| 八王子街道(絹の道) ① 芝生追分-南町田 散策ルート ①芝生→南町田 ②南町田→多摩境 ③多摩境→大塚山(+滝山城) ④片倉→八王子 地図→天王町(芝生)-西谷 西谷-都岡 都岡-南町田 |
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古道歩きをスタートして早い時期に出かける予定にしていた八王子街道であった。 ただ街道の周辺は、鎌倉古道の散策などのおりに何度か通っていたこともあり、近いがゆえに後回しになっていた感がある。 今回 八王子に住む古くからの友人が、近くを通るときにはぜひ同行を、と言われたことをきっかけに ようやく歩くことになった。 もともと八王子街道は、甲州街道と東海道をつなぐ道として、古くから使われていた。 矢倉沢往還(大山街道)とも交差し、江戸時代からは、沿線の物資や文化の交流に役立ち、特に 横浜開港後は絹を中心とした多摩や甲州方面からの物産を、横浜港まで運搬するために「絹の道」として大いに賑わった。 鉄道の発達とともに絹の道としての役割を終えたが、今でもその自動車道は幹線道路として、常時混雑している。 八王子街道の起点である「芝生」を今回の出発点とする。 |
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橘樹神社 |
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相鉄線天王町駅から、東海道・八王子街道の追分である「芝生」に向かう。 駅出口で南北に通っているのが、旧東海道の道筋である。 帷子川を過ぎた左側に、神社がある。 文治2年(1186)、京都祇園社(今の八坂神社)を勧請して創建されたといわれ、もとは、牛頭天王社と称していたことから、ここの地が天王町という名前となったといわれる。 大正になってから橘樹神社に改称した。 ![]() 境内南に、左から、天和3年(1683)、寛文9年(1669)、明和元年(1764)建立の3つの庚申塔の祠 と、右側に文化8年(1811)の銘がある 神田不動尊の祠が並んでいる。このうち、左側の真ん中の庚申塔(右写真→クリックすると拡大)は 青面金剛としては横浜市最古、また六手青面金剛としては、県内最古であるという。更に説明板によると、「青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが普通であるが、この像は、弓矢の代わりに、羂索(けんさく)(=鳥獣をとらえるわな)と棒をもっている。 ・・・青面金剛の成立過程を示す貴重な像である」という。 |
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保土ヶ谷宿 江戸見附跡 |
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旧東海道をさらに北に行くと 「江戸見附跡」の説明板が立つ。 保土ヶ谷宿の上方見附まで(戸川神社付近)、19町(約2km)であったという。 その先が、自動車道の八王子街道=国道16号線であり、越えると横浜では有名な松原商店街へと続く。 旧東海道にこれだけ賑やかな商店街がある・・・四日市にあったことを思い出した。 |
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芝生(しぼう) 追分 |
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少し先 商店街を外れたところで、芝生追分となる。追分の標柱が建っている。 『八王子道はここから帷子川に沿って伸び、町田・八王子へと続く。 安政6年(1859)の横浜開港以後は、絹の道と呼ばれている。』 ![]() 少し先 民家の生垣の間に青面金剛の庚申塔の祠がある。 ![]() 像は、結構損傷が進んでいる。 |
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延命地蔵尊 |
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しばらく先で、国道16号線に合流する。その手前右側石段の上がった奥の祠に、地蔵尊 3体が祀られている。 宮田町町内会の記念誌に、近くの香象院の住職が、由来を記している。・・・・「この場所は、もともと「山下」といわれ、阿弥陀堂があり、地蔵尊がまつられていた。文明12年(1480)の板碑が出土しており、鎌倉・室町の時代から埋葬所としてつかわれ、江戸期には東海道の旅人の投げ込み場があったといわれる。 住職によれば、万治3年(1660)の東海道改修以前には、このあたりが八王子道の追分であった」 としている。 横浜市境域委員会発行の『横浜の古道 資料編』によれば、このうちの一体の舟形地蔵は、元禄4年(1691)の銘がある。 |
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杉山神社 |
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![]() 合流後は国道沿い、または少しずれた道を進む。横浜新道の陸橋の下を過ぎてすぐ左へ入ると、杉山神社がある。 石塔群の納められた祠がある。 このうちの青面金剛の庚申塔は、天明3年(1783)で、道標を兼ねる。 右面 「これより左大山みち」 左面 「これより右八おう志”みち」 『横浜の古道 資料編』 |
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真福寺 |
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和田町駅への入口の反対側の道を北に行き、真福寺に立ち寄る。 治承元年(1177)源頼朝の重臣 和田義盛が、平家打倒を悲願していた時に、夢に現れた不動明王を祀ったのが始まりという。 ![]() 参道の脇に、「満願地蔵尊」がある。もと和田町駅裏の台地にあった浅間宝寺という寺から移されたものという。 16号線にもどり、すぐ右手の道を進み、200m程先で合流する。 |
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和田村道橋改修碑 |
