下曽我の散策 (1) 地図 ①下曽我駅・城前寺付近 ②六本松・別所付近
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| 17歳まで住んでいた下曽我だが、その当時はここの古い歴史にはほとんど興味がなく暮らしていたが、鎌倉時代の古道を各地歩き始めて以来、歴史上重要な位置を占めることがわかった。 鎌倉時代には足柄平野と二宮・大磯を結ぶ鎌倉古道が通っており、また、のちには小田原と今の秦野を結ぶ大山道が通っていたところであり、今回改めてこの地域を散策することにした。 |
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| まずその第一回目として 、小田原NPO法人小田原ガイド協会の主催で、≪観梅と史跡めぐり≫のコースがあったので、その時の散策をもとにまとめる。、 |
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| 下曾我駅 | |||
| こざっぱりしている駅で、外装などはきれいななっているが、建物の構造やホームへの連絡通路などは昔からあまり変わっていない。 JR東海のため、SUICAが使えない。(JR東海の一番東に位置する駅-新幹線を除いて-である。) |
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| 駅前道路 | |||
| 御殿場線に沿って走る県道72号線(国府津-松田)につながる駅前の道路は、昔からの正栄堂や風月堂があり・・・五郎餅、あけぼの梅・・・懐かしい通りである。 |
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宗我(そが)神社の鳥居 |
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| 県道の信号を渡ると、左手に宗我神社の参道にはいる大きな鳥居があり、手前には「左 宋我神社、右 曽我兄弟遺跡城前寺」と刻まれた大きな石標が建っている。右手の道のすぐ先には城前寺の森が見える。 | |||
尾崎一雄文学碑 |
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| 鳥居の脇には、尾崎一雄の文学碑が立つ。 石碑に刻まれているのは: 富士は天候と時刻とによって身じまいをいろいろにする 晴れた日中のその姿は平凡だ 真夜中冴え渡る月光の下に鈍く音なく白く光る富士 未だ星の光が残る空に 頂近くはバラ色 胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士 「虫のいろいろ」 1937年「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞、神社の手前に旧宅跡がある。 祖父の代までは代々宗我神社の神官。 中学校の教科書に尾崎一雄の本の一部が掲載されており、その件でお宅に伺った思い出がある。 |
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| 宗我神社 | |||
| 神社のしおりによると、明治28年の神社上書のよれば「長元元年(1028年)に大和(奈良県)高市郡(橿原市)蘇我郷の人、宗我播磨守保慶という人物が祖先の宗我都古命(そがつひこのみこと)を祀った」のが始まりという。(祖先とは4~5世紀に大和政権の蝦夷地鎮定のおり、蘇我氏の部民が曽我の郷に定住した人たち) その後、いくたびかの変遷の後、曽我郷の総鎮守として再建され、江戸後期には「小澤大明神」となり明治2年に「宗我神社」となった、という。 一方「新編相模国風土記稿」によれば、曽我祐信が鶴おか八幡を勧請して応神天皇を祀り、北条氏が小田原城の鬼門守護のため平家の太祖桓武天皇を勧請し祈願所としたと記されている。 社殿東側には、安元2年(1176年)に曽我祐信が祀ったという「千勝稲荷」と称する稲荷社があり、裏には石碑が並ぶ。 その中に御霊社というものがあり、建久6年(1195年)曽我兄弟の3年忌に曽我祐信と松原鬼王丸らが勧請し兄弟の霊を祀り御霊大権現と呼んだものと伝える。 |
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小沢明神薬師堂跡 |
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| 宗我神社から東に向い最初の角を左折すると曽我谷津公民館がありその左に「小澤明神薬師堂の旧地」という案内板と浮き彫りの石仏がある。 それによれば、「ここには小沢明神(宗我神社)の本地仏(神体仏)とされる薬師三尊が祀られ、その堂は古くから『小澤山神宮寺』と称した。大正3年に薬師三尊は薬師堂とともに法輪寺に移った。」という。 |
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法輪寺 |
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| 公民館あたりは、法輪寺の大門と呼ばれており、そのまま来たに進むと、境内に至る。 盤谷山法輪寺は、臨済宗建長寺派で、延文3年(1358年)建長寺35世了道素安(本覚禅師)によって開かれた。 末寺に助信山宗泉寺という曽我祐信の菩提寺があり、「崇泉寺殿智慧獄祐信大居士」という位牌とともに合併したという。 位牌裏面には正治2年(1200年)ときされている。 本堂左手に薬師瑠璃光殿がある。これは上記の小澤明神薬師堂を移築したもので薬師三尊が祀られており、平安時代のものと言われる。手前にある宝篋印塔は、剣沢左岸で修業していた木食行者澄禅上人んが、夢で感得した抱留孫仏(くるそんぶつ)の舎利を納めるために元禄2年(1689年)に建てたといわれる。 |
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大光院 |
