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<東京下町の散策と食事を楽しむ>

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市ヶ谷と神楽坂散歩          神楽坂「竹ちゃん」 
                                 2020年2月12日
                  
地図→①市ヶ谷   ②神楽坂


  今回は、神楽坂で庶民的な居酒屋での飲み会である。 そして、下町ではなく、山の手である。

 以前歩いた小石川後楽園の西側のあたる地域で、江戸城の西北側の外堀を中心に見て、神楽坂まで散策することにした。

 地下鉄の市ヶ谷駅から出発する前に、メトロ南北線の市ヶ谷駅の構内に、江戸城外堀に関わる展示コーナーがあるので、改札口を出る前に訪れることにした。

 江戸歴史散歩コーナー
 
    南北線の建設工事で、周辺から江戸城外堀の遺跡が多く出土したのに伴い、このコーナーが設置されたという。
 まず目につくのが、再現されている江戸城の石垣で、九段南の雉子橋から出土した石材が使われている。

 寛永13年(1636)に行われた外様大名によって行われた「江戸城外堀普請」の様子や、小田原藩の大久保家が行った、石材の切り出しから運搬までの手順を描いた図が展示されている。
  切石の沢落としや、、修羅(木のソリ)を使った巨石の浜出し、ろくろ(巻車)を使った船への積み込みなど・・
 四谷見付の玉川上水の水道網の図や、外堀の上に渡された木樋や懸樋の図面などが、解説されている。



 地下鉄の駅を出ると、南側にすぐ外堀がひろがる。
 
亀岡八幡宮
 
 



  <境内の梅>

 外堀通りを西に向かうと 防衛省の広大な敷地があるが、手前
の右側の丘に続く急な石階段がある。
市ケ谷亀岡八幡宮である。
 太田道灌が江戸城築城の際 文明11年(1479) 西方の守護神として鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりで、江戸城の外堀ができたのを機に現在地に移転、家光や綱吉の母桂昌院の信仰を得て、再興された。

 石段の途中に大きな鳥居がある。
文化元年(1804)に建造された銅製の明神鳥居-460cm。
 


 境内には、宝暦7年(1757)に奉納された水鉢が置かれているが、その台座に「几号(きごう)水準点」が刻まれている。


内務省地理寮による高低測量が開始された基準となる測量点で、明治8年(1875)頃に刻印された という。

 市ヶ谷橋・市ヶ谷見附跡
 
    メトロ南北線まで戻り、外堀に架かる市ヶ谷橋を渡る。
                     <市ヶ谷橋から西方向の眺め>    四谷と牛込の間の市ヶ谷付近の濠は、同じ高さなので、濠の幅を広くして敵に備えたという。

渡った先の JR市ヶ谷駅の交差点の左コーナーに交番がある。この付近が市ヶ谷見附跡である。
、桜田門と同様の 枡形の市ヶ谷御門があった。

 <江戸城外堀御門の位置-クリックするとクリックするt拡大拡大>



 



外堀に沿って飯田橋方面へ向かう。
 
新見附橋
 
    明治の中頃、旧麹町と牛込区の住民の行き来の便宜を図るために造られた橋である。                    
           <新見附橋橋から飯田橋方面への眺め> 
 
靖国神社

 


 少し寄り道して、靖国神社に立ち寄る

 いつもとは違って、神社の南門から入る。
そこには、幕末志士ゆかりの「練兵館」跡の立て札がたっている。高杉晋作、桂小五郎など志士が多く入門、 千葉周作の玄武館、桃井春蔵の志学館と共に幕末の三道場といわれているという。



 神社の当初は「東京招魂社」として、戊辰戦争での霊を祀ることで創建された、明治12年(1879)に靖国神社となった。

 東側の広場の一角に 大村益次郎の大きな銅像が建っている。  大村益次郎は、、文政7年(1824)、周防国(山口市)の医者の家に生まれ村田蔵六といい、緒方洪庵み蘭学を学んだのち、江戸に出て私塾「鳩居堂」を開いた。その後長州藩に仕え、戊辰戦争では、大総督府に参じて東北の乱を平定した。
 明治新政府で、軍聖を洋式に改めることを主張したため、攘夷主義者に襲われ、明治2年(1869)死亡。
 大村益次郎は戊辰戦争での戦没者を祀るための東京招聘社の創建に貢献したことから、この銅像が建てられたという。

