| <東京下町の散策と食事を楽しむ> (5) 両国から駒形へ 駒形どぜう 2016年10月13日 地図→両国-浅草橋 浅草橋-蔵前 蔵前-駒形 |
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| 長い間 待ち望んでいた「駒形どぜう」、ようやく決行することになった。 前々回、深川 富岡八幡から北に向かって、森下まで歩いたが、今回は その北側に位置する両国から、隅田川に架かる橋を訪れながら、浅草の駒形まで散策する。 |
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両国国技館 |
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両国駅からスタート、10年以上前に相撲観戦に訪れただけであるが、幟が掲げられていない櫓や建物では雰囲気が違う。 すぐに戻って南を走る京葉道路に向かうと、突き当りに回向院の大きな山門がある。 |
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回向院 |
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明暦3年(1657)の振袖火事と呼ばれる明暦の大火により、江戸市街の6割以上が焦土となり、10万人以上が亡くなった。 その供養に万人塚を建て供養したのが回向院の始まりという。その後も安政大地震をはじめとして天災による死者や、市内の無縁仏が埋葬されてきた。 |
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回向院 力塚 |
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山門の手前に「旧国技館跡」の説明板があり、参道を進んだ左手に大きな『力塚』と刻まれた石塔が建ち、より詳細な「相撲関係石碑群<力塚>」という説明板が立っている。回向院と相撲の関わりの歴史が書かれている。 明和5年(1768)に回向院の境内で初めての相撲興業が行なわれ、勧進相撲興業の中心となってきた。 やがて天保4年(1833)より春秋2回の興業の定場所となり。明治42年(1909)旧国技館が完成するまで「回向院相撲」が続いた。 旧両国国技館は、回向院境内の北に建設され、13,000人収容の当時最大規模の競技場であった。 戦後進駐軍に接収され、昭和21年の秋場所が最後となった。 その後、昭和29年から59年まで、蔵前国技館で興業が続き、昭和60年(1985)に現在の両国国技館が完成した。 |
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回向院 供養塔 と鼠小僧の墓 |
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境内左奥には、延宝3年(1675)に建立された明暦大火の供養塔や石造海南供養碑などが多く建っている。 さらに奥には、鼠小僧供養墓が整備されている。正面には 「天保2年8月18日 俗名 中村次郎吉之墓 教覚速善居士」と刻まれており、裏には「大正15年12月15日」とある。 鼠小僧は寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり、天保3年(1832)に処刑されている。 墓石を削り財布に入れておくと金回りが良くなるということで、前にある大きな石は数年毎に建て替えられているという。 |
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吉良上野介屋敷跡 |
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回向院の南を100mほど東に行った一画に、吉良上野介上屋敷跡がある。 旧 本所松坂町に広大な屋敷を持っていたが、一般民家が並びその面影のなかったものが、一部が史跡公園として残されている。 道を挟んだ向かいの角に「鏡師 中島伊勢住居跡」の説明板がある。伊勢は幕府御用達の鏡師で、宝暦13年(1763)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子としたという。 京葉道路に戻る途中に「双葉山相撲道場」という青銅額の掲げられた 時津風部屋の建物がある。 |
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両国橋 |
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交通量の多い京葉道路を西に向かい、両国橋を渡る。 隅田川に架かる橋としては2番目に架けられた橋という。江戸幕府は、防備の面から千住大橋以外認めてこなかったが、明暦の大火(1657)で多くの人が逃げ場を失ったことから、防災面での架橋を決断。幅4間(約8m)長さ94軒(約200m)の橋である。万治元年(1659)または寛文元年(1661)の架橋といわれる。 当初は大橋といわれたが、武蔵国と下総国とまたがることから、後に両国橋となった。 隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流しており、両国橋付近は流れが急であった為に、数多くの杭が打ち込まれて、川岸を保護していた。それが、百本杭と呼ばれるようになり、両国橋、隅田川の風流詩として親しまれるようになったという。 橋の南側の景色→ 橋の西、両国橋西交差点から南西に延びる道路に「やげん堀」の石柱が立っている。江戸時代に、底が薬研の形をした堀が埋め立てられて、町名として残っているが、七味唐辛子の発祥の地である。 |
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柳橋 |
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交差点から北に向かう細い道を進むと、神田川に架かる柳橋がある。神田川が隅田川に流入する河口部に位置しており、元禄11年(1698)にできた。近くに幕府の矢の倉があったので、矢倉橋と呼ばれた。この辺りは隅田川の船遊び客の船宿でにぎわったという。文化年間(1804-17)には、140人あまりの芸妓が住んでいたという。 明治時代には新橋とともに花街の代表する場所となったという。 |
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浅草見附・浅草橋 |
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神田川に沿って100m程西に行くと、今の江戸通りである。 「奥州街道」が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから、浅草御門と呼ばれる門があり、警護の人を配置 したことから浅草見附といわれた。であった。寛永13年(1636)に神田川に初めて架けられた橋である。 |
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旧浅草蔵前・天文台跡 |
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江戸通りをそのまま北に向かう。JR浅草橋駅そばの久月や吉徳といった人形店には何回も訪れている。 次の蔵前橋通りとの交差点には小公園が設けられ、天文台跡の説明板がある。 ここから西の広い範囲に、浅草天文台と呼ばれた施設が置かれていた。天明2年(1782)に牛込から移転新築され、正式名を「領暦所御用屋敷」という。周囲93m、高さ9.3mの山が築かれ、約5.5m四方の天文台が築かれたという。 寛政の改暦に際し、天文方 高橋至時(よしとき)らが観測した場所で、伊能忠敬は その弟子である。 |