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| 由緒によれば、諸法山実相寺と称し、文明18年(1486年)に曽我祐信より11代目の祐高の末子 氏重によって不動明王を本尊として再建された、という。 本山修験宗(山伏)の総本山聖護院の末寺。 法輪寺から大光院へ:殿澤川 |
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道祖神 |
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| 大光院から城前寺へ向かう途中の右側に、道祖神と石塔が建つ。 角がすり減っていて年代を感じさせる双立型道祖神である。 |
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五郎の沓石(くついし) |
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| しばらく進むと石垣の中ほどにくぼみがあり、五郎の沓石(くついし)と言われる平たい石と説明板がある。 曽我五郎がある時、足を患ったが、治った際自分の体力が衰えていないかと心配になり、試しにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真ん中辺りに残っている。以前は、足を病んだ人たちが祈願に訪れたという。 |
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| その先左手に城前寺の境内の高台が見えてくる。角を左折すると、目の前に足柄平野と箱根の山々が一望に見渡せる場所となる。 (下曽我駅のほうから来ると、右手にあたる) |
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城前寺 |
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| 稲荷山祐信院城前寺とよぶ浄土宗の寺である。曽我兄弟の義父にあたる曽我祐信の創建といわれる。最初に建てられた場所が、曽我氏の居城の追手に建てたので城前寺と呼ぶという。 また兄弟の叔父の宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うため、居城後方に建てた稲荷山祐信院を現在地の近くに移したのが寺の起こりともいわれている。 石段を登ったところに、青銅露座の阿弥陀如来座像がある。後ろの説明板によると、赤穂義士の一人、吉田忠左衛門兼亮の子で、当寺14世の到誉(とうよ)上人が、亡夫33回忌の元文元年(1736年)に建てたものという。 |
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| 本堂の裏手に曽我五郎・十郎、曽我祐信と母満江御前の墓といわれる4基の五輪塔がある。 境内では、毎年5月28日に兄弟討ち入りの際、傘を燃やして松明にしたという伝承にちなんで「傘焼き祭り」が行われている。 なお、五輪塔のあるところは、曽我城の土塁跡という。、 |
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太宰治ゆかりの家 |
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| 城前寺前の道を50mほど東へ行くと門がある。実業家加来金升の別荘で、昭和5年に建てられたという。 太宰治の恋人の一人、大田静子が昭和18年からここに住んでいて、昭和22年太宰がここに滞在し、その間一緒に尾崎一雄に挨拶したりした。 太宰の「斜陽」の舞台は伊豆であるが、下曽我の建物や庭が下敷きになっているという。 |
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曽我祐信屋敷跡 |
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| そこから北に向かうと、一帯がみかん畑となる。その奥に曽我氏館跡という大きな石碑と説明板が建つ。 それによれば、「『新編相模国風土記稿』によると曽我太郎祐信屋敷跡が「『(曽我谷津)村の南方』・『城前寺の後』にあり、四方を道で囲まれているとしている点から、館跡はほぼこの丘一帯と考えられる」としている。「その規模は『方二三町許』(一辺が約200~300mの四角形)で、外構えの土塁の跡や、高さ2.5m前後の土塁で囲まれた内郭跡(一辺が100mほど)が館跡の中央に残っていたことが記されている。」という。 平成元年この区域の一部が発掘調査されたが、館にかかわる遺構・遺物は確認されていないという。 |
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物見塚古墳 |
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| その先には、平成5年建立の曽我一族郎党の供養御堂や物見塚古墳の石柱・説明板が立っている。 古墳の説明板によれば、「平成元年発掘調査で、古墳の石室や側壁、天井石は消失していたが、玄室部分には小さな川原石が敷き詰められ、鉄鏃(鉄製やじり)や金環などが出土し、その結果、古墳時代後期(7世紀)の墳丘をもつ円墳であったと推定される。」という。また、西側の一画からは、弥生時代から室町時代頃と考えられる柱穴が多数確認され、付近一帯では古くから人々の生活が営まれていたことがわかる。」という。 |
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お花畑と呼ばれる地 |