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100m程先の釜台歩道橋の下の金網のフェンスの中に、石碑がある。 「和田村道橋改修碑」の説明板がある。それによると、江戸中期、江戸の桜井茂左衛門が資金を提供し、和田村及び隣村の川島村民の協力を得て、道を改修、橋を架け、往来の難儀を救った」、という。 元文2年(1737)の建立である。 少し先で、東海道貨物線の高架下を過 ぎた右の歩道脇に、石塔・石仏が3体建っている。左から 双体道祖神、庚申塔、堅牢地神塔である。 年代は、 双体道祖神:明和2年(1765) 庚申塔:正徳4年(1714) 地神塔:寛政3年(1791) 『横浜の古道 資料編』 |
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杉山神社 |
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200m先右手に、杉山神社がある。入口に、堅牢地神宮と刻まれた碑が立つ。寛政4年(1792)とある。 この辺りから先、以前の八王子道は消滅している。 環状2号との交差点の工事もあり、はっきりしているのは、その先からである。 |
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古い道標 |
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環状2号の高架下を過ぎて、数十メートルすすみ、右手に入る細道を正観寺方向に進む。 少し進んだ右手角に、風化した青面金剛庚申塔がある。 『横浜の古道 資料編』によれば 文化8年(1811)で、 右面 「か満久くら道」 左面 「右はちわうじ道 左かな川ミち」 という。 |
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八王子街道の新しい道標 |
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そのさきに、新しく建てられた「旧八王子道」と刻まれた道標が立つ。先ほどの庚申塔とは全く対照的である。 片面に鎌倉道、保土ヶ谷とあり、その真新しいT字路を右に進むと 、斜面に稲荷神社があるが、その先は環状2号により行き止まりである。ここから左へ行くのが八王子道で、すぐに正観寺がある。 |
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正観寺 |
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高い石段の上に、観音堂がある。入り口わきにある「正観寺史」の石碑によると、この地を支配していた日吉の矢上城の城主、中田加賀守の菩提を弔うために、その子が創建したという。 (中田加賀守は天正18年(1590)の小田原の役で討死した) |
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道の景色 道標 |
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緩い坂道をのぼっていくと、、右手の駐車場の隅に 寛政3年(1791)の 「奉講堅牢地神」と刻まれた石塔と、その前に石仏が建っている。石塔には右面に「寛政3年・・・左神奈川・」、左面に「右八王子道」と刻まれ、道標を兼ねている。 ![]() すぐ下りとなり、国道16号にぶつかる。その手前の草むらに、元禄10年(1697)庚申供養祈願と刻まれた石塔がひっそりとある。 |
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妙福寺 |
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すぐ西に妙福寺の山門がある。![]() その奥には、広い境内が山の上まで続いている。 慶長年間(1596~1615)の創建という。 手前の大きな題目塔は、享保10年(1725)に建立されたもので、当初は山の中腹にあったものが、移されたという。 |
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西谷不動尊 |
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妙福寺の前の信号で16号線を渡り、相鉄線のガード下をくぐって進むと、西谷駅の南の商店街にはいる。 西谷不動尊は「商店街から路地を右側に入る」ということで、探す廻り、新しいマンションの前で、ようやく見つかった。 マイバスケットというスーパーのあるマンションの手前に、奥のマンションに上る広い坂があり、そこを少し上った所に建っている。(そば屋 上田屋の前) 最近は 開発が進み、街中ではよくあることである。 不動明王で寛政3年(1791)に祀られたという。 |
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道の景色 |
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商店街を抜けると、西谷駅の西側の相鉄線を横切る。ここでは、東急東横線との乗り入れ予定の新線の工事が始まっていた。 16号線に合流し 100mほど先で右手に分岐し、北側の山裾に沿って、進んで行く。 間もなく、帷子川から分かれた水路が現れる。洪水対策として、帷子川の水量を調整するために、トンネルを使っで横浜港まで放流する分水路である。 ![]() 西に進み、高台に向かって細い道を進む。 低地を避けて進んでいるのだろうか。 昔からあった八王子街道なのかどうか、定かではない。. ![]() その先で、坂道を下って国道に合流する。 |
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白根村道橋改修碑 |
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合流手前の右の斜面に、石碑と庚申塔が立つ。元文4年(1739)に建立された 石碑は、「江戸中期 白根村地先の難路改修の由来を記したもので、江戸の住人櫻井茂左衛門が供養の為、田地を買収し破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったとある」との説明板あり。 左側の庚申塔は、延享3年(1746)で、彫られている猿が一匹のみ残っており、あとは風化している。 |
