| 小田原 板橋〜湯本 地図→ 鴨宮-小田原(湯本) |
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| 小田急/箱根登山鉄道で板橋で下車し、国道を板橋見附跡まで少し戻ったところからスタートする。次回に、いよいよ箱根の登りを湯本から予定しているため今回はゆったりした散策である。ここからの箱根越えのルートは、田代道彌氏の「あるく・見る 箱根八里」を参考にした。図書館でしか閲覧できなかったのが、以前でかけた湯本の箱根町立郷土資料館で販売されていたので手に入れることができ、それを読みながらの旅であった。 | |||
| 板橋見附説明板 | |||
| 板橋駅から国道を戻り、新幹線のガードをくぐった東側→光明寺の角に、板橋見附跡の構造や近辺の詳しい説明板が建っている。 | |||
| 板橋見附跡から箱根方面を望む | |||
| ここから、板橋地蔵尊をすぎるまでは、旧東海道は国道1号線と並行して北側を進むことになる。 すぐに右に入る細道をいくと、水量の多い用水が流れている。小田原北条時代にこの先にある早川の取水口からの取り入れた小田原用水(早川用水)が開渠で残っている。 |
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| 小田原用水(早川用水) | |||
| この用水沿いの細い道を、旧東海道と並行して歩くと、右側に次々と寺院が現れる。室町時代から北条氏時代にかけて創建されたものが多いという。 本応寺 宗久寺 生福寺 |
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| 古希庵 | |||
| 栄善寺という寺を過ぎてから右に入る坂を登っていくと、「古希庵」という山県有朋が構えた別荘がある。 この茅葺の山門は、史実をもとに復元されたものという。 毎週日曜日に公開されるということで、入れなかったが、説明板によると、「庭園は、それまでの日本古来の庭園の伝統を排した「古希庵築造」で、明治大正の自然主義的な和風庭園のルーツとなった」という。 |
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| 板橋地蔵尊 | |||
| 旧東海道にもどり200mほど西に進むと2本の大イチョウがそびえる広い境内をもつ堂がある。「板橋のお地蔵さん」と親しまれている地蔵堂で、毎年1月と8月23日の縁日には市が立ったという。 堂の右手にある大黒天は、小田原八幡山の楠の巨木を生きたまま彫刻し、戦後枯れ死したのでここに移されたという。 境内への入り口、右側には慰霊碑がある。慶応4年(1868年)の戊辰戦役の際に死んだ人々のうち、官軍に属した戦死者を埋葬したという。 |
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| 秋葉山量覚院と秋葉神社 | |||
| 地蔵尊の脇の道から裏手にあたる道にでると、秋葉山量覚院があり、境内をぬけたその奥に秋葉神社がある。「本山修験宗の末寺(総本山は京都聖護院)で修験道(山伏)の寺院」(説明板)という。 慶長元年(1596年)小田原城主大久保忠世が、代々帰依してきた秋葉山三尺坊(遠江天狗の総帥といわれる有名な天狗)を祀ったもので、さらに別当として量覚院を創建したという。 毎年12月に行われる秋葉山の火祭りが有名である。 |
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| 小田原用水取入口と石碑 | |||
| 国道と合流してすぐ左側に「小田原用水取入口」という案内があり、土手に案内板と石の祠、市川文次郎の石碑がある。(取水口付近は工事中であった。) この地で早川の水を取り入れ、板橋見附までは、旧東海道の北側をとおり、、光円寺の本堂背後から旧東海道の中央に出て、小田原城下を流れ東の江戸見附付近まで流れていたという。 小田原北条氏時代に施設されたもので、日本各地の城下町の用水がほとんど江戸初期に出現したのに比べ、早い時期の大規模なものであったという。 |
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| ふじ山と細川忠興陣跡 | |||
| 国道に出る直前の箱根登山鉄道をくぐる前を右に坂道をの登っていくと「富士山愛山会」という住宅地がある。頂上に近くなり家の途切れる付近に右に入る細い登り口がありその先に小さな祠が建っている。もともと北条氏の出城の一部を、天正18年(1590年)の北条攻め時に、細川忠興父子が奪い陣所としていたという。 国道にもどり、登った富士山を右に見ながら進む。レールの上は急な崖となっており、石切場があり、このあたりの江戸時代の道はもっと急坂で、「お塔坂」と呼ばれたという。 |