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| この付近一帯は古くから「お花畑」と呼ばれてきた、という。説明板によると、「花畑という地名は、領主の館などに付属している花畑や、薬草園で、ここの一帯は村人の立ち入りが永らくはばかられてきた。一説にはそが兄弟の塚ともいわれている。」「昭和3年、この地から火葬骨の入った骨壺が発見された。若者の遺骨であると判断され、曽我兄弟と見られるとの見解もある。骨壺は、城前寺の伝曽我兄弟の墓に納められた。」という。 |
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道の風景:剣沢から曽我の館方面を望む |
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| ここから東に横たわる曽我の山-六本松に向かう。 剣沢の東側一帯は梅畑が広がっている |
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| 曽我祐信の宝篋印塔 | |||
| 梅畑をぬけ急な坂道が始まり、みかん畑が続く。 左側の高くなっている林の中に曽我祐信の宝篋印塔がある。「祐信さんの供養塔」と呼ばれてが、造塔の意図や年代など一切不明という。 台座から相輪まで2.2mあり、鎌倉時代の関東における基本的な様式を備えた大宝篋印塔で、昭和36年に市の重要文化財に指定されている。 市教育委員会の「小田原の史跡」によれば、この宝篋印塔については、祐信の墓と書いた道標や、鎌倉時代に祐信が所領した伊予の百姓が寄進したという記述もある(日下部照著「曽我遊覧案内」ととしている。 |
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六本松への道 |
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| 急な坂道を登り切ると比較的平坦な登り道があり、視界も良くなる。 曽我山の峰の一つの山彦山に至る。その通りを曽我の六本松と呼ばれる峠がある。 江戸時代の末、天保の頃にはすでに六本松はなく、相生の松と呼ばれる大きな松が一株だけ残っていたという。 左側に入った道の脇には、途中に大正2年に建てられた相生の松の碑がある。 |
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六本松峠 |
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| 鎌倉時代にはこの峠は、鎌倉古道として、曽我郷の曽我氏、中村郷の中村氏の豪族いたころから足柄平野と二宮・大磯を結ぶ鎌倉古道が通っており、また、のちの大山信仰の 大山道が重なっていたところで、戦略上の拠点であった。 |
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| 相生の松の切り株の近くに、尾崎一雄の父で、宗我神社の神官でもあった孤山人尾崎八束翁の詩碑が建っている。 |
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| その右側にに、句碑があり、次の二句が刻まれている。 ほととぎすなくなくとぶぞいそがはし 芭蕉 人が知る曽我中村やあお嵐 白雄 (白雄は大磯鴫立庵5世の春秋庵のこと) |
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忍石 |
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| ここから尾根沿いの道を200mほど北に行くと畑の端に小さな小屋があり、中に石が置かれている。その脇には、「伝 曽我十郎・虎御前の『忍石』」という案内板が立っている。 ここで、十郎が仇討の前に、恋人である大磯の虎女と別れを惜しんだとか、十郎が死んだあと、虎御前は満江御前をしばしば訪ねたが、大磯への帰途、満江がここまで虎御前を送ってきて、二人でこの石に腰を掛けて亡き十郎を忍んだとも言われている。 |
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二宮・大磯方面 |
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| 忍石から六本松の跡の碑まで戻る途中から、大磯方面がきれいに望まれる。 正面の小高い丘が二宮の駅の北側にある吾妻山である。 虎御前は、大磯駅の東方向にある化粧坂付近に住んでいたという。虎御前が朝晩化粧をしたという化粧井戸も残る。また大磯の駅近くの旧東海道の南側にあるに延台寺は、虎御前が兄弟にを忍んで結んだ庵の跡に建てられたと伝えられている。そこには、「虎女供養塔」も建つ。 |
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足柄平野と相模湾 |
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| 六本松から大山道をたどり、別所に向かう。途中右側には、富士山と足柄平野が広がり、前方には相模湾が見える。 左側下に見える薄緑の屋根の建物が、下曽我小学校である。 中央茶色のビルは曽我病院。 |
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大山道 |
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| 途中、大山道から外れて、見晴台のある快適なハイキングコースを通り、ほぼ山を下り切ると、平地となった梅林の脇に大山道の案内板が立っている。 小田原から大山への参拝のルートで、大山不動尊への信仰と同時にレクレーションも兼ねた江戸時代に大いに流行ったという。案内板によると、曽我の大山道のルートは、千代-曽我原-殿沢川-曽我別所-六本松峠-田中ということである。 |
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二宮尊徳遺髪塚 |
