参考 小田原の史跡  川東版 (小田原市教育委員会) 
小田原の史跡 川西版
かながわの古道 阿部正道 著
小田原の史跡めぐり 立木望隆 著
散策日  2019年 6月14日
      11月27日
小田原駅 - 鴨宮 - 国府津駅

五百羅漢と飯泉観音, 菅原神社・・・・巡礼街道を行く                                                


2019年6月14日、11月27日

地図  ①五百羅漢-鴨宮  ②鴨宮-国府津




 小田原 鴨宮のショッピングモールでの会合に参加するの機会に合わせ、以前から予定していた五百羅漢と飯泉観音を訪れることにした。 巡礼街道を西から東に向けて歩いた。
 その後2回目の会合時に、国府津の天神さんをおとずれ、東側から巡礼街道を歩いて、一通り歩くことができた。

 一回目は、小田原駅から五百羅漢駅でおり、そこから酒匂川を渡って飯泉観音経由で鴨宮までのルートである。

 小田原駅に出かけて、時間に余裕があれば、いつも小田原城を訪れることにしている。
今回はお濠端までである。






 玉宝寺は、大雄山線の五百羅漢駅から南にすぐの所にある。
 
五百羅漢 玉宝寺
 
 
  玉宝寺は、秦野市にある曹洞宗香雲寺の末寺で、天文3年(1534)に小田原北条氏の家臣 垪和(はが)伊予守に建立されたという。(開山は香雲寺4世の実堂宗梅和尚)
 釈迦の弟子500人の羅漢像と十六羅漢が祀られているため、多古の「五百羅漢」と呼ばれる。

 その縁起は次のようである。
「享保15年(1729)に、当時の住職隣堂和尚と村民智鉄に塚原村の山の地蔵が夢枕に立ち五百羅漢を造像して供養するようにお告げがあったという。智鉄は村々を勧進して歩き7年目に170体を造立するが、病で亡くなり、弟の真澄がその意志を継ぎ、28年の歳月をかけて宝暦7年(1757)に完成した。」
 その後の地震で崩壊したものを、万延年間((1860~61)に修復されたのが今の羅漢像という。


     本堂は閉まっているが、寺務所で、写真撮影の許可をもらって入る。

クリックすると拡大 祭壇を囲んで、高さ24cmから60cmの木造がならんでいる様子には圧倒される。
(クリックすると拡大)  

クリックすると拡大 






                    
                   (クリックすると拡大)
 


 五百羅漢像
 クリックすると拡大
クリックすると拡大
山門  
  
  山門の前には、宝暦元年(1751)建立の宝篋印塔が建っている。


 子育て地蔵 不動明王 大日如来
 
「五百羅漢像には、静岡県下興津の清見寺、千葉県下館山の日本寺のような石造のものもあるが、木像でこれだけ立派に揃ったものは、全国的に見ても数少ない」 (立木氏)という。 
 清見寺のものは、天明年間(1781~89)に彫造されたもので、数年前に旧東海道歩きで訪れた所である。


玉宝寺から南に進み、白山神社前を通って、白山中学校の角を左に向かい、国道255号線に出る。
   
 
酒匂川と飯泉の渡し
 
 
 酒匂川を飯泉橋で渡る。
橋の北、左手は、狩川が合流してくる地点で、「飯泉の渡」しがあったところである。
 多古村と飯泉村を結ぶ渡船場があり、9月から4月までは 土橋が利用されていたという。
   
    橋を渡り切って土手沿いの道を北に向かうと、正面に勝福寺の大きな山門が見えてくる。

 小田原から大山に向かう大山道、巡礼街道の交差する三つの道路がまじわっていたところで、かっては門前に旅人を泊める家が6軒あったという。
 
勝福寺
 
     通称 飯泉観音 と呼ばれ飯泉山勝福寺 真言宗の寺で、坂東第五番の札所であり、だるま市で有名である。

 由緒によると
、「創立は、奈良時代のころ、弓削道鏡が流されて下野に赴くときに、千代の里に寺を建立し、孝謙天皇より賜った唐国伝来の観音像を安置したのに始まると伝えられる。
千葉〈ちよ〉山 弓削寺と呼んだ」 という。
 
