三浦半島の城めぐり(2)   浦賀城、新井城 三崎城を廻る


       地図   ①浦賀   ②油壺  ③三崎 


 衣笠城に続いて、三浦半島に南に位置する三浦氏の城跡とその途中にある寺社を廻る。
まず浦賀城址を訪れた後、電車・バスで油壺まで出かけ 新井城から三崎城へと散策する。


(1)浦賀城


 浦賀駅近くまで入り込んでいる浦賀港の, 浦賀水道に面している出口の東側の山に浦賀城があった。
駅を出て、浦賀港の東側沿いの観音崎通りを南に向かう。

 「浦賀ドッグ」の名前で呼ばれてきた造船所の建物の跡が、海側に並んでいる。
クリックすると拡大しばらく進んだ「大ヶ谷}バス停前の塀に、「浦賀ドック」の説明板がつけられている。
 嘉永6年(1853)に、幕府により浦賀に近代的な造船所が開設された。
翌年、日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸を建造し、咸臨丸などを修理した。
その後 明治30年(1897)浦賀船渠株式会社が創設され、その後 住友重機械工業となった後、平成15年(2003)に閉鎖された。
     (→1950年代のドック全景・・・クリックすると拡大)

八雲神社
 駅から数百m先、左側に八雲神社参道入口という標識が立っている。
細道を入った奥の石段の先に八雲神社がある。
社は江戸時代の建立で、もとは大谷山満宝院八雲堂という修験の寺で、明治維新での廃仏毀釈により、神社に替わったという。
お堂の屋根には寺院形式の宝珠が乗っている。
 境内に当時の屋根に乗っていた宝珠が置かれている。

乗誓寺
 100m程先2つ目の信号の左に乗誓寺がある。境内の石碑にある由緒によれば、
開基は平塚入道了源という。了源は曽我十郎祐成の子(母は大磯の虎御前)で河津三郎信行と称した。
信行は源実朝に仕えたが親鸞聖人の教えを受けて出家し、了源と名乗り、後関東六老僧の第二座に列したという。
 安貞元年(1227)平塚に阿弥陀寺を建てた。 その後、文明元年(1469)比叡山の衆徒による京都西本願寺大谷祖廟の破却を知り 当時の住職は大磯から東浦賀に逃れ、阿弥陀寺の本尊を移した。 寛永14年(1637)より乗誓寺となる。

なお当寺の歴代住職は世襲制により引き継がれており、曽我兄弟十郎の子孫という。」
 

 観音崎通りに戻り、信号から東を見ると、緩やかな坂道で両側から山が迫って切通しとなっている、
ここは、これから訪れる浦賀城の空堀跡だったという。

顕正寺
 乗誓寺の真向かいの細道を南にいく。
すぐ左手に顕正寺がある。境内に掲げられている「浦賀探訪くらぶ」による説明板によると、
「天正元年(1572)創建と伝わる日蓮宗の寺で、江戸時代中期の陽明学者で晩年浦賀へ移住した、中根東里の墓がある。」という。


 すぐ隣に鳥居があり、それほど大きくないが豪華に彫刻を施された東耀稲荷がある。

東耀稲荷

  創建は天明2年(1782で、隣の東耀山顕正寺の山号からとった名前で、古くはその境内にあったという。
 屋根には恵比寿と大黒天の飾り瓦がのり、欄間,の彫刻は豪華である。

   格天井→


専福寺

 細道を南に行くと、專福寺がある。 永正元年(1504)創建という。

本尊の阿弥陀三尊像は 江戸時代の仏師 高村東雲(高村光太郎の祖)の作という。文化3年(1806)ごろ小林一茶が初恋の人の菩提を弔うために何度か訪れたという。

細道の先の十字路を右に行くと渡船場あり海が見えるが、そこで左折する。
 
 すぐ先の左へ入る細道の奥の山のふもとに、石灯籠と石段が見える、


東林寺
 左の石段を上ると東林寺で、右手の低い石段の先は三浦稲荷社である。
 東林寺は、大永3年(1523)の創建で、鎌倉光明寺末寺という。
 浦賀教育委員会の大きな説明板が立ち、「本堂には、室町時代に鋳造されたという『善光寺式阿弥陀三尊像』が安置され、また、
鎌倉時代後期のものと考えられる『阿弥陀二十五菩薩来迎図』が残されている。」という。