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| その先の一角にに、「二宮尊徳先生御遺髪塚」と刻まれた大きな石碑が、なじみのある薪を担ぎ書物を読んでいる二宮金次郎の銅像とともに建っている。 二宮金次郎(1787~1856)の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であり、その子孫の民次朗は下野の国の桜町で尊徳に仕えていたが、帰郷のおり、資金を与えられて川久保家を建て直した。 尊徳の死後、民次郎はその遺髪を得て曽我へ帰り、孫の与三郎が、この塚を昭和13年に建てたという。 |
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満江御前屋敷跡 |
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| そこから南に進み左折して100mほど行くと、曽我別所公民館がある。古くから「大屋敷」の地名で呼ばれ、満江御前が住んでいた曽我氏の下屋敷の跡と伝えられている。案内板によると、この屋敷の東南に隣接する安池家と武藤家の祖先は、伊豆から満江御前に従ってきたという家臣と伝えられている、という。 またここは、「工藤佑経の仇討のため富士の巻狩りへの出発前、兄十郎のとりなしで母満江御前との対面も叶った曽我兄弟は、今生の別れを惜しみ御前から形見の小袖を乞い受けた。」という謡曲『小袖曽我』の舞台跡でもある。 |
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別所薬師堂 |
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| さらに南に進んだ左側に、別所薬師堂が建っている。 案内板によると、本尊は行基の作といわれる薬師如来で、もと山彦山薬師沢の奥の佛体ヶ窪という所に奈良から平安時代にかけて安置されていたが、戦国時代の兵火で焼けてしまい、「やけ薬師」と呼ばれていた。そのご小田原唐人町の中国人葉七官の配下の者が、この地に草庵を結び、後に谷津法輪寺の末寺となり、応福寺と称したという。明治に廃寺となり、薬師堂だけが面影を残している。 |
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満江御前の墓 |
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| さらに南にいくと、法蓮寺の墓地があり、一角に満江御前の墓と、案内板がある。 満江御前は、河津三郎佑泰と再婚して 一万(十郎)、箱王(五郎)と律師坊実永を出生した。 佑泰の死後、舅の伊藤佑親のすすめで、安元2年(1176)に曽我太郎佑信の夫人となった。 兄弟の仇討の後、建久6年(1195)に夫の佑信とともに出家し、曽我別所に大御堂を建て、兄弟の霊を供養してきたが正治元年(1199)兄弟の七回忌の5月28日に没した。満江は50歳ぐらいだったという。 |
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法蓮寺 |
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| 法蓮寺はもとは天台宗だったが、慶長19年(1614)に日蓮宗に改宗したという。 安永3年(1774)、酒匂小八幡の海で魚網にかかって出現したといわれる木彫毘沙門天立像が毘沙門堂に祀られているという。 |
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下久保の道祖神 |
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| 法蓮寺から県道にでる手前に、題目塔や道祖神が並んでいる。 南無妙法蓮華経と彫られている題目塔には、安政5年(1858)7月下旬から疫病(コレラ)が流行したが、「8月6日より9月10日まで、老若、子供まで打寄、昼夜御題目唱、何事も無」という銘文がある。 また 道祖神は、小田原市内で最も多く見られる浮き彫り双立像で、中央に建つ地神講碑は、弘化3年(1846)の造立である。 |
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下久保の氏神八幡社 |
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| すぐ近くに、小さな社が建ち、案内板がある。 創建・由来については明らかではないが、旧曽我別所村のうち、下久保、防田地区の氏神で、藩政時代は、日蓮宗法蓮寺持ちの社であった、という。 |
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曽我梅林 |
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| 県道から西側一帯に梅林が広がり、丁度、梅まつりの真っ最中であった。 曽我の梅林は、曽我別所梅林、中河原梅林、曽我原梅林からなり、規模はおよそ90ヘクタール、今は3万5千本の梅が植えられているという。 すでに500年前から植えられ、北条氏の時代には軍用に供するために梅干し作りが奨励され、江戸時代には箱根越えの旅人が弁当の腐敗防止用として重用されていたという。 |
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| ここから下曽我駅まで、小学校と御殿場線の間を通って数百メートルである。 |
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| 図書館で興味深いパンフレットを偶然見つけた。 草壁芳村 「遊覧案内曽我の里」 昭和9年3月発行 |
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| 散策日 | 2008年2月17日 | 下曽我駅-駅 |