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| お塔坂と日蓮聖人の遺跡 「象ヶ鼻」 | |||
| 国道にもどり、登った富士山を右に見ながら進む。レールの上は急な崖となっており、石切場があり、このあたりの江戸時代の道はもっと急坂で、「お塔坂」と呼ばれたという。 小田原厚木道路の高架をくぐると右に箱根登山鉄道の踏切があり、渡ると右手に「日蓮聖人霊跡」というの案内板と、石塔2基がある。 |
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文永11年(1274年)日蓮が身延山に行く途中、形が像の鼻に似た巨石の上で房総を望み両親のために回向したという。 |
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| 題目塔 | |||
| 案内板の左脇に石塔2基があり、ひとつは題目塔で寛永12年(1672年)、ほかが、馬頭観音石塔で、元治元年(1864年)と刻まれている。 ここから、旧東海道は国道と離れて鉄道の北側を進み、風祭に入る。 |
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| 妙覚寺 | |||
| 右手に妙覚寺の参道がある。田代氏によると、この寺は時々「不授不施」の住職が出て小田原藩領主を日蓮宗に帰依させようとして実現するまでは施しを受けない、改宗を強要したという。 すぐとなりの風祭の八幡神社の別当寺であった。 |
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| 八幡神社 | |||
| 大祭の日に里芋を串にさして参拝客に配る「芋田楽」が有名という。 社殿右奥の小祠にめずらしい石像がある。 一対の石造こま犬 翼のある山伏姿の石像 |
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| 風祭風景 | |||
| この付近の旧東海道は山裾をとおる町並や、道幅など往時の面影を残していて、車の通行も少なく趣のあるみちである。 神社の先の右側の魚屋さんのとなりに稲荷型道祖神がある。 |
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| 一里塚跡 | |||
| 風祭駅への入り口を過ぎて100mほどの右側に一里塚跡と道祖神がある。 江戸から21番目で、実際には、この説明板が建っているところから、少し戻った位置の北側に男塚、南側に女塚と呼んで、榎が植えられていたいう。 |
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| 2種類の道祖神 | |||
| 一里塚の説明板の脇に2種類の道祖神がある。 田代氏によれば、手前の仏様のような形の座像は「伊豆型道祖神」で伊豆半島基部に広く分布するという。奥側にあるのが石の祠型をしたもので、「稲荷型道祖神」という。 |
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| 萬松院 | |||
| 道祖神の脇に山からの小川があり、その道を200mほど登ると藁葺き屋根の萬松院がある。 北条氏滅亡後小田原城主になった大久保忠世が、徳川家康の長男信康の霊を祀るために建てたという。合わせて、忠世は小田原城の北・・八幡山(現小田原高校内)に若宮八幡を建立したという。 |
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| 宝泉寺 | |||
| 萬松院から一里塚跡までもどり、つぎを右手にはいると宝泉寺である。 説明板によれば、永禄元年(1558年)北条時長により創建されたが、開基の時長の出生は不明というが、本堂屋根瓦の三つ鱗紋や寺の文書などから小田原北条氏の一門と考えられているという。 また、田代氏によれば、宝泉寺の裏から入生田の山にかけて、古い採石場があり、凝灰角礫岩が切り出されていたというが、小田原周辺の石仏など以外に、早川用水の工事に使われたのではないかと推定している。 |
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| 紹大寺 総門跡 | |||
