中の道 9.東川口-岩槻
地図 @石神-東川口 A東川口−釣上(かぎあげ) B釣上-岩槻
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東川口駅から旧岩槻街道のもとになった旧道を、綾瀬川の東側で元荒川との間の台地を北上して岩槻にいく。
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貝殻坂 |
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東川口駅から旧御成街道との分岐点である貝殻坂まで行き、東側の低地に進む。大門坂下公園があり、西側には大門に続く道が台地を通っていたことが良く分かる。
下った先は、自動車道まで消えている。
大門坂下公園→ |
国道463号 |
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公園から 東に行き、けやき通りを北に進んで国道463号線で東に向かう。
交通量の多い道である。やがて綾瀬川の畷橋をわたる。 |
馬頭観音 |
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川を渡ったさきの信号のすぐ左手の民家の脇に、石塔が立っている。
明和2年(1765)の馬頭観音であり、古道らしさが表れている。 |
県道324号へ |
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その先の「釣上(かぎあげ)*交差点」で国道を左折し、広い歩道のあるバス道(県道324)を北西に進む。
交通量は以外に少なく畑が広がるのんびりした景色が続く。
信号から約300mほど先の左側の歩道と農家のブロック塀の間に巨大な庚申塔が立っている。
*以前の字は鈎が使われていた。 |
巨大な庚申塔 |
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 高さが約180cmぐらいあり、今まで見てきた中では最高の大きさの庚申塔である。
正面には庚申塔の主尊である青面金剛像が大きく彫られ、その下に、邪鬼、三猿がある典型的な塔で、、左面には供養文がぎっしりと刻まれ最後に「春善 謹書」とあり、右面には 宝永5年(1708)の文字がかすかに読み取れる。
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ここから先は、浦和越谷バイパスの信号を越え、釣上公民館を過ぎて、コスモ石油の先にある信号まで、自動車道(旧岩槻街道)をすすむ。 |
バイパス手前 |
釣上公民館前 新和小学校入口 |
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台地へ |
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信号と共に「新和小学校→」というサインがある。真っ直ぐ行かずに、ここから右に入り丘陵地帯に上るのが、旧道であろう、 と芳賀氏は述べている。
なるべく台地を通るのが一般的であり、この先にある勝軍寺には庚申塔群の中に岩槻道を示す道標があり、源氏の八幡信仰と関係のある八幡神社がその隣にある、などの理由によるとしている。 |
尾ヶ崎観世音 |
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200mほど行き小川を越えた先に尾ヶ崎観世音堂がある。
境内に大小2つの庚申塔がある。享保11年(1726)と宝永4年(1707)が刻まれている。
ひねり観音と呼ばれていたという事が、市の「岩槻の伝説」に掲載されている。
堂の前から台地に上り高台を進んで行くと、東南方向に埼玉スタジアムの大きな屋根が見える。 |
勝軍寺 |
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学校の脇を進むと右側に勝軍寺がある。
本堂までの長い参道の左手に庚申塔が数基並べられている。元禄5年(1692)、宝永3年(1706)、の年号があり、またそのうちの一つには「・・・・道・・・・一里五町」 と道標を兼ねているものもある。 |
尾ヶ崎八幡神社 |
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勝軍寺の隣に八幡宮があり、その境内に「尾ヶ崎夏祈祷の由来」と題された詳細な説明板がある。フセギ行事、マラ立ての行事の様子が書かれている。
ここから先のバス道に合流するまでは、以前は凹道であったというが今は面影もない。 |
庚申塔 子育地蔵 |
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バス道に合流して左側バス停(笹久保)の横に墓地があり、その入口付近にやはり大きな庚申塔が立っている。(享保8年(1723)建立)
笹久保の交差点を過ぎ、しばらく行くと地蔵院があり、入口の地蔵堂に本尊地蔵菩薩が立つ。宝永年間(1704〜11)頃の造立といわれ、子育地蔵と呼ばれているという。
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笹久保八幡神社 |
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すぐ先に鳥居の奥に長い参道のある八幡神社がある。源義家が奥州征夷の途中この地に軍配を鎮めて武運の長久を祈願した所といわれ、川口以北では最初の源氏の伝説地であるという。