三浦稲荷社
 境内に南無阿弥陀仏と刻まれた彫りの深い六字念仏塔があるが、「浦賀探訪くらぶ」の説明板によると、「江戸屋半五郎によって建立されたもので、江戸屋半五郎は浦賀で遊郭を営み(のちに解放)、後に徳本上人の弟子 深本(深心)となり仏門に帰依したという。
 また 『浦賀事跡孝』によれば東林寺境内の稲荷前で 文化6年(1809)当時の花形力士雷電為右衛門の相撲興業が行われたと記されている。


「深本」が寄進したという西叶神社手洗石がおかれている。

法幢寺(ほうどうじ)
 少し先左へ入る。「明応2年(1493)の創建といい、本堂には恵心僧都の作といわれる阿弥陀三尊像が安置されている。
「山号の円城山は、この辺りが浦賀城の一廓であったことを物語るものです。」の説明板。


東叶神社と明神山・浦賀城跡
 右からの海岸沿いの道と合流する所に、大きな鳥居と山裾に大きな拝殿を構える東叶神社が現れる。
養和元年(1181)京都神護寺の僧 文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮を勧請したのが始まりといい、その後 頼朝にその願いが叶ったことから 叶大明神の名で呼ばれるようになったという。
今の拝殿は、関東大震災の後昭和4年(1929)に竣工したもの。

 神社の裏山は標高約50mの明神山で、浦賀城の跡である。

 社務所の奥に、勝海舟が断食前に使ったという井戸がある。
安政6年(1859)幕府は日米修好条約の為海臨丸を派遣を決定。
その艦将の勝海舟は、東叶神社に詣り、太平洋横断航海の祈念し断食修行に入ったという。


   
 拝殿前から見た浦賀湾。対岸の少し北側には、西叶神社がある。
拝殿前には、子どもを抱いて乳を飲ませている狛犬が建つ。

奥の院  浦賀城主曲輪跡
 拝殿の脇の「惠仁志坂」と刻まれた石柱のある石段をのぼっていく。
 山頂になると、こんもりとした木々に囲まれた広いスペースがあり、本殿の奥の院がたっている。
ここが主曲輪跡であったものと思われる。

<神明社>



 





→ その一画には東照宮があり、その左手に「勝海舟断食の跡」との標識が立っている。

浦賀城址 本丸跡
 すぐ先が明神山山頂で、浦賀探訪くらぶの「浦賀城址」の説明板がある。それによると、「北条氏康が房総里見氏からの攻撃に備えて、三崎城の出城として築いたといわれている」としている。
 ここが浦賀城の本丸にあたり、この北に位置する専福寺、東林寺の東の山に、出丸が築かれていた。
又、明神山の東側には、大きな谷間があり、船蔵が造られていたといわれる。

 晴れていれば房総半島が十分見渡せる距離である。

浦賀城について
 もともとは、三浦一族である横須賀連秀が、ここを拠点としていた。
横須賀氏は、平安末期の衣笠城主 三浦義明の子で佐原城主の孫が横須賀氏を名乗ったことにはじまり、その9代目である。
 北条早雲の三浦攻めにより、新井城主の三浦道寸が永正13年(1516)に滅んだが、横須賀連秀は道寸とわかれて早雲側についたことで、生き延び、水軍を率いて北条氏に仕え、海上の警備の任にあたった。
その後、安房 里見氏がたびたび三浦半島に現れ、弘治2年(1556)には北条軍との大合戦となった。
そこで、北条氏康は 北条水軍の根拠地としての三崎城の支城として、浦賀城を改修・整備し、浦賀海賊衆として安房の里見水軍からの防衛にあたらせた。
 北条氏の滅亡ののち、廃城となった

 

渡船場
 もと来た道を戻ると、「浦賀の渡し、渡船場」がある。
享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」には、すでにその操業が確認されている。
 浦賀港の東西を結ぶ230mほどであるが、今でも使われている。
向かい側には、西叶神社の屋根がみえる。

徳田屋跡
 渡船場の角から北側2軒目の前に徳田屋跡の説明板がある。
江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館があったという。(文化8年(1811)に正式に御用御宿となった。)
ペリーが来航した嘉永6年(1853)に、黒船を見聞するために吉田松陰が2度目の宿泊をして、ここで佐久間象山と会っているという。
安藤広重や木戸孝允など、浦賀を訪れた多くの武士や文化人が宿泊しているという。(関東大震災で倒壊し姿を消した)

