三浦半島の城めぐり (1)  衣笠城, 佐原城  


      地図 ①衣笠城周辺地図 ②満昌寺/薬王寺跡  ②佐原城跡周辺




 JR 衣笠駅から、衣笠城址とその周辺のゆかりの寺を訪ねたが一日では回りきれなかったため、、佐原城址方面には、別の機会に出かけた。

衣笠付近案内板
クリックすると拡大  衣笠駅前に大きな案内板が立っている。衣笠山公園から城址と三浦氏ゆかりの寺などの概要が書かれている。
 
衣笠城址方面に向かう前に、奈良時代にはすでに交通の要衝地であったこの地に建てられていたという、曹源寺を訪れる。
 奈良時代の古東海道は相模国に入って鎌倉を経由し、三浦半島を抜けて、船で対岸の上総国に向かっていた。
この東方の観音崎の付近に「走水」という地名があり、古事記や日本書紀にもでてくる。(走水神社は日本武尊に同行してきたオトタチバナヒメ(弟橘媛)の伝説にちなんで創建された、という。)

 駅前のバス道を久里浜方面に向かい、衣笠十字路を左折し、100mほど先の信号を右折して横須賀高校方面に向かう。 200mほど進むと曹源寺に向かう道と交差するが、その手前の左側の民家の駐車場の中に、「公卿町の庚申塔群」と書かれた柱と、数基の石塔が並んでいる。

公卿町の庚申塔群
 全部で8基あるうちの、一番左端にある塔は、案内柱によると、寛永16年(1639)の市内最古の庚申塔という。
板碑型で「帰命山王庚申大権現」と刻まれている。
その右にあるのは三猿が彫られている庚申塔で、宝永?年(1704~)とある。
 
2軒先の四つ角を左折(北へ)すると、緩やかな坂の先300mほどの突き当りに、山門と大きな本堂の屋根が見える。

曹源寺
 案内板によると、行基の創始と伝えられ、前身は奈良時代後期~平安初期に建てられたという。 寺域は一町四方におよび、門の前には古東海道が延びていたという。江戸時代にもとの薬師堂の後に寺を債権され、眼病を治す三浦薬師として信仰されていたという。、

衣笠山公園へ向かう
 
曹源寺のに山門から、南側方面に衣笠山公園のある丘陵が望まれる。

衣笠十字路まで戻る途中には、久郷神社がある。久郷宗源寺村と呼ばれていた時代からあった神社が、その後この地に合祀されたという。




 衣笠十字路までもどり横須賀線ガードをくぐり、南に進む。
衣笠山公園へ行く前に、寄り道となるが、東側(左手)の林の中にある大松寺に寄る。鎌倉時代の創建といわれる。 斜面にはタブの木など鬱蒼とした自然林が残されている。


 もと来たバス道(三崎街道と呼ばれる)まで戻り、右側の小高い山を目指して急な坂道を登っていく。
急な坂道の入り口には、「衣笠山公園・大楠山」の標識が立っている。

衣笠神社
 頂上近くに、衣笠神社がある。
旧衣笠村にあった各字にあった鎮守が、1村1社の政府命令により大正2年合併されたもので、社殿は明治26年造営の小矢部にあった熊野社のものが移され、境内の鳥居なども他の神社から移されたという。

その先左手には、大きな石碑と説明文が建っている。明治から大正にかけて 東京湾の入り口-観音崎と富津岬の間に建設された海堡(砲台用の人工島)のうち、第三海堡(水深約40m-全長270m)の建設に功労のあった陸軍技師の西田明則をたたえている。

衣笠山公園
 山頂には広場と少し先に展望台もある。
北東方面 (衣笠駅方向と曹源寺)  その先東京湾と房総 (富津火力発電所と新日鉄)
北方向 (ランドマークタワー)

衣笠城址に向かう
 展望台から急な坂道を南に下る。下りきったところに、三浦縦貫道の衣笠入り口の道路があり、奥にトンネルが見える。
            →
 以前は、その脇を使って向かいの山を上って城址に行く道もあったと思われるが、わかりにくい。
遠回りになるが200mほど南東に向かって、[太田和街道入り口]の信号で道路を横切る。この方が城址への正面からのルートである。

衣笠城址への入り口
 太田和街道の脇道を進んですぐに、右側の山に向かう道があるが、そのコーナーの広場に 「大善寺」「衣笠城跡」の標識と石祠がある。
この奥にある丘陵一帯が衣笠城址で、このあたりが大手口であったという。

大善寺-不動井戸
舗装された坂をのぼっていくと、民家が途切れるあたりからさらに急な坂道が続く。
そこに滝不動と刻まれた、石柱とコンクリートに囲まれた井戸があり、その先の石段を上ったところが大善寺である。
 道の右側にある説明文によると、天平元年(728)諸国行脚中の行基が、この山に金峯蔵王権現と自ら彫刻した不動明王を祭り、その別当として建てたのが大善寺の起源という。
その時、おはらいをする水に困り、杖で岩を打つと清水が湧き出した。それがこの付近だったという。

