといわ、江戸時代には、楡木・栃木へ通じる六道口を警備する役人の屋敷が置かれた。」 |
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これによれば、江戸街道が宇都宮まで来て、そこから、奥州街道につづき、また、日光街道に分岐する地点が良くわかる。 |
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六道 |
西原小学校を過ぎると、大きなケヤキの木が見えてくる。 |
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六道閻魔堂の前にある『表示板』によれば、「この辺りは、江戸時代に壬生(みぶ)や、佐野、楡木などから宇都宮の城下へ向かう六本の道が集まっていたので、仏教でいう六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、人間道、天上道の六世界)になぞらえて、六道とよばれていた」という。またこの辺り一帯は、戊辰の役当時、宇都宮城を奪回しようとした新政府軍と、迎え撃つ旧幕府軍が激戦を繰り広げた場所という。 |
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この脇に小さなお堂がある。
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六道閻魔堂 |
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元禄14年(1701年)、光琳寺の専誉上人は、お堂を建て、高さ2.4mの閻魔大王を祀ったが、戊辰戦争で焼けて、現在のお堂は7明治39年(1906年)に建て直したものという。 |
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| 古いたたずまい | |||
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閻魔堂の前の道を、光琳寺方向にむかうと、昔からの佇まいを残す家が残っていた |
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| 光琳寺 | |||
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| 材木町通り | |||
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光琳寺から材木町通りへもどり、宇都宮地方裁判所方向にむかう。歩道、車道ともきれいに整備されたばかりである。
突き当たりの裁判所を右折し、最初の信号のところに、『追分』の標識が立っている。 |
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日光街道と奥州街道の追分 |
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『江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれ、北(左)へ向かう清住町通りが日光街道、東(正面)に向かう通りが奥州街道で、多くの人馬で賑わったところである。 |
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清住町通り |
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清住町通り(日光街道)はいって直ぐ右側にある、建物。 |
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清住町通りをさらに進むと、左側に三峰神社と、定勝寺がある |
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三峰神社 |
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天保3年(1832年)武州三峰山(火防の神)の分身を祭司したのがはじまりという。 |
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桂林寺 |
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その先、右側奥まったとこには、蒲生君平の墓のある桂林寺がある。 説明板によれば、 「蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに『寛政の三奇人』の一人で、明和5年(1768年)に宇都宮の新石町(現・小幡1丁目)に生まれた。 近畿地方などの天皇・皇族の墓所の研究書である『山陵志』を著し、修復の必要性を説くなど、多くの書物を著し後世に影響を与えた。 ![]() |
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文化10年(1813年)江戸で死去し、谷中(東京都台東区)の臨江寺に葬られ,その後ここに分葬された。」という。 |
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延命院 |
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桂林寺からもどり、県庁前通りに入った右側に延命院がある。 蒲生君平が、6歳の時、自宅から近いここ延命寺の住職良快から、読み・書きの手ほどきを受けたといわれる。 境内にある、延命院地蔵堂は、「享保年間(1716−35)に芳賀郡田野辺村(現・市貝町)の宮大工永野万右衛門の手で完成した堂宇で、市内で最も古い木造建築といわれている |
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真福寺 |
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南側に真福寺があり、本堂には、木像四天王像が安置されているという。持国天・多聞天・広目天・増長天の四体がそろっているのは珍しいという。 |
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県庁前通りにもどり、建設中の県庁を過ぎて、左に入り八幡山公園方向に向かう |
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蒲生神社 |
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公園への登り口のところに、蒲生神社への参道階段がある |
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説明板によれば、 「明治天皇は、蒲生君平の勲功を認め明治2年藩知事戸田忠友に勅旌碑を建てさせ、さらに明治14年正四位を追贈した。」という。その後、大正15年七月に蒲生神社本殿が、建立。 |
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二荒山神社-蒲生君平顕彰碑 |
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蒲生神社から下って県庁通りを過ぎた左側に神社へ脇から入る坂道があり、そこに明治22年に完成した蒲生君平顕彰碑がある。 その説明の追記に、「考古学の用語『前方後円墳』は君平の造語である。」とあり、これは、初めて知った。
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二荒山神社 |
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宇都宮市は宇都宮二荒山神社の門前町として発展してきた。宇都宮はこの神社の社号(宇都宮大明神、古くは宇津宮大明神)に由来する、という。 祭神は、豊城入彦命で、はじめは荒尾崎(現在の下之宮)に祀られ、その後、承和5(838)年,臼が峰に遷座し,今日に至っている。 |
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大通り側から見た神社への参道と、門 ![]() |
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樋爪氏の墓 |
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大通りをJRの駅にむかってすすみ、奥州街道のルートといわれる、足利銀行のある交差点を左折して、宮の橋の一つ北にかかっている幸橋にむかう。その途中に、小さな三峰山神社がある。 その中にある五輪塔は、「文治元年(1189年)、源頼朝が奥州の藤原氏一族を攻めたとき、祈願成就のお礼の生贄として二荒山神社に奉納された樋爪俊衡と弟秀衡の墓と伝えられている。」(『文化財表示板』:樋爪氏の墓による) |
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幸橋 |
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欄干のところに立てられている絵と説明板によれば、「幸橋(旧橋名・上河原橋)は、江戸時代初期(1661年)に架けられ、田川筋でも旭橋(押切橋)に次ぎ歴史のある橋」ということである。 |
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旧篠原家住宅 |
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幸橋からそのまま奥州街道に突き当たったところー交差点の正面に、篠原家の住宅がある。この日は、改装中で、残念ながら入ることができなかった。・・江戸時代から続いた豪商=篠原家の住宅で、明治28年(1895年)に建てられたという。 |
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旧町名=博労町(ばくろうちょう) |
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「この付近に、腕の良い伯楽=馬の病気を治す医師が住んでいたことから伯楽町といい、それが博労町となった。 また奥州街道の出口にあたり、醤油屋、荒物屋などがあった。」という。 |
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興禅寺 |
若干時間があったのでその先まで歩き、興禅寺があったので、拝観した。 |
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山門前にある説明板に、興味深い話が記されている。 『境内には、宇都宮貞綱・公綱の墓といわれている五輪塔がある。宇都宮貞綱(1264?〜1316)は、8代宇都宮城主で、弘安4年(1281年)元寇の襲来の時、16歳で大将軍として九州に出陣した。晩年に出家して法名を「蓮昇」、法号を「興禅寺」といった。寺の名はこの法号によるものである。 |
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宇都宮公綱(1302〜1356)は貞綱の二男で9代城主となり、鎌倉時代から南北朝の動乱期にかけて活躍した武将である。大坂四天王寺に陣を構えた楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い』
←宇都宮貞綱・公綱の墓 |
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ここから、宇都宮駅までは、数分の距離である。 |
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| 散策日 | 2006年7月28日 | 宇都宮駅−駅 |