| 右手に街道よりも広い紹大寺の参道が現れてくる。小田原城主稲葉正則が城下の山角町に父母の菩提を弔うため建てたが、寛文9年(1669年)に宇治の万福寺から隠元禅師の弟子の鉄牛和尚を開山としてこの地に移し建立した「黄檗宗(おうばくしゅう)」の寺院である。 往時は寺域が東西1.6km、南北1.1kmにおよび360段の参道の上の高台には多数の堂塔伽藍が配置され、黄檗宗の関東第一の寺院であった。《黄檗宗は、承応3年(1654年)に明/末〜清/初の中国から招聘された隠元禅師によりもたらされた。臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである》 |
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| 紹大寺 子院 清雲院 | |||
| 総門跡の先、左手に清雲院がある。隠元筆の「長興山」の額-紹大寺総門にあったもの 七堂伽藍は過去の火災で焼失したが、唯一つ残った塔頭が子院・清雲院で、現在紹大寺の山号を継承している。 →山門前には、「松樹王」の刻銘石-東海道の風祭と入生田の境にあった境界石がある。 |
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| 紹大寺 石段 | |||
| 広い参道はうっそうとした杉木立の中、長い石段になり、その途中に石地蔵跡の説明板がある 石地蔵は稲葉正則の父正勝の家臣である塚田杢助(もくすけ)正家が、主君の一周忌にあたり切腹して殉死したことを供養して、建てられたという。 明治11年(1878年)箱根湯本の正眼寺に移された。 |
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| 紹大寺 伽藍の跡 | |||
| 石段の最後に、石橋の「透天橋」を渡り、その先の広く平坦な場所が、紹大寺の主要伽藍の跡である。 この橋から先の参道が、下記配置図の下側の天王殿につながり、その奥に仏殿が建っていた。 今はミカン畑となっており、その奥の石段の上にある稲葉家の御霊屋跡から今登ってきた参道側をみると、遠くに相模湾が望まれる 。 |
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| 紹大寺 稲葉氏一族の墓 | |||
| 御霊屋跡のさらに奥の杉林のなかに、春日局を中心に稲葉氏一族の墓が7基ならび、右手に塚田杢助正家の墓も建っている。 春日局は稲葉正則の父正勝の実母で、正則が幼少の時から育てられ成人したと伝えられている。その墓は、正則が祖母の追福のために造った供養塔という。 |
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| 紹大寺 刻銘石 | |||
| その石段の下に、「瓔珞桜(ようらくおう)」と彫られた刻銘石がある。しだれ桜への道を示す石の指導標であるが、これから先しだれ桜まで行く途中に文字がきざまれたいろいろな石がある。説明板も付いており興味深い。 「百花叢」 「石牛路」 |
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| 「牛伏石」 | |||
| 「石牛路」から左に急な坂道を登ると「牛伏石」がある。 右に小さが沢を見ながら、登り20分(下り10分)の道のりだが、木立の中にうずくまっているその石を見ると、きつい坂道の分だけ感慨がひときわ大きくなる。 |
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| 紹大寺 開山鉄牛の寿塔 | |||
| 左手の石段を登ると、開山 鉄牛和尚の寿塔がある。貞享4年(1687年)に鉄牛の長寿をを祝して建てられた。 (60歳の時) |
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| 紹大寺 しだれ桜 | |||
| 少し下ると、明るく開けた場所にでる。一吸亭跡や、琵琶池の説明板があり、すぐ下に一本の桜の巨木がそびえている。このしだれ桜は本州中西部以西に生えるエドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、高さ約13m、稲葉氏が紹大寺を建立した頃に植えられたもので、樹齢330年以上という。 ここから総門まで、「裏大門」と呼ばれたところを下っていく。 途中荻窪用水が流れ、その小田原駅西口までの散策コース説明板がある。 |
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| 紹太寺総門跡までもどり、100mほど先の右手の民家の間に長い石段がある。 林業や石材関係の仕事を営む人々が、祀ったという。拝殿の右にある鳥居の奥に石の祠があり、これは、江戸時代早川の流れが変化してなくなった村・・後河原村・・の鎮守が移されてきたという。 |
