| 八王子街道(絹の道) ③多摩境→大塚山(+滝山城) 散策ルート ①芝生→南町田 ②南町田→多摩境 ③多摩境→大塚山(+滝山城) ④片倉→八王子 地図→多摩境-大塚山 |
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今回は八王子に住む長年の友人と、絹の道資料館で落ち合い一緒に大塚山まで歩き、そのあと車で高幡不動尊と滝山城跡を案内してもらうことになり、楽しみにしてきた。 八王子までは、一日で行ける距離であるが、そのため比較的ゆったりと散策することができた。 |
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田端環状積石遺構 |
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多摩境駅の西口に出て、京王線沿いを南に下がり、前回の八王子道に合流する。 その先 150m程で、広い多摩ニュータウン通りを横切る。 通りのすぐ北側に田端東遺跡があるので、立ち寄りする。 広場の入口と奥に 田端遺跡、環状遺構の説明板がある。 「この田端環状積石遺構は、境川に面した丘陵のふもとに、縄文時代の中期から後期(5000年~2800年前)に かけての、集落・墓地・祭祀場が広がっている、田端・田端東遺跡のうちの一部である。この遺構は、縄文後期の3900年~2800年前のもので、自然礫を帯状に、9m~7mの楕円形に積み上げたもので、この地域に居住する集団の宗教的な場であった」 という。 |
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道の景色 |
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もとの道に戻り100mほどで、新しくできた広い自動車道を右折して、坂道を上って行く。 右折せずにまっすぐ行くと、町田街道に合流し、境川沿いに八王子方面に進む。 坂を上がり切った所は、八王子市の境界である。左手に「鑓水小山給水所」の建物があり、その手前を左に入って行く。 入り口には車止めがあり、自転車と歩行者だけの遊歩道になっているようだ。 ![]() 両側が草地のいかにも昔の道を感じさせる静かな道がつづく。 多摩ニュウ―タウンの住宅地の手前に小さな広場があり、案内板がある。 ![]() 「絹の道」の簡単な説明と、「絹の道ルート図」、「周辺案内図」(右写真をクリック)の説明がある。 両側にニュータウンの住宅が並ぶがすぐに、公園となり、その先は鑓水中学校の西端を進む道となる。 |
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鑓水板木の杜 |
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広い自動車道を横切ると、左側にに小公園があり、そこに「鑓水板木の杜 緑地案内図」が掲げられている。 その説明板によると、 「鑓水の由来は、山の中腹から湧き出る水を瓶に蓄え(筧・・かけい・・という)、そこから水を流れるようにしたもの『遣り水』」というが、これが地名の由来という。 板木という名は、アイヌ語に由来するきれいな水の湧き出るところ、の意味がありアイヌ民族が住んでいたと考えられる。」という。 また、ここの尾根道は、旧鎌倉街道といわれ、甲府秩父方面へ通じていた」という。(左写真をクリック) (旧鎌倉街道があるならぜひ歩いてみようと探したが、すぐにはわからなかったので、あきらめた) |
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小泉屋敷跡 |
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100m程先に小泉屋敷跡がある。 木造平屋建て、入母屋造り、茅葺、田の字形四間間取りで、多摩丘陵地域の一般的農家の典型的な民家建築であるという。 |
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道標 |
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すぐ先の柚木街道を横切って、大栗川を渡り、川沿いに左へ向かう。100m先の御殿橋があるが、その手前に道標がある。慶應元年(1865)建立で、 此方八王子道 此片 はら町田、神奈川 此片 はしもと、大山、津久井」 と刻まれている。 |
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絹の道資料館 |
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道標からは山裾の道を北に向かう。すぐに絹の道資料館だ。 (鎌倉「山の道」を歩いた時に、後日ここには、車で訪れたことがある。) 友人は約束の時間より前に、車で到着・・昔と変わりない。 早速、大塚山に出かける。 |
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石塔群 |
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100m程で 車道から分かれ、山道に入っていく。分岐点には、中央に秋葉大権現の石塔がある。文化11年(1814)建立である。 その右には、百八十八か所供養塔、左には、文字庚申塔が建っている。 そこから先は比較的急な上り坂であるが、木陰も多くあり、快適な山道である。 |
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道了堂跡 |
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距離にして数百mであろうか、ようやく頂上のすぐ下に到着、八王子への道は、左にむかっている。 石段の上には、かっては道了堂が建っていたが、今はその跡が残るのみであり、境内だったところは、樹木で覆われている。 明治7年(1874)に生糸商売で繁栄した鑓水の商人が、浅草から道了尊を勧請し、堂を建立したもので、昭和58年(1974)に解体された。 <道了堂跡> <訪れた記念に>![]() 頭部のない石灯籠や、地蔵、石塔などがあるが、結構さびれている雰囲気である。 ![]() 今は、大塚山公園として整備されているが、江戸期にはすでに見晴しの良い景勝地として知られていたという。 <道了堂跡の奥から北方向> <東方向> ![]() ![]() |
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| 石段の下から西に回り、すぐに八王子バイパスの上に出るが、絹の道の歩きはここまでとし、この公園の周りの様子を案内してもらった。 絹の道資料館まで戻り、汗をかいたシャツを着替えてから、今度は友人と車での散策にでかける。 道標の先の柚木街道を東へ、野猿街道に合流した先の日本そば屋で昼食。ここには、同じ地域にすむもう一人の友人も合流。しばらく昔話を楽しんだ後、 友人宅でお茶で一休みして、高幡不動尊と滝山城に向かった。 |
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高幡不動尊 |
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| 正式には、「高幡山明応院金剛寺」といい、関東三大不動のひとつに挙げられている。 寺伝によれば、平安時代慈覚大師(円仁)が清和天皇の勅願により、当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立ししたのが、始まりとされる。 |
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| 仁王門 | |||||||
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桁行3間、梁行2間の堂々とした門である。特定はできないが、建築様式から室町時代後期(15世紀中頃から16世紀中頃)の建立と考えられるという。 仁王門の前から京王線高幡駅まで続く参道。→ |
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不動堂 |