ここで、浦賀城の散策は終り、つづいて新井城跡を訪れる。
 浦賀駅から堀之内まで戻り、京急久里浜線で三崎口まで行き、バスで油壺までいく。

(2)新井城

油壺
クリックして拡大  バス終点から油壺マリンパーク方面に歩く。、
100m程の所で、「油壺観光案内」の大きな地図がある。(左→クリックすると拡大)
案内板のの脇から海側に沿ってハイキングコースとなっている。
 小さい半島の先、東大地震研究所建物のあるところが、新井城の本丸跡のようであるが、立ち入ることができない。

新井城址
 林の中に入っていくとすぐに、三浦市の新井城址の説明板が立つ。
「相模湾に突き出したこの半島は、小網代湾と油壺湾と三方が海に囲まれ、陸地に通じる路は、北方3kmのある大手の引橋で、この橋以外には攻めこめれない堅固な城構えであった。(今は関東大震災による隆起で、小網代湾の東に陸地部分が増えおり、引橋の面影は、地名にだけ現れている。。)
右側の小高い丘に向かって空堀の跡のような痕跡がある。

新井城・・・・三浦一族の歴史

 前回訪れた 衣笠城や今回の浦和城など三浦氏に関わる城は神奈川南東部に数多くあり、ここ新井城で三浦一族は滅亡することになるが、この機会に三浦氏の辿った歴史を簡単に整理してみたい。

(1)

三浦氏のはじまり
 
 始まりは、桓武天皇の流れをくむ村岡為通(ためみち)といわれる。源頼義に従って前九年の役に参加し、その功績が認められて三浦半島を与えられ、三浦氏を名乗ったといわれる。

(2)

勢力の拡大

 為通の子・為継は源義家に従って後三年の役で活躍、、その子・義嗣、その子義明は、天養元年(1144)の大庭御厨に侵入する源義朝を助けるなど源氏との関係を深めながら相模国で最大の武士団に成長していった。

(3)

衣笠城の合戦

 治承4年(1180)頼朝の挙兵に応じて、義明の子・義澄らは石橋山に向かったが、間に合わず衣笠城に引き返した。
間もなく、平塚方の河越・江戸・畠山も大軍に攻撃され、落城。一族は安房に逃れる。
 安房で頼朝と再会、直属軍として鎌倉幕府の創設を助けた。
幕府の中でも、北条氏とともに大きな勢力となった。

(4)

和田合戦

 建暦3年(1213) 義明の孫で侍所を務めていた和田義盛は、北条義時(第二代執権)の挑発を受けて挙兵したが敗れる。
義澄の子・義村は義盛へ見方することを約束していたが、裏切る。

(5)

宝治合戦

 北条氏にとって最後の幕府の有力御家人は三浦氏だけとなっていた。
宝治元年(1247)、三浦氏と勢力争いをしていた安達景盛が、義村の子・泰村を襲撃し、その機会に第五代執権北時頼は、三浦氏との合戦に入った。 三浦邸(国大小学校)から法華堂に籠った泰村は、一族とともに自刃。

(6)

新井城のはじまり

 三浦一族でありながら、宝治合戦で時頼に加勢した佐原盛時が「三浦介」を継ぐことを許され、三浦半島の南部を領した。
新井城はこのころ使われるようになったという説がある。
以後代々三浦一族が居城した。

(7)

三浦義同
  (道寸)

 三浦盛時の子孫は、足利尊氏に従って勲功があり、その後代々相模守護として勢力を拡大した。
 盛時から数えて8代目の三浦時高 の時に、実子がなく、扇谷上杉定正の兄・高救の子を養子として迎え、義同(よしあつ)と名乗った。
その後、時高に実子が生まれたため、関係が悪化し、義同は小田原の大森しを頼って足柄下郡の総世寺に入り、出家して道寸と号した。
 明応3年(1494)、義同の武勇を慕う家臣団によって擁立された義同は、大森氏の支援を受けて新井城を攻め養父・時高を滅ぼし、三浦家当主と相模守護職を手に入れた。(時高の死後、混乱に乗じて三浦氏に復帰、家督を奪ったという説もある。)
その後、義同は、家督を実子・義意(よしおき)に譲り新井城主にし、自らは、岡崎城に移った。(中郡・・・今の平塚市/伊勢原市)