また「古式子供土俵入り」が奉納されており、説明板が入口に立ってる。 |
道祖神 |
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ここからほぼ2km先の国道16号線と出会うところまでは、ほぼ一直線の道が続く。
数百m先、浮谷地区に入り、両側に 工場が並んでいるところ左側に小さな祠があり、中に 種子付きのきれいな道祖神が祀られている。 |
庚申塔 |
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しばらく歩くと県道48号線を越え、すぐ国道16号線となる。信号を越えてすぐ右に元浅間公民館があり、右側手前に3基の庚申塔、屋上に浅間神社がある。いずれも140〜150cmほどの高さがあり、寛文11年(1671)、寛文12年(1672)、延宝5年(1677)であり、右端の延宝の庚申塔には、おまん、おかめ など6人の女性の名が刻まれている。 |
住吉神社 |
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この東側にある細い道が旧道の続きの様であるが、北に300mほど進むと、大田小学校があり、ここで途切れる。
ここから東に行き、岩槻城跡を見に行くことにする。
右手に住吉神社がある。享保3年(1718)から新曲輪町の城山に祀られていたのがここに移されたという。この辺りは林道町・六番町と称されて岩槻城下、交通の要所であったという。 |
岩槻城跡(1) |
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その先、左手に岩槻城跡に上がる道があるが、そこに「新曲輪」の石柱が立っている。
坂の上に、昭和46年(1971)建立の現代的な「人形塚」が立っている。岩槻の人形作りの起源は、江戸時代の初め、日光東照宮造営の頃とされているという。 |
岩槻城跡(2) 城門 |
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岩槻城の城門と伝えられる門がある。
廃藩置県による岩槻城廃止に伴い、城内より撤去され、他で使用されてきたが、昭和45年(1940)に移築されてきた。 
裏門と伝えられる門も移築されている。
公園内の景色→ |
岩槻城跡(3) |
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岩槻城址公園は、岩槻城の新曲輪部分にあたる部分であり、本丸などの主郭部はこの北方に位置していたが、今はない。
岩槻城は、大田道灌が江戸城北部に城として古河公方に対抗するために長禄元年(1457)に着工、寛正3年(1462)に完成したもので、関東では小田原城に次ぐものであったという。その後、北条氏に属し、寄居の鉢形城、八王子の八王子城と共に北条の武蔵での3大勢力となった。
秀吉の小田原城攻撃の際、籠城で守ったが浅野長吉の猛攻にあい落城。
家康の関東入り後は、譜代で幕府要職のものが城主となった。
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時の鐘 |
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公園北の駐車場から北西に向かい、バス道路を西に進む。
渋江の交差点があり、南から来る道が小学校で消えた旧道の続きである。 南に少しいくと、時の鐘と広場がある。
寛文11年(1671)城主阿部正春の命により鋳造され城下に時を告げたが、その後ひびが入ったため享保5年(1720)に城主長井直信が改鋳したのが現在の鐘という。
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浄安寺 |
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渋江の交差点まで戻り、そのまま北に 行くのが旧道であり、少し先の浄安寺まで行く。
寺のHPによると、永正2年(1505)増上寺の住持だった了聞上人がそれまでの真言宗から浄土宗に改宗、中興開山したという。円空仏などの像が残されているが、境内には、この後見る遷喬館を開設した児玉南柯(なんか)の墓がある。
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遷喬館(せんきょうかん) |
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渋江の信号から岩槻駅方面に行き、岩槻区役所の西の道に入ってから右折して200m弱の所(向かい側が公民館)に、解体復元工事により当時の姿をとどめている遷喬館がある。
児玉南柯が岩槻藩の要職を務めた後、寛政11年(1799)に私塾として開設し、のち文化2〜8年(1805〜11)に藩校となった。
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岩槻駅への道 旧日光御成街道 |
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国道122号(旧道)に出て、岩槻駅に向かう。
人形の町らしく奇麗に整備され、人形店が並んでいる。
駅前にはからくり人形時計が立っている。 |
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