 神社のある九段坂の台地から 北側の外堀方面に下っていく。
このあたりは、江戸時代は、旗本が多く住む武家地であったが、富士の雄姿が眺められることから明治以降富士見町と名付けられたという。

 

 
牛込門・牛込見附跡
 
   外堀の土手にくると、ここまでが小高い台地になっていることが分かる。
 飯田橋駅前の交差点にくると、左側に大きな石垣が残されており、反対側にも石垣がある。クリックすると拡大 牛込見附跡で、その先に牛込橋が神楽坂の方向に架かっている。
  (枡形復元図↠クリックすると拡大)



寛永16年(1636)に阿波徳島藩主の蜂須賀阿波守忠英によって築かれたといい、橋に向かって右側にその石組の一つが展示されている。 下部に「入阿波守内」の文字が刻まれている。



 説明板には、「田安門を起点とする上州道の出口という交通の拠点であり、秋の紅葉時には、楓が見事であった」という。
明治はじめのころの見付の写真や、枡形の復元図が展示されている。

飯田濠・牛込揚場跡
 
 クリックすると拡大   ←明治はじめのころの飯田濠と見附の写真(クリックで拡大)
牛込橋から東側は飯田濠と呼ばれ、牛込橋の下の滝があり、飯田濠と牛込濠を隔てていた。

、隅田川から、飯田濠までは、神田川を経由して船が入ることが出来た。濠の両側は、神楽河岸、飯田河岸とよばれて、船の荷物の荷揚げでにぎわっていた。
昭和47年(1972)市街地再開発事業により、飯田橋までのあいだが埋立てられた。

神楽坂方面へ行く前に、飯田濠のあった飯田橋駅の周囲をまわる。

<飯田濠の石垣>
飯田濠の一部が復元されており、石垣に一部が残されている。その先には、牛込荷揚場跡の石碑が建つ。





<牛込揚場跡>

水辺公園の中ほどに牛込揚場跡の碑が立つ。 隅田川から神田川を船で遡って運ばれる荷を、この辺りで荷揚げしていた

 
神楽坂
 
  ←牛込橋から見た入口交差点。
 坂に入ったすぐに坂名の由来が書かれた標柱がある。 この坂の途中に、早稲田にある歴代将軍の祈祷所である高田八幡宮(穴八幡)の祭礼の時、坂の途中に設けられた「御旅所」に神楽を奉納したことから、付けられた、など、神楽にちなんだ諸説がある、という。
 
  
神楽坂の景色
 
通りに入ってすぐを右に入る神楽小路がある。

 <神楽小路>
 
<みちくさ横丁>








<軽子坂>
 軽子とは、軽籠持の略称で、
飯田濠の船着場で、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れて江戸市中に運んだ人が多く住んでいたことからつけられたという。
 
泉鏡花・北原白秋旧居跡
 
   神楽小路の入り口まで戻り、反対側の小道に入り、坂を上る。
いくと、小さい空き地に碑が建ちここに、、泉鏡花・北原白秋が住んだことがあったという。

その先には 若宮八幡神社がある。
ここから北に向かって坂道が続きその先には、戦国時代には城があったという。
神楽坂まで戻る。

善国寺
 
   神楽坂のにぎやかな商店街を進んでいくと、左手に朱色の善国寺がある。
文禄4年(1595)に麹町に創建され、寛政5年(1793)にここに移転してき 本尊の毘沙門天造立時期は室町時代という。
神楽坂の毘沙門天として、江戸時代から信仰を集め、一帯は門前町として栄えたという。
 本堂の石段の両脇に、安山岩製の虎の石像がある。石虎といわれ、像高は約80cmで、嘉永元年(1848)に奉納されたものという。
 
地蔵坂
 
 護国寺の先を左に入り、光照寺と牛込城あとを見に行く。
坂道を進むと、地蔵坂の標柱がある。
光照寺には近江国の三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があり、それにちなんで付けられた坂という。
 
光照寺と牛込城跡
 
     境内に入ると南に向いている高台にあることが分かる。戦国時代のこの地域の領主であった牛込氏の居城跡という。
今はビルが並んで昔の面影はない。

説明板によると、牛込氏は、赤城山のふもとの領主、大胡氏を祖とし、天文年間(1532~55)に南関東に進出、北条氏の家臣となり 赤坂・桜田・日比谷付近を領有した。その後 徳川家康に従い牛込城は壊され、江戸時代には徳川の旗本として徳川家に仕えた、という。
 光照寺は、正保2年(1645) 神田からこの地に移転してきたもので、先ほどの地蔵坂の由来ともなった 木像地蔵菩薩座像がある。説明板によれば像高31cm、13世紀末の作品で、仏師快慶の作と伝わる。


