川崎の散歩-川崎大師方面



 旧東海道の散策と合わせて、川崎大師とその周辺を訪れた。六郷橋から旧東海道を川崎駅前/市役所通りの砂子(いさご)交差点まで来たのち、東海道をはなれて、南の稲毛神社を回り多摩川の土手をくだって、川崎大師・塩浜・池上新田方向へと足をのばした。




稲毛公園





 砂子交差点から市役所どおりを第一京浜国道方向にすすみ、その交差点直前の左側に稲毛神社がある。

稲毛神社への入口まえに稲毛公園があり、そこには 大正14年(1925)の架けられた鉄構造のタイトアーチ型橋梁の親柱一対が、残されている。また、平安時代にここに荘園を開いた河崎冠者基家の居館あとと推定されるとする案内版と弁天池が整備されている。


稲毛神社

 稲毛神社は、社伝によると 欽明天皇の頃の創建と伝えられるという。 鎌倉時代に源頼朝の命を受けた佐々木四郎高綱が社殿を造営、その後 江戸幕府から二十石を賜り、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬を集めており、例大祭「河崎山王まつり」は6月15日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて海道名物の一つとなっていたという。



 境内には、樹齢約千年といわれる大銀杏のご神木がある。江戸時代には『山王さまの大銀杏』としてしられ、昭和20年戦災により大きく損傷したが、今亦よみがえっている。



 

 江戸時代中頃、川崎宿の本陣職をつとめ、河崎宿の立て直しや二ヶ領用水の改修などの大事業を行い、『民間省要』を著した田中休寓が神社に奉納した『手洗石』がある。

また、ここには、東海道が新川掘り(今の新川通り)を横切るところにかけられていた「小土呂橋」の遺構が置かれている。橋脚の銘文やその説明があり、当時の状況をうかがう興味深いものである。

真福寺




 稲毛神社から国道を多摩川よりに数分いくと真福寺がある。門が閉じられていた。行基作と伝えられる薬師如来があるという。

河口から4km地点からの多摩川の河口方面




 この国道を六郷橋まで戻り、土手沿いに多摩川をくだり、案内書にあった川崎河港水門を訪れることにした。

案内書によれば、京急大師線の港町から行くのだが、ここまで来た関係上そのまま歩いて多摩川の土手の様子を見ながら出かけた。

 

川崎河港水門


 さらに土手を下っていくと、水門が見えてきた。ちょうど運搬船が出てくるところで、水面からの水門までの高さの関係で、デッキ部分の箱型の部屋と屋根の部分を折りたたんだ状態から、水門をでてすぐにそれを組み立てていた。

→河口から上ってきて、水門を入る運搬船




 

多摩川土手




 多摩川の様子を見ながらしばらく下流に向かって歩くことにした。地図もなしに決めたのが間違いの元で、行けども行けども土手から町に下りる出口が見えてこない。よく考えればわかることで、右側には、味の素の工場の敷地が1km以上つづいているのであった。ようやく大師橋がみえるところで降りることができた。

東門前駅前


  国道から東門前駅入口のところに、大きな寺院が建設中であった。




 東門前駅からも、川崎大師への参道が/商店街がつづいている

明長寺




 東門前側から向かって川崎大師の手前/北側に明長寺がある。

ここには、拝観することはできないが、国の重要文化財になっている『葵梶葉紋染分辻ヶ花染小袖』がしょぞうされている。 案内文によれば、辻ヶ花染は、室町時代から桃山時代にかけて流行した絞り染めの技法で、江戸時代初頭に消滅したため、『幻の染め』とよばれている

川崎大師・平間寺

 明長寺の南側に位置するのが、平間寺で、一般には川崎大師として知られる。

大本堂



 『厄除け弘法大師略縁起』によれば、平間兼乗という猟師(元は武士)が夢のお告げにより、海から弘法大師の木像を引き揚げ、その頃立ち寄った高野山の尊賢上人と共に、大治3年(1128)に寺を建立し、平間寺と号したというのが由来であるという。

大山門

力石



八角五重塔

力石


   境内で力比べに使われた石。

右側の一番大きいものが、百貫(375Kg)おったて石

左側は、持ち上げたもの(36貫)さし石

  