その千代は、今は、「千代台 廃寺址」と呼んで、屋根瓦が出土し、注目を浴びている場所である。(立木氏)

 <本堂-観音堂>
 
   本堂(観音堂)は、今は草葺きから銅板葺きに代わっているが、宝永3年(1706)に再建されたもので、昭和40年(1965)に改修復元された。江戸初期頃の様式をとどめた地方色豊かな建物、という。 
 本尊は十一面観世音菩薩立像で一本造り、像高101cm、弘仁仏といわれ、地方仏師の作であるという。


 観音堂の彫刻 ・・・・ 天女には羽衣ではなく羽がある。
 
<山門>
 
     宝暦8年(1753)に再建された仁王門。
 
<境内>飯泉観音にまつわる伝説にかかわるものが多く残されていう。 
   
 <青銅水鉢>

 
竜頭船の方をした大きな水鉢 船尾の市に阿弥陀如来の座像がある。宝永7年(1704)の本堂再建ジに奉納された。

<鐘楼>
寛文6年(1629)、小田原の鋳物師の作という。










<二宮金次郎像>
 小学校によくあるのは、本を読みながら薪を背負っている銅像であるが、ここでは観音堂本尊に向かって拝んでいる。
 少年時代、旅僧から観音経を聞き、一念発起した地であると言われる。
<雷電の由来碑・土俵>  
   
 講談で有名な大関 雷電為右衛門が ここでの奉納相撲で田舎相撲の大岩大五郎を倒した。

<大イチョウ>
  幹周り5m、樹高30m、樹齢約700年




    <八幡神社>
 
 山門のすぐ前から巡礼街道が 東に向かって伸びている。
 
双体道祖神
 
    南側にある飯泉公民館の敷地に、「小田原(飯泉)の道祖神」という標柱と二つの石塔が大木の下にある。
双体道祖神は、徳利と盃を持っている。
もう一つは、自然石の文字地蔵塔で、元禄8年(1695)の銘がある。
 
巡礼街道を東へ
 
   静かな住宅街の中の巡礼街道をすすむ。
少し先で、左折右折して、国道255号線を横切り、東にまっすぐ進んでいる巡礼街道を鴨宮に向かって進む。

 名前とは裏腹に、車の通行が激しく、商業ビルが続いてならんでいまっすぐな道筋である。

石塔・石仏群
   新幹線の高架をくぐってすぐの「菊川ガード下信号」の右側に、横長の祠がある。 多くの石塔・石仏が並べられている。
ほとんどが文字の馬頭観音塔である。

 「小八幡村「西東講中が立てた天明飢饉にかかわると考えられる天明7年(1787)の観音供養塔」がある。(小田原の史跡川東版9

 街道の整備の時にこの一か所に集めらて、この祠が造られた、という。

 小八幡川
 
    「順礼中里 交差点」を過ぎて、小八幡橋を渡る。
中学校の頃なじみの深かった「酒匂堰」が、このあたりでは、小八幡川に名前が変わっていることを初めて知った。

 歩道脇の生垣に咲いていた名前不明の花

 
 小八幡川の東側に大きなショッピングモール「ダイナシティ」が広がっている。
今日の目的地である。
 **************************************  
 二回目  国府津駅から巡礼街道を西へ    2019年11月27日
   
 
国府津駅前
 
 国府津駅を降りると、蒸気機関車のレリーフと、台座に「国府津駅開業100周年記念 明治20年7月11日 開業」と書かれた記念碑が建っている。
 東海道本線の花形として活躍した蒸気機関車という文字がはいり、鉄道唱歌が描かれている。(クリックすると拡大
 