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| 入生田の町並み | |||
| 箱根登山鉄道-入生田駅の北側付近の旧東海道の様子。 | |||
| 駒繋ぎ橋 | |||
| しばらく進むと箱根登山鉄道の踏切を渡るが、本来の東海道は手前のの坂を右に登っていたという。 小さな川を右に見ながら進むと右手に「駒ノ爪橋跡」の案内板がる。 源頼朝が富士の巻狩りから帰る際、この石橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際、橋の上に馬のひずめの跡が残ったという。旅人が「頼朝の馬の頑健な足にあやかりたい」と祈願したという。 |
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| 牛頭天王神社 | |||
| すぐに、国道一号線と合流するが100m先で旧東海道は右に分かれる。その右手に小さな川と石段が箱根登山鉄道の線路の下をくぐっている。その先に牛頭天王神社の鳥居がある。手すりのついた急な石段を登り切ると、巨岩の前に小さな祠が祀られている。 |
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| 山神神社 | |||
| そこから約200mほど先で、左側が国道一号線と接する地点までくると、右側に箱根登山鉄道の線路に向かう細い道と石段がある。 踏切を渡ると山崎の山神神社の鳥居が見え、石段が続く。 登る途中右側にに赤い鳥居がありそこに小さな稲荷の祠の後ろに六十六部供養塔がある、 田代氏によれば天文12年(1543年)の石塔であり、戦国時代にはここ山崎は箱根越えの麓の基地として、繁栄していたという。 六十六部供養塔:鎌倉時代末期に始まり、書写した法華経を全国66の霊場に一部ずつ納めるために諸国(当時の全国は66か国で構成)を遍歴した-その巡礼僧を六十六部と呼んだ。。(略して六部ともいう)。供養塔は、目的達成の記念と功徳を他者に施すためのもの。 |
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| 石段を登ると山神神社の拝殿があり、左手に石仏と庚申供養塔がある。石仏は、袈裟をつけているが地元の伝承では大日如来という。享保12年(1727年)の台座がある。(田代氏) 庚申供養塔は、明和9年(1772年)の銘がある。 |
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| 道祖神 | |||
| 旧道の戻り、すぐ右手の空き地のようなスペースに、道祖神が無造作に置かれている。 伊豆型の道祖神では、一番北に位置するという。正月の村人の行事に引きずり回されたりした名残があるという。 |
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| 山崎の古戦場跡の先の切り通し | (切り通しの先から、石垣山方向を見る) | ||
| 100mほど先で再び国道に合流するが、工事中のため、合流地点にあるという山崎古戦場の碑は見つからなかった。 慶応4年/明治元年(1868)江戸無血開城のあと小田原藩は新政府に恭順していたが、幕府遊撃隊が密かに小田原に入り協力を求め、また上野彰義隊の誤報もあり徳川氏に近かった小田原藩は遊撃隊とともに新政府軍を攻撃してしまった。 しかしその後、大目付中垣謙斎の藩主忠礼への説得を受け、再び新政府軍に恭順し、やむなく遊撃隊を山崎で激戦の末に撃退した。 (遊撃隊はこの山崎の台地に陣を構え、小田原藩は風祭方向から攻撃してきた) |
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| 箱根路石碑 | |||
| このあたりの切り通しの拡張は明治21年、湯本―国府津間に馬車鉄道が開通する時であったという。右手に湯本中学校があり、入口に国道を横断する歩道橋があるが、その東側の台地が当時の線路敷の名残とのことである。 歩道橋の手前左側に箱根路の石碑が見える。 |
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| 三枚橋 | |||
| 200mほど先が三枚橋で、、国道一号線はまっすぐ湯本駅方面に行き、旧東海道は早川をわたっていよいよ箱根路を進むことになる。 | |||
| 参考 | 「あるく・見る 箱根八里」 田代道彌 | ||
| 散策日 | 2008年10月1日 | 小田原板橋―箱根湯本 | |