(8)

新井城の合戦

伊勢新九郎
(北条早雲)

 小田原城の進出した伊勢新九郎は、永正9年(1512)岡崎城を急襲し、三浦義同は住吉城(鎌倉)に逃れ、さらに、新井城に逃れた。
 永正10年(1513)、伊勢新九郎は大船に玉縄城を築城し、次男の氏時をおき、兵糧を断つ作戦に出た。
 永正13年(1516)救援に向かった扇谷上杉氏は玉縄城の北条軍により撃退される。
 三浦義同・義意父子は城門を開いて討って、出たが、新井城は陥落、自刃し三浦氏は滅亡した。

(9)

その後

伊勢新九郎は相模国を平定し、その死後 伊勢氏は北条氏を名乗りさらに領地を拡大する。第二代北条氏綱以降、三浦半島は玉縄城の管轄下で「玉縄衆」にくみいれられ、新井城には上代が置かれたという。

油壺
 「かながわの景勝50選 油壺湾」の石碑がたち、油壺湾を左に見る。
永正13年(1516)新井城を最後の居城として立て籠もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって奮戦したが、三浦道寸義同(よしあつ)、その子・荒次郎義意(よしおき)は自刃、他の将兵も油壺湾へ投身したと伝えられ、湾一面が血汐で染まり、油を流したようになったので、後世「油壺」といわれるようになったという。

海岸沿いの景色

<荒井浜に降りる>

<荒井浜>                 <荒井浜から南方面>
   

<マリンパーク
 海岸沿いに三浦道寸の墓のある北側まで進もうとしたが、途中で崖に遮られている。
やむなくマリンパーク側に登って、脇をすすみ、マリンパークの駐車場の北端にでる。




 標識に従って林の中を進む。

三浦道寸の墓
墓碑には「従四位下・陸奥守道寸義同公之墓」と刻まれている。
 
北条軍の囲みに対し約3年の籠城の後、家臣から上総に逃れて再起を図ることを進言されたが、拒否。城兵ことごとく討死した。

義同 辞世の歌  (説明板による)
 討つものも 討たるるものも 土器(かわらけ)よ
  砕けて後は もとの土くれ



 崖の下へ降りる小道があったので、墓所を下から見上げる。
左手が、広くはないが胴網海水浴場になっている。
三浦道寸の子・義意の胴を網にかけて回収したので、そう呼ばれるという。

三浦義意の墓
 駐車場の端まで戻る。木の囲まれた場所があり、はいってみると、「新井城碑」の石碑がある。
三浦道寸の子・荒次郎義意の墓という。
「海蔵寺廟所であり歴史観光施設ではない」という標柱が立つ。

油壺湾から三浦市役所へ
 バス停まで戻り、少し先を右手に入り、油壺湾のヨットハーバーに下りて行く。
ここから南へ進み、海戸町まで行き、そこから、三浦半島の真中を走る県道26号線を目指す。


スランプ構造

 海戸町の海岸沿いの道路の左側に特別目立つ崖があり、地層が露出している。
「三浦市海外町のスランプ構造」という大きな説明板が立ち、詳しくその成り立ちを解説している。
 地層が柔らかいうちに海底地すべりなどで変形したものという。
 専門的なので、そのまま紹介する。
三浦市海外町の海岸一帯に露出する三崎町砂岩シルト岩互層(三崎層)は、三浦層群最下部層で、地質年代が第三期の海底で推積した、主に灰色のシルト岩と黒色のスコリア質の凝灰岩や砂岩の互層からできています。
この崖の地層には、地質形成当時の環境を知る手がかりとなるスランプ構造がみられます。スランプ構造とは、未だ固まっていない推積物が一時的に海底などの斜面をすべり下った結果生じた特異な推積構造です。
この推積構造を示す互層の形状は、上部は正常層の推積面とほぼ並行しています。下底は、東から西に傾いたすべり面を境ちして、下位は正常層と接しています。このすべり面は露頭の西半部で正常層の推積面と一致してくるため、東半部でのみ下位層の層理を高角度で切った形を示しています。崖面のスランプ構造には、軸面をわずかに東に傾けた一つの背斜(波状をあらわす地層の峰の部分)と、その東に続くごくゆるい向斜(波状をあらわす地層の谷の部分)からなる見事な波状に曲がった褶曲がみとめられます。
このスランプ構造は、地層を構成するシルト岩やスコリア質の凝灰岩や砂岩が未だ固まっていないコロイド状態にあったとき、東から西に向かって海底地滑りによって転位変形した結果生じたものと考えられ、典型的な褶曲型のスランプ構造といえます。地層推積当時の推積環境を知る上で貴重です。


