神奈川宿その2  (青木橋−帷子川)   地図→ 神奈川新町-保土ヶ谷

青木橋渡った右側の小高い丘の上に本覚寺がある。また正面には三宝寺の壮大なたてものがみえてくる。

本覚寺




案内文より

 本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されてと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。

開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり,横浜を眼下に望み、さらに湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。

領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。

三宝寺




案内文より

三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長二年(1597)に寂した嘆誉和尚の創建である。

弘法大師の作と伝えられる薬師如来象を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は、その後東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。

当時で忘れてならない人物として第二十一世住職弁玉和尚がいる。和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治にかけて活躍した歌人である。

望欣台の碑と弁玉の歌碑




三宝寺の脇をのぼっていくと本覚寺のある丘の頂上付近に到達する。この丘は、高島山と呼ばれている。高島嘉右衛門が別邸を営んだためこう呼ばれるようになった。

高島の鉄道用地埋立てなどの偉業をたたえて、芝増上寺からきた三宝寺21世住職で、歌人の大熊弁玉の筆で、明治10年(1877)、「望欣台の碑」が建立された。また、弁玉の歌碑もある。 
高島先生顕彰碑

高島町方面・・鉄道の開通と埋立て

 現在の横浜駅から桜木町方面の一帯は当時は海であったが、青木町から野毛海岸石崎までの海に、長さ1.4km幅80mの堤を築き、鉄道・道路用地にするという計画を、政府が入札をおこなった。      参加したのは横浜入舟町の商人高島嘉右衛門のみであった。工事は戸部の伊勢山や飯綱山を切り崩して土砂を海に投入するなど難工事であったが、135ヶ月という期間内に完成、埋立地の一部は高島町と命名されている


案内文より

 これは、明治初年に当地付近から横浜駅西口・高島町方面を写した写真である。青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立地が高島嘉右衛門が請負った鉄道用地である。湾の付け根をショートカットして、鉄道を通した様子がよくわかる。今は横浜一の繁華街である西口あたりは、当時は海のなかであった

大綱金刀比羅神社と一理塚



 本覚寺入口まで戻り、三宝寺の真下を通る旧東海道をすすむと、

江戸から七つ目の一里塚あとがある。


案内文より

 この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。

その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かって眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。       また、江戸時代には、神社まえの街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当たり、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。

神奈川の台と茶屋




一里塚からゆるやかな坂道がつづき、左に袖ヶ浦を眺めるなじみのある絵の場所とな

たどり行くほどに金川の台(神奈川台町)に来る。ここは片側に茶店軒をならべ、いずれも屋敷二階造、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、波うちぎはの景色いいたってよし。          ・・・・・・十返舎一九「東海道中膝栗毛」より

 台町の茶屋


田中家

図の「櫻屋」が現在の料亭田中家あたりだといわれている。

神奈川台の関門跡

 開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は外国人とのトラブルをなくすため、安政六年(1859)川崎宿・神奈川宿・保土ヶ谷宿の間に20ヶ所の関門や見張り番所を設け、警備体制を強化した。このとき、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。生麦事件のとき、薩摩藩がこの関門を大急ぎで通過して後、関門は閉じられイギリスの追撃を防いだといわれる。明治四年(1871)に他の関門・番所と共に廃止された

上台橋

関門跡を西に下ると上台橋があり、そこが「神奈川宿歴史の道」のもう一方の起点である

 現在の横浜駅の一帯から、久保町方面にかけては、袖ヶ浦とよばれた内湾であった。旧東海道は、神奈川宿から海に沿って(現在の楠町から浅間町)保土ケ谷宿へ通じていた。あたりは静かな入り江に白帆が浮かぶなど、大変景色のよい所として有名であった。
江戸時代、街道沿いの宿と宿の間には、人足や馬の休憩場所としての立場(たてば)があった。神奈川宿と保土ケ谷宿の間の芝生村(しぼうむら・現浅間町)は、この立場として発展した村で、農場のほかに飯屋や酒、わらじの販売など商業も営まれていた。 

この上台橋をさらに東海道を保土ヶ谷方面へ進む。

 勧行寺

 いまの首都高速の高架の下をくぐると、右手に勧行寺がみえる

 文禄4年(1595)開山。本尊は大曼荼羅、一塔両尊。門を入ってすぐ左手に近藤内蔵助長裕の墓(供養塔)がある。彼は天然理心流という剣法の開祖で、新撰組の隊長として名を残した近藤勇はその4代目にあたるという。
また、横浜のエキゾチシズムを描いた横浜生まれの作家・北村透馬と劇作家の余志子夫人が眠る。境内には、名木古木指定のイチョウがある。(西区HPより) 

浅間町の交差点を渡り、旧東海道を西に進むと、浅間神社への登り口がある。

浅間神社

 

文治元年(1185)平家討滅と戦勝のため関東一円の社寺に寄進を行っている折、武蔵国橘樹郡芝生(しぼう)村に富士山の形状の山地があることから、社伝の修築、勧請したといわれる。祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で富士山頂の浅間神社を元宮とする。

また、同じく案内版によると、この境内に十幾つもの横穴古墳群があり、その玄室から、須恵器の瓶や平瓶などが出土したことから、このあたりを開いた有力者が葬られたゆかりの地であるという。

浅間台みはらし公園からみた桜木町方面

浅間神社がある丘の頂にある浅間台みはらし公園からみた現在のみなとみらい地区・・・・登り口は、三ツ沢公園方面寄りにある

芝生(しぼう)の追分



芝生(しぼう)と保土ヶ谷の境にある三叉路は、東海道でも芝生(しぼう)の追分(おいわけ)といって有名だった。

まっすぐ進むと江戸時代の初めにできた新しい東海道と、広重の保土ヶ谷宿の絵で有名な帷子橋につながる。右にいくと、それ以前の旧東海道の古町どおりに通じる。その道は途中からさらに分岐して八王子道となって八王子まで延びていた。 そのため、江戸時代には、東海道と甲州街道を結ぶ要路として賑わいを見せていた。

安政六年(1859)の横浜開港以後は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれている。

洪福寺

松原商店街を抜けて国道16号線を東に行き、環状一号線と交わったところが、洪福寺交差点である。少し変わった屋根を持つ洪福寺である。

横浜にある有名な商店街 『洪福寺松原商店街』の町の名のもとになっている。

橘樹神社




 橘樹神社は、文治2年(1186)源頼朝が創建したと伝えられている江戸時代には牛頭天王社とよばれていた。             

祭神は「後ろ向き天王様」として崇められている。・・・・・・・「新編武蔵風土記稿」には、祭神が秘仏なので後ろに顔を背けてすわっており、祈願をする人は、本殿の後ろへ回って拝む、と伝えられています。
 これに対し、土地の古老によると、祭神の正面には強い光が射し、とても拝めないことから後ろ向きになっており、本殿の後方から正面を拝むつもりで詣でる習慣があるということです。

また境内にある庚申塔は、保土ヶ谷区内最古といわれる。

石だらい盤  

  延宝6年(1678年)に、江戸より牛頭天王社に江寄進されるた、とある。   (案内板)

現在の帷子橋

  広重の絵で有名な保土ヶ谷の橋は、いまの天王町駅前の公園付近にあったということで、記念碑がある。昭和31年に帷子川の流れが天王町駅の南側から北側に付け替えられたのに伴い、橋の位置もかわった。
散策日 2006年3月20日 神奈川新町−天王町
2006年4月7日 瀧の川−帷子川