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鳥越神社 |
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ここから東へ行くと、蔵前橋であるが、その前に西200m程にある鳥越神社に行く。 説明板によると、白雉(はくち)2年(651)の創建、日本武尊が東国平定の折、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したのが起源という。 前九年の役の為この地を通った源頼義、義家父子が大川を越えようとするときに、白い鳥に浅瀬を教えられ無事渡ることができたので、鳥越大明神と名付けたという。 |
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浅草御蔵跡 |
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元に戻り、蔵前橋通りを東に向かい、蔵前橋に向かう。橋の手前に、石碑と説明板が立っている。 浅草御蔵とよばれる幕府の米倉庫で、大坂、京都二条とあわせ 三御蔵といわれた。 元和6年(1620)、鳥越え神社の丘を切り崩して隅田川西岸の奥州街道沿いを埋め立てて造営した。 西側の町は、幕末まで蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が建ち並び「御蔵前」と呼ばれ、今の蔵前という町名は昭和9年(1934)にできた。 |
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蔵前橋 |
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蔵前橋は、昭和2年(1927)関東大震災の復興計画により蔵前橋通りの整備に伴って新たに架橋された。(今は手前が工事中) それまでは、この付近に「富士見の渡し」があった。 ![]() ここからは、隅田川テラスを歩いて、上流に向かう。 |
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隅田川・蔵前の景色 |
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テラスの壁に、「浅草御蔵絵図」が掲げられている。 この上流の厩橋付近からこの蔵前橋付近までの左側(隅田川右岸)に、一番から順に8番までつけられた堀が川と直角に造られ、その堀に面して多くの米倉が連なっていた。 川沿いの手摺には 葛飾北斎の浮世絵と説明板が掲げられている。 「首尾の松の釣舟 椎木の夕蝉」で左右分割されているが、首尾の松とは、御米蔵の4番堀と5番堀の中間にあった枝ぶりの良かった松の木で吉原へ行き・帰りに吉原での首尾を思い描く所という。 ![]() また対岸に瓦屋根の平戸新田藩の上屋敷の椎の巨木が描かれている。 厩橋手前でテラスから外れ、江戸通りに戻る。 交差点を過ぎて1本目の道を左折すると、周りをビルに囲まれた静かな場所に蔵前神社がある。 |
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蔵前神社 |
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説明板による・・・「5代将軍綱吉が元禄6年(1693)山城国の石清水八幡宮を勧請したのがはじまりで、江戸城鬼門除けの守護神ならびに将軍家祈願所の一社として崇拝されてきた。 また宝暦7年(1757)から天保4年(1833)まで約70年間、境内で勧進大相撲が開催され、回向院、深川八幡とともに三大拠点のひとつであった。なかでも天明2年2月場所では63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れ江戸中が大騒ぎになった」 境内には 歌川國安錦絵「蔵前八幡宮二於而 奉納力持」が掲げられている。当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれており、宣伝用のポスターではないか、という。 |
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| 厩橋と御厩の渡し | ||
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厩橋まで戻り、再び隅田川テラスを北に進む。 もともとは、渡しのあったところである。 テラスに、説明板が立っている。 ![]() 浅草御蔵の北側・・蔵前八幡宮のまわりに、御蔵の施設として厩があったので、「御厩(おうまや)の渡し」と名がつけられた。 元禄3年(1690)から定められ、渡し舟8艘、船頭14人、番人が4人いたという記録が残る。 厩橋は 花見客の人出で船が転覆する事故があったため 民間の手で明治7年(1874)に架橋された。(木橋」という) その後鉄橋となり、関東大震災後の復興計画により現在の橋となった。 ![]() ここからは、スカイツリーを見ながらのゆったりとしたの散策である |
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駒形橋 |
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いよいよ駒形である。 駒形橋は、駒形堂に由来する名前で、もとは駒形の渡しのあったところ。 大震災の復興計画として昭和2年(1927)に完成した。 橋のたもとに、東京都の石碑がある。 君はいま 駒形あたり ほととぎす ・・駒形堂とともにこの辺りの雰囲気を 伝えるものである・・という。 |
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駒形堂 |
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駒形堂は、橋の西詰北側に建つ。 創建は 天慶5年(942)といわれ、浅草寺の本尊(聖観音菩薩)が隅田川から見つかって上がってきた場所に建てられたといわれる。 本尊は、馬頭観世音菩薩。 隅田川の渡しの船着き場にあり、浅草寺参拝者もこの堂にお参りして、浅草観音に向かうなど、賑わいを見せた。 ![]() 境内には「浅草観音戒殺碑」が建っている。(境内北) 元禄5年(1692)に当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出され、翌年浅草寺第4世宣在が願主となり戒殺碑が建てられた。南の諏訪町から北の聖天町にいたる10町あまりの川筋だったという。駒形堂は江戸時代何度か焼失しており、元禄当初の碑か、宝暦再建のものか定かではないという。 今の駒形堂は、平成15年(2003)の再建。 |
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| 駒形どぜう | ||
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駒形堂にお参りした後、本日の目的地である「駒形どぜう」に向かう。 高層ビルに囲まれており風情が一層際立つ建物である。 ![]() ![]() 創業 享和元年(1801)という。 ![]() テーブル席、個室もあったが、もちろん選んだのは 座敷である。 どぜうなべをはじめ 柳川なべ、かば焼き、から揚げなどなど ひと通りのメニューを堪能した。 、 |
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