下曽我の散策  (2) 下曽我から二の宮へ     


             地図 ①下曽我駅-六本松 ②六本松-羽根尾  ③羽根尾-二宮



 前回(2008年2月)の曽我の里史跡めぐりで見学できなかった所を訪ねると同時に、六本松から二の宮までの中世から使われていた足柄道から東海道へ抜ける道をたどることにする。ここは、曽我十郎が虎の御前と行き来していた道でもある。

下曽我駅前 藤棚
 5月1日、広い駅前広場の線路寄りにある大きな藤棚の藤が豪華に咲いていた。

山伏塚
 駅前の大通りを東に行き、T字路で宗我神社/城前寺とは反対方向に進み、瀬戸石材店のところで左折する。
道の右側の広場に2つの大きな忠魂碑が建ち、その手前の民家の庭先に、山伏塚が立っている。千代の三島神社の近くにも山伏塚があり、両方とも田植えを横切ったため斬られたという伝えがあるという。
石には天正19年(1591)と刻まれている。
「小田原の歴史」によれば、天正18年に小田原籠城中の北条氏への使者だった山伏という伝説が残っているという。

下曽我小学校
 東に進み、県道72号線に出て、下曽我小入口の信号を南に入る。
半世紀以上前に通っていた下曽我小学校であるが、校舎も校庭も面影は全くないが、感慨深いものがある。
周りの住宅もそれほど密集しておらず、何よりも富士が間近に見えている景色は変わっていない。

東光寺









 信号まで戻り、東すぐ左手にある。
 山門の手前に、徳本(とくほん)の名号碑が建つ。天保5年(1834)建立で、南無阿弥陀仏と刻まれている大きな石塔である。徳本(1758-1818)は江戸後期の浄土宗の僧で木食念仏行者であり、江戸近郊で念仏講を組織し、多くの人に熱狂的に支持されたという。
その前に立つ石幢(とう)型六地蔵は、六角柱の各面に地蔵の立像が浮き彫りになっているもので、文化2年(1805)の銘がある。
また、山門中の左手に延命地蔵が立っている。
    

曽我原への道

 再び信号までもどり、北へ向かう。昔の小学校へ通った懐かしい道である。
途中で東に向かい、城前寺墓地にいくまでの風景。
    
畑の中の道      双立型道祖神           剣沢川

大運寺の閻魔王坐像
 閻魔堂を境内に持っていた旧大運寺が、明治期に城前寺に合併され、今は、城前寺墓地となっている。
説明板によれば、「大運寺は江戸時代初期に建てられ、本尊の阿弥陀三尊は運慶の作であったと伝えられている。境内には十王堂があり、像の製作年代も江戸初期」という。
また、ここには 「唯念(1789-1880)の名号碑が建っている。他に谷津大光院、上曽我瑞雲寺、田嶋バス停前に 唯念の名号碑があり、唯念の念仏講の人気が偲ばれる」 としている。

道の風景
 墓地から北に向かい剣沢川に行く。途中真新しくされた小さな祠が建ち、脇に供養塔や道祖神が建っている。
先ほどのと同じく、双立型道祖神である。

剣沢川の風景
 剣沢川の上流をめざす。川を渡り、右に山を登って行くと、曽我祐信の塔を経由して六本松である。
そのまま川沿いにいくが、小さな堰を越したところが、広い平地になっており、細い川がながれている。
その奥に、小さな休憩所や案内板があり、弓張の滝360mという標識がある。

弓張の滝
 水の量は多くはないが、整備された道がほぼ川の流れに沿ってつくられており、近くになると竹の林と急な登りとなる。
ちょうど上流の部分が見えるところに、見晴らし台が作られている

 説明板が立ち、「二段の滝があり、上段は鎧の滝、下段は弓張の滝とよばれてきた。『新編相模国風土記稿』によれば、当時鎧の滝は高さ8尺(約2.5m)、弓張の滝は1丈5尺(約4.5m)であった。…中略・・
また戦国時代には、風流をたしなむ小田原北条氏配下の数人の若侍たちが、この滝の下で藤の花見を楽しんだという。」と記されている。
 現在の弓張の滝の高さは、7.7mという。

澄禅窟






 川を下り最初の橋を左てに渡って、梅林の中をすすむ。約100mほどで、左へ細い道を上る。両側がミカン畑の先に、標柱が立つ。
まず、名号碑と、澄禅上人の供養塔があり、その先に修業したという岩窟がある。
説明板によれば、「澄禅上人(1651-1721)は、浄土宗の僧で、座禅に徹しながら阿弥陀の名号を称えることを実践した。(木食・念仏行者)
曽我一帯を巡って修業したのは、36,7歳の頃で、京都で没している。」という。
  この岩窟は本来は横穴式古墳であったと思われる。朝夕修業しながら富士を拝していたと伝えられる。

伝 曽我裕信の宝篋印塔

 相生之松の碑
 もと来た道まで戻り、ミカン畑の急な山道をのぼる。左側一段高くなっている所にある。  すぐ先に左へ登る道がある。まっすぐ行くと六本松だが(工事中であった)、相生の松の碑を見るには、左の急坂を登る。途中右側の大きな木の根元に石碑が建つ。
「相生之松跡」と刻まれており、大正2年に建立されたものである。

六本松峠

 相生之松の碑から先を回って若干下り、もとの山道に合流し,あとは道なりに進む。一部コンクリートで舗装された所を過ぎると、峠に着く。その昔使われた鎌倉街道と大山道と、さらに曽我山一帯の一番高い山=不動山(327.7m)からの道が交差して複雑な峠である。.            