大善寺
 すぐ先、大善寺の石段の左には庚申供養塔並べられている。

大善寺は衣笠城の中にあって三浦氏一族の学問や仏教信仰の中心的役割を果たしてきた。
 ここにある木造阿弥陀三尊像は、一部江戸時代に補修されているが、12世紀ごろの造立とされており、市内にのこる平安仏として貴重という。(説明文による)

衣笠城址
<急な上り>
<頂きの広場>

<物見岩>
 大善寺の脇から急な細い坂道を上ると広場があり、すこし先には物見岩と呼ばれる大岩があり、衣笠城と刻まれた大きな石柱が建っている。(標高130m)。そこが山城と呼ばれる衣笠城の最後の拠点である。衣笠城のの居館は、大善寺の下の滝不動の当たりの平場にあったと推定されるという。

<三浦氏と衣笠城の推移>

衣笠城は、康平年間(1058~1065)に平為通によって築かれた。

 為通は前九年の役(1051~1062)に源頼義に従って奥州安倍氏と戦い その軍功が認められ三浦郡の地を与えられた。以後、三浦氏を名乗り、三浦氏の本拠地として、勢力を拡大していく。

 第二代目の三浦為継は、源義家に従って後三年の役(1083~1087)に出陣した。(その時 大善寺の不動尊が敵の矢を払って守ったという伝説が残るという。)

 第三代、義継はその子義明とともに、天養元年(1144 )源義朝の「大場御厨」.へ侵入を助けるなど、源氏と深いつながりをもって相模国の最大の武士団に成長していった。

 第四代、義明(大介-おおすけ)は治承9年(1180)源頼朝の挙兵を支援して子 義澄らを石橋山に向かわせたが間に合わず、逆に畠山重忠、河越、江戸の大軍に衣笠城を攻撃され落城した。(=衣笠合戦)
義明は衣笠城で討死したが、義澄他一族は義明の命令で安房に渡り、、頼朝に合流、鎌倉幕府に創設に寄与した。

 幕府成立後、頼朝は義澄を相模守護に任じ、義明の孫の和田義盛を侍所別当に任じるなど三浦一族を重用した。
義澄の子、義村も、有力御家人として勢力を持ったが、その後、北条氏と対立関係となり、義村の子の泰村のときに、五代執権時頼により滅ぼされた。(宝治元年(1247)=宝治合戦)
これにより、一族のほとんどは滅亡し、衣笠城も廃城となった。

 宝治合戦で北条氏に味方した庶流の佐原義連の孫の盛時が三浦介を名乗ることを許され、三浦半島南部を領有した。

城址の丘陵
 もと来た道を、「太田和街道入り口」の信号まで戻る。新しくできた広い道を東にむかうと、衣笠駅方面からくる三崎街道と交差する。(衣笠インター入り口)
その付近の歩道から振り返って見た衣笠城址のある丘陵である。
当時はこのあたりまで海が入り組んでいたという。
 三崎街道との交差点からさらに300mほど東に向かい(久里浜方面へ)、満昌寺に向かう。
満昌寺には衣笠城で討死したといわれる三浦義明の廟所のあるところである。
そこで、夕暮れとなってしまい境内を見るのみとなり、次の機会に改めて訪れることにして帰宅の途に就いた。
 三崎街道にある衣笠城址バス停から、バスで衣笠駅まで戻った。
 


 満昌寺の近辺と清雲寺については、鶴見大学の生涯学習センターのフィールドワークで訪れる機会があった。その機会に衣笠近辺にあるそれ以外の三浦氏のゆかりの場所を訪ねた。

満昌寺
 満昌寺は、衣笠城で討死にした三浦大介義明の追善のために、建久5年(1194)源頼朝が創建したという。
本堂手前に源頼朝の手植えというツツジ仁木がある。 (→)

 

 境内左奥には、建暦2年(1212)和田義盛が建立したと伝える御霊神社がある。
 神社には、「木造 三浦義明坐像」が祀られており、鎌倉時代末期の制作と推定され、国の重文に指定されている。

満昌寺内の伝三浦義明廟所
 神社の裏手に瓦塀で囲まれている所が、三浦義明の廟所と伝えられている。
中心にある宝篋印塔が義明のもので、その右の五輪塔は妻の供養塔と考えられているという。
 左奥にある板碑は観音種子板碑であるが、このほかに神社内に元応2年(1320)の銘のある2基一対の双式板碑が納められているという。(薬王寺旧跡のやぐらにあったものという。)

近殿神社
 満昌寺の前の細い道を東に100ほど進むと 丘の裾の所に近殿神社がある。
説明文によると、ここ大矢部には、数々の神社があったが大正2年(1913)の一村一社という国の指令により、衣笠神社に合祀されたが、
第二次大戦後、この神社をふくめ、元の境内地に遷宮されたものという。

薬王寺旧跡

 神社の外側に、薬王寺旧跡へ140mというサインと説明版がたっている。
その先に説明版と石塔が並んでいる一画がある。それによると、薬王寺は建暦2年(1212)鎌倉幕府の別当であった和田義盛が父・三浦義宗や叔父・義澄の菩提を弔うために創建したものという。明治9年(18765)ごろ廃寺となり、本堂は大正初めに消失、ここより東南の位置にあったという。
中央の方形の石が3つ重なっている石塔が三浦義澄の墓と伝えられている。