 神楽坂の景色
 
 本多横丁  
善国寺までもどり、坂の東側をあるく。

本多横丁という名前の細道を進む。
この辺りは、江戸中期から明治初期までは、旗本の本多家の
邸地であったという。
 兵庫横丁
石畳の細い路地が続く。

鎌倉時代からある鎌倉古道。
 
 
寺内(じない)公園
 
   路地を抜けると、寺内公園という小さな公園が現れる。

説明板によると 鎌倉時代末から「行先寺」があり、その門前には、古くからの町屋「兵庫町」があり、三代家光が鷹狩に来るたびに肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになり、その後「境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようにり、その中の狭い路地が、安政4年(1857)ごろから遊行の地となり、神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられている。」 という。
 行元寺が移転した後の、大正時代の区画整理で、大久保通りが出来、寺の跡地は「寺内」とよばれ、「味わい深い粋な花柳街として、毘沙門の縁日と共に多くの人に親しまれ、山の手随一の繫華街として賑わった。」 とある。


今日の目指す場所は、メトロ東西線の神楽坂駅近くなので、ここから大久保通りにでて早稲田通りの北側の台地を歩いて行く。


築土八幡神社
 
    筑土八幡町の交差点の北の高台に神社がある。
築土八幡神社の起源は社伝によると平安期の弘仁9年(818)宇佐八幡宮から勧請を受けて鎮守としたと云われているが、江戸名所図会では慈覚大師が、伝教大師の阿弥陀如来像を祀ったことが起こりとしている。
その後文明年間(1469~87)に江戸の開拓あたった関東管領の上杉朝興が砦と共に社殿を造りこの地の産土神とし、江戸鎮護の神と仰いだという。

 石段の途中には大きな石造り鳥居がある。享保11年(1726)の建立された区内最古の鳥居で、高さ375cm。
クリックすると拡大


 本殿の前には大きな庚申塔がある。寛文4年(1664)に奉納された船型(光背型)で、高さ186cm。
最上部に日月、中央部に一対の雌雄の猿と桃の木を配した構図で、全国的にも珍しいという。
(右側のオス猿は立ち上がり身の付いた桃の枝を手折っているのに対し、右側のメス猿はうずくまり桃の実一枝を持っている。) (クリックすると拡大)



 .本殿の脇から、大久保に戻る途中に坂道を下るが、そこには「御殿坂」の標識がある。
<御殿坂>
 3代将軍家光の頃、世継ぎの家綱の御殿があったことから、そう呼ばれたという。






神楽坂駅に行く前に
北にある赤城神社に立ち寄る。

 
赤城神社
 
   参道をを進むと赤い大きな鳥居に「赤城神社」という立派な扁額がかかっており、
ふつうの神社の形態であるが、その先にある社殿は、ガラス張りのモダンな本殿であった。
狛犬も斬新だ。
あとで調べたら 新国立競技場のデザインを手がけた隈研吾氏の監修により、2010年にリニュウアルされたものという。

 「赤城神社は、正安2年(1300)上野国の赤城山神社の分霊を、今の早稲田鶴巻町の森中に小さな祠を建てて勧請したのが始まりという。
その後江戸幕府は天和3年(1683)に赤城神社を江戸大社の列に加え、牛込総鎮守となった。」という。
  本殿の西側は早稲田方面の眺めの良い場所で、
この北の寺から移された観音菩薩立像が安置されている。
慶長18年(1613)と刻まれている。
 
竹ちゃん
 
    今晩の会場である「竹ちゃん」にいく。
神楽坂駅のすぐそばで、天井が高く、奥行きのある広い店である。
 つまみ類も豊富で、値段も手ごろ!
時間が早かったせいか、久しぶりののんびりとした居酒屋ムードを満喫した。
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(クリックすると拡大)


追記
この後 他のメンバー3人が、近所に住む友人を誘って、2次会に出かけたという。、その写真を送ってくれた。(クリックしてみる)
 皆さんまだまだ元気だ!

近くに住む友人・・・・白秋の住んだ神楽坂、 漱石の「硝子戸の中に出てくる神楽坂、・・・・に居を構えるとは、うらやましい限りである。