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不動明王道標 |
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国道から、北に入る道路の角に、不動堂入口の石柱が立ち、台座が道標となっている不動明王像がある。寛政9年(1797)の建立で、「従是右不動道」と刻まれている。北西に数百m進むと、白根神社である。 八王子道はこの道を少し入ってから、南東に進むルートらしいが、地図では、道が消えているので、国道を100mほど西に行ってから、南東の道を進んだ。 変則四辻の角の草むらに、石塔が2つ隠れるように立っている。左が天保13年(1842)の文字庚申塔で、右は明治15年(1882)の地神塔である。![]() |
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鶴ヶ峰坂 |
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白根交差点で国道16号線を越えて、北に向かい、すぐ左へ上って行く坂道をすすむ。標柱によると、「長さ2町(218m)の急坂で、旧八王子街道の難所であった。馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった」 という。![]() 坂の先には、鶴ヶ峰浄水場ができて、昔のルートは消えている。 浄水場の南側を道なりに進んでいくと、駕籠塚の案内表示がでている。 |
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駕籠塚 |
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急な坂を上ると、浄水場側の小広場に駕籠塚がある。「武州鶴ヶ峰駕籠塚碑文」の石碑によると、「元久2年(1205)畠山重忠は北条義時の大軍に対し、死を決して戦いに挑んだ。 重忠の内室は、菅谷から急遽駆けつけたが、重忠の戦死を聞き、駕籠の中で自害、駕籠ごとここに埋葬された」という。 ![]() 駕籠塚の西側に鶴ヶ峰神社がある。 急な細道を下り、浄水場の南端からのくる道に降りる。・・・・八王子街道の道筋である。 。 |
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地蔵祠 |
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西に100mほど進むと右手角に地蔵の祠がある。地神塔、享保6年(1721)の地蔵尊、馬頭観音 が祀られている。 その前に 六ッ塚の案内表示が立っている。 |
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薬王寺と六ツ塚 |
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角を上がっていくと、薬王寺と、説明板がある。境内には畠山重忠をはじめ一族郎党134騎を埋めたと伝えられる6つの塚がる。薬王寺はその霊を祀る霊堂になっている。 本堂左手には重忠命日供養塔があり、毎年慰霊祭が行われているという。 ここから南の帷子川と二俣川が合流する付近には、重忠の首塚をはじめとする史跡が多くある。 (クリック→鎌倉 中の道 ②参照) |
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道の景色 |
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地蔵の祠まで戻り、西に進む。間もなく、国道16号線に合流してから100mほど先で斜め右に入り、北東方向に進む。道幅が広く、国道16号ができる前は、自動車道としてっメインの道路だったのだろう。今宿東町である。すぐ先のブロックの角に、青面金剛の庚申塔がたっている。 年代は不明、このままだと④どんどん風化していく。 ![]() 300m程過ぎた右手には、双体道祖神が、祠に納められている。 |
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地蔵堂 |
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ふたたび、国道16号線と合流するが、その手前右に、立派な地蔵祠がある。寛文9年(1669)と宝暦8年(1758)の地蔵尊である。 ![]() すぐ先の立派な門構えの民家→ 今宿西町で国道に合流、16号は「高島町まで10km」との標柱がある。 デニーズなどのレストランなどが多く並ぶ賑やかな16号線を400m程進んで、築地の信号の手前で、右に入り、今度は細道で、北東に進む。 ここからは当分の間、交通の激しい自動車道は通らずにすみ、昔の八王子道の歩きを楽しむことができる。 |
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中原街道と交差 |
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間もなく、中原街道と交差する。 北西の角のレンガ塀の前に、都築郡役所創設之跡碑がある。 ![]() その先(東寄り)には、文政9年(1826)の日蓮大菩薩の報恩塔があり、さらに先には、道標を兼ねた庚申塔がある。![]() |
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道の景色-地蔵尊 |
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100m程先の路地の角に地蔵の祠がある。ここは、ブロックで囲まれている。舟光背のある地蔵尊は、延宝8年(1680)で、台座には3猿が刻まれている。左の堅牢地神塔は文化10年(1813)のものである。 |