旧友と出会う
 ちょうど舗装された道路を六本松の標識・説明板の方に歩いているとき1台の車がm二宮方面から上って来て峠にさしかかる所であった。ここを通る車は非常に珍しいので、運転手を見ると、なんと知っている顔である。
小学校時代の親友の、加藤博君であった。
家で飼育している秋田犬の件で平塚迄行き、東側の二宮から山を上り、六本松を経由して下曽我まで帰る所という。国道1号線を経由するより、ずいぶん近道らしい。
古くから交通の要所であり、曽我十郎と虎御前が行き来した道でもあったことがうなずける。
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・・・・・神奈川県西部の古代から近世にかけての古道の移り変わり・・・・

特に鎌倉街道については、次のような状況であった。(参考:「かながわの古道」阿部正道著)

足柄地域の古代・中世の古道  <クリックで拡大図あり>
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鎌倉街道

 鎌倉時代の街道の主なものは、京都-鎌倉極楽寺坂を結ぶ「京鎌倉往還」、信濃、上野方面から武蔵府中を経て化粧坂に至る「上道」、江戸方面から亀谷坂までの「下道」、古河方面から荒川をこえて下の道に合流する「中道」、ほかに、房総方面からの「六浦路」、三浦方面から名越坂へのの三浦道がある。
 このうち、「京鎌倉往還」については、鎌倉時代初期から、朝廷と鎌倉幕府の二大政権所在地を結ぶ重要な幹線道路として、源頼朝により文治元年(1185)以降整備が進められ、建暦元年(1211)頃までに駅制が完備した.

神奈川西部に関しては、箱根をどのルートで越えるかによって、変遷がある。
  当初・・・・足柄峠をこえる足柄路
  鎌倉時代後半・・・・湯坂道をつかっての箱根路 

六本松峠を通る鎌倉街道は、足柄路の時代であった。
そのルートは;
 足柄峠-南足柄の関本宿→塚原→桑原→曽我→六本松→中村→吾妻山裏側→六所神社
                    |
                     →飯泉付近→鴨宮→酒匂→・・・

  このうち、六本松を通る道が「山手の道」で、六本松峠から中村に下り、二宮 川匂神社を経て釜野、獅子岩、吾妻神社裏側を通り知足寺 前に出る。その後、秋葉神社裏から石神台を経て国府新宿 (大磯町)の六所神社前に至り、京鎌倉往還に合流した。これは足柄道と呼ばれたという。(阿部正道氏)
   
   治承4年(1180) 頼朝は富士川まで寄せてきた平家軍に対し、黄瀬川(三島)まで出陣した。
   この時、中村庄司宗平館に泊り、六本松峠を越えていった。
   その約10年後、曽我十郎と大磯の虎御前が何回も行き来した峠でもある。
    (峠の先に忍石がある)

鎌倉時代後半になって、湯坂道を通る箱根路が多く利用されるようになった。
そのルートは;
  湯坂道→小田原→酒匂宿-押切川-吾妻山の下-大磯-六所神社

   健治3年(1277)藤原為家の妻 阿仏尼は、湯坂道を下り、酒匂に泊り翌日鎌倉に入ることが
   「十六夜日記」に記されている。

      浦路行くこころぼそさを波間より 出でて知らする有明の月  阿仏尼
   (国府津-二宮間の前川 車坂の脇に説明板あり)

(その後、足柄路は、小田原と甲州を結ぶ役割が大きくなった。)

 大山道

 江戸時代に入ると、大山詣が盛んとなり、大山に向かう道は各地に発達したが、このうち東海道から別れる主な大山道は、戸塚の東の柏尾通り、藤沢の西の田村通り、国府津東の羽根尾通り、小田原方面からの六本松通りの4道であった。
 六本松を通るルートは、酒匂川を渡り、飯泉、曽我を経て六本松峠を越えて 羽根尾通りに合流し、井ノ口から、大山へ向かった。また沼津、三島を経て箱根峠を越えてくる参拝者の道でもあった。

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六本松から二宮吾妻山方面を望む
 案内板で確認しながら、南への坂道(大山道/国府津方面への道の左側)を下る。(その後すぐ東に向かう)
しばらく下ると、右に福祉施設「よるべ沼代」の建物は見え、すぐに、広い自動車道の「やまゆりライン」にぶつかる。