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建武2年(1335年)暴風雨で倒壊したため、康永元年(1342)今のところに山中から移築されたという。![]() ここは、土方歳三の菩提寺であり、大日堂には位牌もある。 土方歳三: 天保6年(1835)多摩郡日野宿石田村-現在の日野市石田にうまれる。 文久3年(1863)近藤勇らとともに、上洛。新撰組副隊長として活躍。 明治2年(1869)箱館攻防戦で銃弾をうけ戦死 境内には、「近藤勇・土方歳三顕彰碑」と、土方歳三の銅像がある。 顕彰碑は、多摩地域に生まれた近藤勇(上石原村-現・府中市)と土方歳三の活躍した事績を記したもので、12年の歳月の末、明治21年(1888)に建立された。 銅像は平成7年の建立。 |
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文永の板碑 |
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不動堂の奥に、文永の板碑が建っている。 文永8年(1271)と刻まれ市内最大の板碑であるという。 この境内に隣接する果樹園から移されてきたという。 この板碑は鎌倉時代の早い時期に武蔵の国の高麗地方から南平に移住し、その後 日野市の広い地域に勢力をのばした平姓の高麗一族の始祖の供養塔であろうと推定されている。 |
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五部権現社 |
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高い覆いの建物に守られた朱色の建物がある。吾郎権現社といい、説明板によると、「金剛寺の境内鎮守として創立されたもので、源頼義が奥州反乱鎮圧に際し、ここに八幡社を勧請した」 という。 「のちに、稲荷・丹生・高野・清龍権現を合祀して五部権現と称するようになった。 現存する棟札により、暦応3年(1340)に創建され、寛文11年(1671)に再建された」という。 |
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境内の様子 |
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<五重塔> <不動堂> ![]() ![]() |
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| 境内は広く、他に多くの堂宇や、庭園、などがある高幡不動尊である。 大日堂には時間の関係で拝観できなかったが、次回の楽しみとしたい。 |
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滝山城跡 |
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鎌倉「山の道」の散策で八王子城を訪れた時に、すぐに訪ねたい城跡の第一候補に入れておいた城である。 八王子城跡から北東にやく10km、八王子駅から北に約5kmの多摩川の南岸に位置する。 |
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城の由来 |
滝山城は、山内上杉氏の重臣で、武蔵国守護代 大石定重が 永正18年(1521)築城した。 その後、北条氏康が河越城の戦いで扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除、 その結果大石氏は、北条氏康の支配下となり、北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎えた。 そして、氏照は永禄元年(1558)城の大改修をおこなった。 その後、永禄12年(1569)小田原攻撃に向かう武田信玄の軍に攻め込まれ、滝山城の防御体制が十分でないことがわかり、氏照は八王子城を築城、移転していった。 |
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滝山城 |
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この一帯は、滝山公園として整備されており、滝山街道沿いの駐車場からすぐに、滝山城址の本丸方面へ上ることができる。(案内部をクリックすると拡大) すぐに大手口だった天野坂を上がる。 |
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三の丸手前の土塁 |
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早速、土塁があらわれる。三の丸の手前にあたる。この先は 城道の要所要所に 城の「縄張り図」の拡大図とそれぞれの構造・役割が解説されており、非常に分りやすい。 左側の小宮曲輪と三之丸との間には桝形虎口()出入口があった、という。 |
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| 三の丸の跡と千畳敷 | |||||||
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ここから先は平坦な城道となる。三の丸から先には、コの字型の土橋があったという。 ![]() 左手は千畳敷と呼ばれる広場となっていて、虎口の前方に設けた空間=「馬出(うまだし)」が設けられていた、という説明がある。 |
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二の丸 と右側の空堀 |
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間もなく城道の正面は二の丸である。右への道は信濃曲輪となる。 右側には、空堀ががある。 左への道は、中の丸、本丸に通じる |
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中の丸 |
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中の丸に上がって、奥に行くと、見晴しの良い場所がある。 多摩川とその先が遠くまではっきりと見渡すことができる。 山の中腹には腰曲輪と呼ばれる平場が、川に向かって多く設けられている。 「多摩川には 河越道の渡河地点である「平の渡し」がある。 この地点を抑えるため滝山城は構築された。」と説明板にある。 |
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中の丸から本丸への引橋 |
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本丸へ行くには、引橋を渡る。 当時の橋はもう少ししたに架けられ、敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程度引き込むことができるようにできていたようだ。 二の丸方向からくる城道から引橋をみあげたところ。本丸には、ここから左の坂を上って枡形虎口から入るルートもある。 |
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本丸 |
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<引橋から入った枡形虎口> <一段高い場所にある霞神社>![]() ![]() |
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八王子市の城館跡 |
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本丸を最後に、城道を大手口までもどった。 城全体の規模が大きく、遺構が時を経ている割には良く整備されて残されており、快適な散策であった。 左の図は、中の丸に掲示されていた八王子市の城郭跡。 鎌倉「山の道」で訪れた城跡もあるが、これからも機会があれば行ってみたいところである。 |
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八王子駅まで送ってもらう途中、東京都内で唯一の「道の駅」といわれる「八王子滝山」に立ち寄った。 |
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