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馬頭観音 |
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さらに100m程先の路地の角に、馬頭観音が3基ある。左の後ろにある石塔の風化がすすんでおり、その前に真新しい石塔が造られたのか、文政3年(1820)ときざまれている。 真中の小さいものは、馬頭観世音文政3年(?)とある。 右の馬頭観音像は、嘉永6年(1853)ときざまれている。 静かな住宅地をすすむ。 北側には横浜動物園ズーラシアのある丘陵がつづく。 道は、左に大きくカーブしてして小さな川をわたり、水道道にぶつかる。 その先国道16号線の信号=川井宿町=の手前で、右(北東)に進む。 帷子川の流れの関係でこのようなルートを通っていたのだろうか? ![]() 100mほど先で、南北に走っている少し広い道路を横切り北東に向かう。 山の中腹を通っている道筋で、、新しいアパートや住宅がならんでいる。 |
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地蔵の祠-岩舟地蔵尊 |
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変則四辻の角に、地蔵の祠が建つ。 説明板によると、「岩船地蔵尊と呼ばれ、享保10年(1725建立された。全国的な享保の飢饉で、䐢赤井が不安定となった時に、疾病の侵入をふせぎ、老人・幼児を守るために建立されたという。 左に小さな石仏が2基ならんでいる。手前は庚申塔である。 |
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庚申塔(神明社裏) |
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しばらく進むと神明神社の森が見えてくる。 神社への裏手からの入口と道筋との間に道標を兼ねた文字庚申塔がたっている。 『横浜の古道 資料編』には、 右面 「享和三 二月吉日造立之」 (享和3年(1803)) 正面 {庚申塔」 左面 「左 武州都築 神川井村 講中」 と、あるだけで、行き先は不明である。 |
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上川井神明社 |
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裏から境内に入ったが、境内の広さや雰囲気から比べて、社殿がトタン屋根で非常に質素である。正面の石段の下まで行き神社の由緒の説明板を見る。「創建は不詳、中古から江戸時代に至るまで、旧誌小机川井郷の総社として鎮護、地域の総鎮守であったと思われる。」という。 |
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長源寺 |
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街道から長い参道の先、石段を上った高台にある。 寺のHPによると、天平11年(739)行基が開創。 前9年の役の時に、源義家は戦勝祈願し、後 鎧を納めたと伝えられる。 本尊は、大日如来坐像で、室町時代の作で、東国仏教界に強い影響を与えた高層 印融が 永正10年(1513)に寄付したものという。 この先で、寄り道して若葉台団地入口の信号を北に向かい、水路橋を見に行く。 |
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大貫谷戸水路橋 |
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広い道路を北に進むとすぐに、西の山の中腹と東側の中腹を繋いでいる長い水路橋が見えてくる。 昭和27年(1952)に建設された鋼水路橋で、相模湖系原水の導水路として、流量1日48万㎥の水が流れるという。 この水は西谷浄水場まで、勾配をつけただけで流しているという。 ![]() 街道はこのさきで、大和バイパスにぶつかり、バイパスに沿って坂道を北東に向かう。 坂を上って少し先の右手に細道があり、入っていくと水路橋の西にある水路がみえる。(上) バイパスの西側にある川井浄水場を経由しているのか。 |
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道は北東に向かうが、保土ヶ谷バイパスと東名高速のインターチェンジを越えて、南町田に向かい、今の町田街道につながっていくのであるが、今までの街道歩きとは違って、地図を注意深く見ながら進む困難な歩きであった。 そのルートは ①保土ヶ谷バイパスの高架下をくぐって、セブンイレブンの南脇をすぎる。 ②そのまま川井浄水場とバイパスの南の建物群との間を歩く。 ③環状4号線を過ぎたら、バイパスに沿って歩道を400mほど歩く。 ④東名高速にぶつかったら、約150m南に向かい、高速下のトンネルをくぐり、すぐ右へ。 ⑤工場、事務所などの脇を抜け、インターチェンジのサークルの脇を通りバイパスのトンネルをくぐる。 ⑥工事中の為、標識に従いながらバイパスの北側にある工場街の通りへでて、北東に向かう。 |
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辻地蔵尊 |
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約4~500m進んで、国道246号との交差点(町田市辻)となる。寄り道して、辻地蔵尊にいく。 (国道246号の拡張に伴い、移された、という) 交差点前から、100m東に行き、右折してすぐ左側の空き地の端に、地蔵の祠がある。 元文5年(1740)に念仏供養や所願成就を願って建立されたという。 ![]() そこから246号線の反対側にある南つくし野郵便局にむかう。 道祖神が2基立っている。 もとの交差点にもどる。 |
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| ここから自動車道は町田街道となる。 田園都市線の陸橋を越えて、南町田駅に向かった。 |
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