三浦市役所の先
 海戸町の交差点からに南東に向かう細道にはいり、坂道を上ると、300m程で、県道26号線に出る。
すぐ先の三崎市役所入口の二叉路を左に向かい、50m程で左へ入ったところが市役所である。
 油壺マリンパークからここまで、歩いて約1時間30分の距離であった。


三崎城
 緩やかな坂道の先、右に市の体育館があり、その向かいの三崎中学校の生垣の前に三崎城の説明板と「三崎城跡」石碑が建つ。

 それによると、体育館のあるところが、本丸 で、市役所前が大手口であった、という。
(説明図をクリッククリックすると拡大すると拡大)
 
 築城年月は不明だが、三浦一族が相模で勢力を拡大しているときに、三崎城は、新井城の背後を守る重要な支城であるとともに、水軍の拠点でもあった。永正13年(1516)新井城が陥落すると、三崎城も落城し、残った城兵は城ケ島に立て籠もって抵抗したという。
北条氏の支配下では、玉縄城支配下のもと、安房の里見水軍と対峙、弘治2年(1556)には海戦となち、里見氏に占拠されたという。
 その後北条氏政の弟、氏規が城主となる。
北条氏滅亡に伴い廃城となる。

慰霊堂付近
 体育館の奥にある青少年会館の北側に、慰霊堂参道の漂柱があり、その小道を進むと、崖の上の位置に、戦没者慰霊碑と慰霊堂が建っている。
三崎城の出丸の一つと思われる。


 城郭の名残-慰霊堂の北側

城郭の名残-慰霊堂の北側-2









<慰霊堂の端から城ケ島大橋方面を望む>
真下は北条湾

本瑞寺と光念寺

<本瑞寺山門>


<光念寺>
 
 市役所の入口まで戻り、南側に位置する本瑞寺と光念寺に南の様子を見に行く。
本瑞寺方面への道路の東側には堀の跡らしい土手が続く。
         <本瑞寺本堂>




本瑞寺の山門は南側にある。

 説明板によると 「源頼朝は、 三浦に3つの御所・・・桜、桃、椿・・・を設けた。ここは、「桜の御所」があったところという。 新井城で滅亡した三浦氏の菩提寺であった当寺がここに移ってきた。 また山門は享保年間(1716~35)の建立」という。、

西側に光念寺がある。

いずれも三崎城の出丸 跡という。
<山門から東側の景色>       <光念寺から北条湾への階段>











三崎城跡の南端を廻ったところで、 光念寺の西から三崎小学校の西側に行く。



城郭のあった名残が各所に残っている。

 城廻りは終りにして、すぐ南にある海南神社を訪れる。


海南神社
 「祭神は、藤原鎌足の後裔、藤原資盁(すけみつ)。  資盁は清和天皇の皇位継争いにから左遷され、貞観6年(864)任地の筑紫国に赴く途中暴風にあい、三浦半島に漂着した。
その後 当地の長に推戴され、付近の海賊を平定するなどして地元民から尊崇された。 資盁が没すると、地元民は祠を建てて祀り、後 天元5年(982)に社殿が建立され、三浦郡の総社となった。」 と由緒にある。
 説明板によれば、「頼朝挙兵のとき、三浦大介義明は、源平の争覇を当社に占った祭、白と赤の狐が闘って白い狐が勝ったので、源氏方に荷担したと伝えられる。」

        <頼朝が植えたと伝わる樹齢800年の大銀杏>
三崎港とバスロータリー
 100m程で三崎港に到着。
ロータリーの北側の山田屋酒店は、趣のある建物である。昭和5年ごろの建築という。




 バスで三崎口まで帰る。



  散策日 2008年5月1日   京急浦賀駅、三崎口駅