下曽我の散策  (3) 下曽我から上曽我へ     


       地図 ①下曽我駅-瑞雲寺 ②瑞雲寺-風外窟
        ③風外窟-上大井 ④上大井-酒匂堰  ⑤酒匂堰-永塚観音




 下曽我から北の方面の散策ぬ出かけた。御殿場線の下曽我の次に駅ー上大井の近くまでが今日の予定で、日本酒の石井醸造を見て、再び下曽我にもどる。

下曽我駅



 爽やかな秋空での下、ちょうどお昼前時の下曽我駅舎はすっかりと落ち着いた雰囲気でたたずんでいる。

 曽我郷6か村の総鎮守である宗我神社にお参りして山裾を回って上曽我へ向かう。
<左神社、右が城前寺方面>        <宗我神社>
          
宗我神社から西へ
 宗我神社の前から西に向かって坂を下る。細い沢を越えて、右に入る山道を登って行く。富士山方面への眺めは素晴らしい。
ミカン山の中の左側に石塔が数基立っている。その角を曲がっていくと、三叉路の角に鳥居が見えてくる。

天津神社
 説明板の解説は、「通称十二天さんといわれ、十二天尊神を祭神とする。旧曽我岸村の平和と氏子の繁盛守護を祈念して造立された。創立時期不詳」という。
(十二天尊神は、東-帝釈天、東南-火天、南-炎魔天、西南-羅刹天、西-水天、西北-風天、北-毘沙門天、東北-伊舎那天、、天地を守護する-梵天・地天、日月星宿の守護神-日天・月天という古代インド神話の神が仏教に取り入れられたもの。)

岸の石地蔵尊
 すぐ下の道を左へ山道を下ると、左側に曽我岸の公民館があり、地蔵の立つ祠と説明版が立つ。
それによると、公民館の位置に地蔵堂があり、本尊は石地蔵であったことが、延宝元年(1673)の記録に記されている、という。地蔵堂は、村の行事の舞台で、集会場でもあったり、戦時中は、横浜元町国民学校の疎開児童の宿舎にもなった、という。

蕎麦處 弥生
 南に行き、昔からの細い道に突当り西北に向かう。事前にGoogleで地図を調べていたら、散策ルート上の近くにそば屋があることが出ていたので、200mほど先の四辻を左折したところにある店に立ち寄った。
 そこの奥さんが小学校の同級生の姉であることが分かり、またそこの主人が「NPO 弥生」として食育とカルチャーの活動をしており、近くでそばも栽培、そば教室もやっていることなど、話が大いに弾んだ。

瑞雲寺
 四辻に戻り、100mほど西に、瑞雲寺へのサインが北側に出ている。
北に進むと、瑞雲寺境内にはいる。 
寺の説明板によると、「(小田原北条氏の家臣)本多豊前守信親が、
津久井の功雲寺の仁忠和尚を招請して、明応元年(1492)に建立した。」という。
本多氏は、信親、その子節親が小田原北条時代にこの地を知行し、天正18年(1590)の小田原攻めの時には豊臣方と戦い防戦したという。小田原城落城後、上曽我に閑居したという。
        石仏群
 境内南側には、石造物が多くあり、その説明板がある。 なかでも、「六観音石龕は、坐像と立像の二型が現存し、この地方の六観音信仰の遺物として珍しい」という。六地蔵石龕もある。

石龕(せきがん=仏像を安置するために作った石の入れ物)
        力不動尊
 『小田原の史跡』は次のように記している。
 力不動は、曽我兄弟が仇討のために前文を納めた大山不動を、弟の五郎時致(ときむね)が勧請し、背後の不動山に祀り前不動といった。明治維新のおり瑞雲寺の本寺龍国山正泰寺が廃寺となり、当時7戸の檀家神保一族が、瑞雲寺に檀家になる時に力不動をこの地に移したという。
        境内からの眺め      モッコク


 境内の東/裏の山側にはうっそうとした林があり、その中に市の天然記念物に指定されている大きなモッコクの古木がある。その途中からの足柄平野と箱根山の眺めもすばらしい。

本堂には、『曽我の歴史年表』と題された縄文中期から現在までの曽我の郷に関する主な事項が記された掲示板がかかっており、非常に興味深いものであった。
曽我自修学校発祥の地
 境内から門に向かう山側に、大きな石碑と説明板がある。
「明治時代、小学校制度は普及したものの、それより上級の進学は不可能に近かった。瑞雲寺の大井和尚はその不備を救うため、寺の本堂でこの地域の青年を教導し、明治43年(1910)自修学校を創立した。後に、校名は湘北高等学校となり、更に伊勢原市に移転して向上高等学校と改名された。」

ここから、入口までの間は、梅林となっている。

須賀神社
 瑞雲寺をでるとすぐの小川の上流に大きな木が見える。上曽我の鎮守の第六天社で、明治以降は須賀神社と称した。
背後のクスノキはオオバヤドリギが30箇所近く着生しており、高さ40.9mで市内第4位の巨木という。

大日如来堂と石造大日如来坐像
 川沿いの道を下り、十字路を西に約400mほど進むとバス道路にでる。その100m先の左側にある。
「大正13年(1924)に再建された。本尊の大日如来は両手で智拳印を結ぶので、金剛界の中心に位置することが知られるが、この地方の大日信仰の詳細は不明という。」の解説がある。

竺土(ちくど)寺と保命神社
バス道路の反対側から北に100mほど入った所に、竺土寺と石造物群とかかれた標柱が立っており、自然石に刻印した石塔が立っている。右に行くと、竺土寺である。明徳2年(1391)了庵の開基という。 了庵(慧明禅師)は関本の曹洞宗大雄山最乗寺を開いた。
 境内の左の石段の上には保命神社と金比羅神社があるが、上れなかった。