清雲寺



 バス通りに戻り100mほど衣笠城址方面に戻った所の信号を南に向かうと清雲寺がある。清雲寺は、三浦義継が父・為継の供養のために長治元年(1104)に建立した。
    
三浦氏三代
 第一代:為通-三浦氏の祖-前九年の役で源頼義に従う
          三浦の地を与えられる。
 第二代:為継-後三年の役で源義家に従う
 第三代:義継-大庭御厨乱入事件で源義朝を支える

 清雲寺にはもともと第二代為継と伝える五輪塔が存在した。
現在、三浦氏三代の墓が祀られているが、それは、付近の「円通寺跡やぐら群」から一代目為通、三代目義継の墓と伝えられる五輪塔が移転されたからである。
(円通寺は、第一代為通が開基とされ、清雲寺北東数百メートルの付近にあったと思われ、江戸時代に廃寺となった。昭和14年(1939)旧海軍弾薬庫設置のため、付近のやぐら群(深谷やぐら群)から板碑や石塔類が移転された。)
 廟所は本堂の後ろ側の一画にあるが、中央の五輪塔が為継(二代)のもので、左右の五輪塔は、どちらが為通、義継のものかは不明。

腹切松
 清雲寺から西に200mほどの所(バス道路の南100mほど)に腹切松公園という小さな公園がある。そこに新しく植えられた若い松の木と石碑が立ち説明版がある。
それによれば衣笠城合戦で89歳の義明は一族を房総に逃がしたあと衣笠城の落城とともに討死したが、他の言い伝えによれば、祖先の霊の眠る円通寺を望むこのあたりの松の木の下で自害したという。

満願寺




 腹切松公園から南東方面に位置する満願寺にむかう。
 いったんバス通りにでて、ヴィクトリアスポーツ店の信号を南に向かい次の信号を左折する。横浜横須賀道路に近づくと細い上り道となり、高速の下のトンネルを抜ける。 地図を見ながら丘陵沿いの細い山道を下って行くと、左側に「佐原十郎義連廟所」と刻まれた石柱が建つ。

 満願寺は、三浦義明の末子・十郎義連(よしつら)が建立したといわれる。
義経に従い一ノ谷のひよどり越えで手柄を立てた勇者で頼朝や北条家からの信頼が厚かったという。
本堂左の石段の先に観音堂があり観音菩薩や地蔵菩薩、不動明王などが安置されていたが、今は収蔵庫に移設されたという。
そのうち観音像といわれる木造地蔵菩薩立像は、義連が平家追討に赴くときに、自分の姿を、仏師運慶に彫らせたと伝えられるが、実際には運慶の流れをくむ鎌倉仏師の作という。

観音堂の右手には、義連の墓と伝えられる五輪塔がある。

 義連は衣笠城の東南の佐原を領したことから佐原姓を名乗った。
その後の宝治合戦で三浦氏は滅びるが、佐原義連の孫である盛時などの兄弟は北条氏に味方したため、三浦介を名乗ることが許された。

 鎌倉幕府滅亡時の中先代の乱では北条時行に属したがその後足利尊氏に従って勲功があり、以後相模守護として勢力をのばした。
しかし、永正13年(1516)新井城の合戦で、義同(よしあつ)=三浦道寸、義意(よしおき)の父子が、北条早雲に滅ぼされ、三浦一族は滅亡した。

佐原城址
 衣笠地域散策の最後に佐原城址を訪れた。満願寺から佐原インターの出口を南北に通るバス道まで行く。その東側の山にありそうだという目星はついたが、登り口がわからず、地図と あたりの地形を頼りに探し歩いた。

 インター出口を過ぎて高速の北側にある道を東に向かい聖徳院というお寺の先の高速にある公園で右折し、山のほうに進む。
200m程でテニスクラブの広い敷地の手前を右に進み丘陵の裾を少し曲がったところに上り口がある。ちょうど坂を上りきるところに、右に入る細道があり、そこに比較的大きな自然石の石碑と説明版が立っていた。

 石碑には、「佐原十郎義連城跡」 「明治26年9月8日 佐原里民建之」と刻まれている。
説明版によると、この台地が、義連が城を築いたところと伝えられ、当時はこの台地の北から東にかけては深い入り江となっていて、対岸に怒田城があり、ここ佐原城とともに衣笠城の東側を固めていたという。




 頂上付近には電波塔が建ち、そのまま道なりに北西方向に山を下る。
(下りから、石碑の立つ林・・・左奥・・・を振り返る→)
 「コスモ湘南久里浜」というマンションの脇を通り 高速をくぐると、すぐにバス道路となる。 (この道の方が近い)

バスで久里浜まで行き、衣笠城・佐原城と三浦氏ゆかりの寺の散策を終了した。
散策日
2006年12月18日

2009年9月27日

JR衣笠駅

JR衣笠駅ー久里浜駅
参考