弘法大師道標




  江戸時代初期から、信仰と行楽をかねた川崎大師参詣が大変盛んになった。

そこで江戸からの参詣者のために、寛文3年(1663)に「弘法大師道標」が、川崎宿下手の土居(多摩川より入口)に建てられた。(現在は境内に移された) 

川崎大師駅前




−左側の表参道

若宮八幡宮


 大師駅前広場の右手の道の先に八幡宮の鳥居が見える。

 

若宮八幡宮は、大師河原村の鎮守であり、その境内の奥に、金山神社がある。

八幡宮の資料館には、明治から昭和初期にかけての海苔の養殖につかわれていた船や用具が、展示されており、また、金山神社にまつわるいろいろな絵馬や飾りがケースに飾られている。




金山神社

石観音堂


 川崎大師の南の大師公園のわきを通り、さらに観音通り商店街を5分ほど歩く左側に石観音堂がある。




この石観音堂は、寛文5年(1665)、天台宗明長寺の僧弁融によって開かれたもので、本尊は、石造・如意輪観音像で、境内には、近郷近在の人々の信仰を物語る文化財が残されている。境内には、享保18年(1733)霊亀の助けを受けて、地元の猟師たちが海中から引き揚げたといわれる手水石(霊亀石かん盤)や、延享4年(1747),俳人茗荷坊の門人の記念碑(六人一句碑)その他多くの石造記念物ガ、置かれている。

汐留稲荷



石観音堂から東方向に冥加公園があり、その先に汐留稲荷がる。





境内に、池上幸豊の顕彰碑がある。

それによれば、「池上氏は、日蓮宗の本山の一つである池上本門寺を寄進した新人の厚い家系で、幸豊の曽祖父の代に大師河原に移った。そこの名主となった幸豊は、埋立てによる新田開発を計画したが、なかなか幕府の許可が下りず7年後の宝暦2年(1752)に、ようやく認められた。埋立ては、『笹だし』と呼ばれる方法により進められ6年の歳月を費やして十四町五反余(約14.5ヘクタール)の新田を開発し、宝暦12年(1762)には、『池上新田』と名図けられた一つの村になった。幸豊は、新田開発のほかにも、製塩、ぼう硝(火薬の原料)、ナシやブドウの栽培、砂糖の製造など多くの産業を興し、川崎が発展していく基礎を築き上げた」という。

神明社/塩釜神社




 冥加公園から、首都高速横羽線の高架を向け、大師高校の左手に見て数分あるき貨物線にぶつかる直前に神明社がある

塩釜神社





案内板より抜粋

 

徳川幕府は江戸を新都と定めるに伴い軍事上方からの塩の途絶をおそれ東京湾諸村に塩田の開発を奨励した。大師河原では寛文年間(1661〜73)に塩浜が開かれ塩の生産が始まり、やがて塩浜地区の鎮守として神明社が祀られた。

塩浜は元禄10年(1697)には約二十余町歩の塩田を有し明治43年の廃塩のときにもの釜屋は九つを数えた。境内には並んで稲荷神社と塩釜神社が建っている。塩釜神社には石製の狛犬が並び、その台座には江戸塩問屋の名前が見え製塩が盛んであったことを偲ばせる

徳本上人碑について(入江崎公園)

 神明神社から、貨物線に沿って南に15分ほど行った工場地帯に、入江崎公園があり、そのはずれに『徳本鼻』とよばれる徳本上人の石碑がある

案内板より抜粋

 

徳本上人(宝暦8年〜文政1年)(1758〜1818):浄土宗の高僧 27歳で出家、1792年より諸国を巡り幕末期の庶民層を勧下し『生き仏』として崇められた。

上人の説法を聞いた人々は念仏集団を作りその徳をしたった。その信仰のシンボルが南無阿弥陀仏の六号名号碑であり、市内で6基 存在し、なかでもこの公園の碑が最も大型である。下部には「徳本」のなと独特の花押がある。この花押について上人は「鬼殺す心は丸く田の内に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影」と詠んでいる。




川崎大師周辺:終了

散策日 2006年4月26日 川崎大師駅−川崎駅