千体仏と鬼鹿毛馬頭観音石碑



 バス道路に戻り約100ほど行くと上曽我公民館があり、右手に石塔がならび、左奥には小さな仏堂が建っている。
  
 中央に祀られている本尊の阿弥陀如来座像は江戸時代の造立という。その左右に多数の如来型立像がびっしりと並らぶ。この千体仏は室町から江戸時代にかけての製作と認められる、という。

 左側の石碑には表に「鬼鹿毛馬頭観世音」と、馬の頭が、裏には昭和十二年四月と刻まれている。静岡県駿東郡小山町新柴の円通寺の馬頭観音を表しているという。

三島神社
 公民館から先に進むと信号があり、細い道を右に入る。最初の角を左に曲がるとすぐ細い山道となる。途中に石段がありその先に鳥居と三島神社がある。
石段を登り始めた左側に標柱があるが倒れており、また、草木が密集していて風外窟の場所は、見つけにくい。
石段を数段上ったところから左に入り、15mほど小さい木を掻き分けながらすすむと、漸く、小さい横穴が見つかった。
風外窟
 風外(1568-1654)は、寛永5年(1628)、60歳ごろからここ上曽我や田島の横穴古墳に穴居して、座禅を組み、だるまの墨絵を画き、念仏を布教して6年間ほど生活していたという。
 中が一段高くなっており、石が数個置かれている。

康岳寺



 室町時代16世紀初頭に起立したと考えられている。参道には、六地蔵をはじめ多くの石造物が並んでいる。
<庚申供養塔>     <大乗妙典石経塔>     <十一面観音立像>
 寛保元年(1741)       享和元年(1801)

<二十三夜塔>
明治5年(1872)
      
二十三夜塔とは、講を作り、月の二十三日を「お日待ち」の日として集まって精進する習俗があり、この講中が建てた供養塔のこと。西相模では特に稀な石造物で、小田原市内ではまだ三基しか発見されていない、との説明板がある。

道の風景
 康岳寺から100mほど南西に戻り、突き当たりを右折する。
 古い道らしく、道祖神がたち、その先には 供養塔がひっそりと立っている。その先で水量の比較的多い菊川を渡ると、今回の上曽我の散策の北側最後になる石井醸造がある。

石井醸造
 石井醸造は明治3年(1870)創業で、地酒『曽我の誉』を作っている。
下曽我にいるころ、父親がよく嗜んでいた酒で懐かしい思い出がある。
こらから下曽我駅に戻るので荷物にはなるが、720mの大吟醸2本を買った。

御殿場線
バス道路に出て右に行くと上大井駅であるが、左手に進み、曽我大沢公民館の所から、南に向かい、御殿場線の踏切を越える。国府津駅の直前まではまっすぐの線路である。
 
                     曽我小学校

曽我山を望む
 ここから先しばらく 田んぼがつづき、梨畑がところどころにある。

<あぜ道に咲く彼岸花>  <道端の秋> 

酒匂堰
 途中で西に向かい酒匂堰にぶつかり、土手沿いの道を南進する。
酒匂堰は、松田駅付近の酒匂川から取水している農業用水路で、昭和7年から5年かけて完成し、国府津の親木橋付近で森戸川に合流している。

砂利線の跡(譲原砂利線)

 間もなく関口橋で東側からまっすぐに延びてくる道路と交差する。
この道路は、以前酒匂川から砂利を採取し下曽我駅まで運搬するのに使われた砂利専用の線路が走っていたところである。1960年代まで使われ、今は酒匂川までこの広い道路が続いている。
幼いころ、この線路の枕木の上を歩いて酒匂堰を渡った記憶が残っている。

永塚観音堂


   
      <良雲寺>








 酒匂堰沿いにさらに下り、小田原球場がある上府中公園の東側約200mほど先に位置する。曹洞宗の良雲寺の境内-南側にあり、「永塚の観音さん」で有名である。
 説明板によると、「本尊は馬郎婦観音(陶像)で、伝承によると、白髪の老人が信心深い農夫の夢枕に立って『翌朝小海の白羽の矢が落ちている場所が、昔観音様が水中に没してしまった所である』ことを教え水中から18cmの観音像が発見され、観音堂を建立して安置した」という。
毎年7月17日が永塚観音供養会で、多くの参詣人で賑わうという。

<大乗妙典書写供養塔>    <宝篋印塔>             <堅牢地神塔>
  元文5年(1740)         寛政10年(1798)         文政11年(1828)

      

雷電神社





 永塚観音から南西方向約200mの所に、長い参道がある雷電神社がある。永塚村の鎮守である。
 「相模風土記稿」によれば昔この地が伊豆山権現領だったことから、山中の鎮守を勧請して土地神としたと書かれている。
 神社庁のHPによると次のような由緒がある。
「源頼朝の寄進により永塚郷が走湯山の寺領であった頃、村人が伊豆山に狩りに行き走湯山の山中でおおかみの大群に遭遇したが、走湯山の氏神である雷電社に逃げ込み一命が助かった。 このことから、走湯山の雷電社を勧請して永塚村の氏神として祀った」

 下曽我駅には、永塚観音の南側を通って東に進み、駅の北側にある永塚踏切(この辺りから、前に見た砂利線が分岐していたはずである)を越えてすぐである。
 時間に余裕があったので、城前寺にいき、曽我兄弟の墓、曽我祐信と満江御前の墓といわれる五輪塔を改めて訪れた。

曽我五郎・十郎の墓        曽我祐信・満江御前の墓

城前寺前からの富士山と夕日
散策日  2009年9月5日 下曽我駅 - 上曽我 - 下曽我駅
参考 小田原の史跡 川東版 (小田原市教育委員会)