道の風景
 新たに拡張された道で、なだらかな坂を下って東へ進む。右に明沢川が見え、しばらく進むと、南北の道と交差する。
 自動車道から別れて左に入る道が、旧道である。
 左側に明澤墓地があり、入口には宝篋印塔の名残のような古い石塔が建つ。
さらに進むと、自動車道と合流する。

道祖神









 合流地点の自動車道側道端には自然石に彫られた双立道祖神が、屋根で護られながら建っている。 旧道には石仏が立ち、また、その先には牛頭観世音の石塔もある。
   

馬頭観音
 再び左側の旧道に入ると、左側に入る道路の斜面にに祠と石仏が真ちまって建っている。
中央の大きな観音像には、普段あまり見ることのない頭に馬の頭が浮き彫りにされており、文政11年(1828)の刻印がある。他に、庚申塔や供養塔、石仏が並べられている。
 車道に出てから、やまゆりラインは北に向かうが、そのまま東に直進し、坂呂橋交差点で中村川に沿って南北に走るバス道路にぶつかる。

道の風景


 交差点の手前には、道祖神や石塔が並んでいる。
江戸時代には、このバス通りは「羽根尾通りの大山道」として多くの往来があった。
一つ先の信号の先を左に入るのが旧道で、古い面影が残る。

白髭神社
 バス道路に出て南下し、信号が見える手前を左手に入ると、色髭神社がある。
説明板によれば、「もともと地蔵堂があったが、伊勢神宮の神官が泊った所、白髭の夢を見たので、社殿を造り元慶元年(877)盛大に鎮守祭を行ったのが起源とされる」という。境内裏側には、変わった彫りのある大きな石塔が立っている。文化9年(1812)、願主 当村 露木仠兵衛の銘がある。

広済寺




 バス道路に出て新幹線をくぐり羽根尾の町に入る。真西に延びる参道があり、"北条早雲位牌"の広済寺がある。
建立は天正13年(1585)というが、説明板によれば、『それ以前は、(ここから西に向かって廣宣寺-弁天山-国府津へと通る)箱根路の宿場上町にあって、大山道が開けてこの地に移ったという。そのころ、明応4年(1495)小田原城を奪った北条早雲が、三浦道寸義同(よしあつ)との戦いをはじめ、永正9年(1512)に平塚/伊勢原の岡崎城で三浦氏を敗走させるまで17年間にわたり北条氏に絶大な尽力をしたので、早雲死後、その位牌を納めたと推定している。』という。
樹齢300年といわれる柿の木が山門左手にある。

川匂の湯場
 広済寺の次の信号を左に入り、川匂神社に向かう。
中村川にかかる橋の手前に自然石に彫られた道祖神が2基と石の祠が立っている。酪農の建物をすぎてからは、畑地が広がる。
 途中の小高い丘の下に川匂の湯場跡がある。古くから川匂の湯として広く知られていたが、関東大震災ののち、水脈が変わりなくなったという。

川匂神社
 すぐ先が、相模二宮として知られる川匂神社である。
説明板-由緒-によると、古くから二宮大明神と称し、延喜式にも記載されている名社で、垂仁天皇のころこの付近を磯長国といってその国造であった阿屋葉造(あはやのみやっこ)が勅命により創建したという。建久3年(1192)源頼朝が政子の安産祈願のために神馬を奉納するなど、北条氏や、小田原北条氏、江戸時代の小田原藩などの崇敬を受けたという。

庚申塔
 このまま、南にまっすぐ下ると東海道にでるが、今回はもと来た道を戻り、大山道を通ることにした。信号まで戻り、バス道をすすむと、次の信号のある交差点の南西の角の空き地に庚申塔や道祖神が立っている。(反対側には、石仏や石塔なども立っている)
 この右端に立つ庚申塔は三面に像が彫られその下に猿が一匹ずつ彫られている。(通常の庚申塔は像の下に3猿がまとめて彫られているのが一般的である)

押切橋
 信号から約300m南に進んだ右側に小さな中村原公園があり、その北側の道の民家の塀の間に石仏などが並んでいる。その一つに「大山道」と彫られた道標がある。東海道の車坂をすぎた先に、大きな「大やまみち」という道標が立っているが、そこからの道がここに続いてきたのもと思われる。
しばらくすると、東海道に突当り、西に向かって押切橋を渡り、二の宮方面に向かう。

薬師堂
 東海道の坂道を登り、旧東海道と合流する手前、左側に薬師堂がある。江戸時代の作といわれる薬師如来坐像の解説がある。

等覚院
 二宮駅に行く途中に、左側の旧東海道へ入る道がある。
古くから有名な藤の木がある等覚院に寄った。樹齢約400年といわれている。タイミングよく白い藤の花が咲いていた。
  
すぐ先で東海道に合流し、約1km先で二宮駅に着く。
散策日  2009年5月1日 下曽我駅-二の宮駅
参考  小田原の史跡 川東版 (小田原市教育委員会)

 「かながわの道」  阿部正道