クリックすると拡大  国府津おるれば馬車ありて
  酒匂小田原とをからず
  箱根八里の山道も
  あれ見よ雲の間より
       鉄道唱歌より



 国道1号線に出て西へ行く。
以前 旧東海道を歩いた時に撮った看板建築の建物が残っている。

巡礼街道に進む前に、菅原神社∸天神さんを訪れる。

 「岡入口」の信号から曽我方面に進み、御殿場線のガードをくぐると、菅原神社とその右奥に安楽院がある。

 安楽院
 
   承和3年(西暦833年)の創建という。(寺のHPによる。)
 明治の廃仏毀釈までは、菅原神社の別当寺であった。

 12月25日に開かれるの「だるま市」の案内が山門前に出ている。
 
菅原神社
 
 


<本殿> 
  創建は正暦5年(994)という。
 安楽院にあった縁起によると、「正暦5年6月30日の夕方、国府津海岸に珍奇な木造船が漂着した。 中には衣冠束帯した一人の貴人が乗っていた。 村人はこの人に麦飯に麦粉をかけてもてなし、部屋を設けて住まわせた。 数日後 村人の夢枕にその貴人が現れて『京都の菅原神を崇敬すれば幸セが多い』とのお告げがあった。 村人が訪れると、部屋には彼の木像が残されていて、庭には松と梅が植えてあった。 村人は菅原道真(843~903)の霊が現れたと信じ、祠を造りその霊を祀った。
 道真の没後90年ほどのことである。」 
 (小田原の史跡 川東版による。)
 

 神社に立つ説明板に、「もともとこの森にあった諏訪社と合祀
され、祭日の6月30日には、麦飯麦粉を神前にそなえ、神輿は相模湾岸に渡り、小総の里(後の古宇津宿 現在の国府津)海岸で神事を行った」 とある。
 今の祭日は1月25日で、「国府津の天神さん」として親しまれている。
 
<曽我兄弟の隠れ石>
 
   イチョウの木の下にある。
曽我兄弟が、父の仇 工藤佑経をつけ狙って、この付近を徘徊し、鎌倉へ出仕する佑経の行列と出会ったが、警護が厳しいため、この隠れ石の陰で涙を呑んで見送ったという話が残る。
 元々、神社の南側の古道脇にあったが、国鉄熱海線の工事で埋没していたものが見つかり、境内に移したという。

<境内景色>
 

 <ムクノキ>
水神の祠の傍らに立つ老木。
新編相模国風土記稿にのり、今でも残っている椋。
              <諏訪社>

 
森戸川
 
    東海道線に沿って西へ、森戸川をわたる。
下曽我方面へ向かう県道72号線を渡ると、巡礼街道に出る。

この上流は、下曽我の剣沢のある。

 

 巡礼街道
 
   ここから、飯泉観音まで4km弱の直線の道路である。

 「西湘の未来を考える巡礼フューチャー」のサインのある看板が電信柱の前に立っている。
   
 
 <巡礼街道>について
 坂東三十三箇所の観音霊場は、四国の霊場を模範として 源実朝が制定したと伝えられている。
勝福寺 飯泉観音は その五番目の札所として鎌倉時代から巡礼が行われていた。
 この飯泉観音に向かうの巡礼街道の記載が明確にでているのが、「かながわの古道」の著者阿部正雄氏によると、元禄時代にあるという。
 次のように書かれている。

 「元禄14年(1701)杉本観音から発行された坂東巡礼記に、一番杉本観音から三十三番那古の船形観音までの道順と里程が記されている。
それによると、長谷観音から飯泉観音に向かう道順を 「藤沢、平塚を経て七番金目観音に至り、金目から南下し吉沢、寺坂を経て国府新宿で東海道に入り、国府津から田中のすぐ道を飯泉山勝福寺に向かう」 と記している。 すぐ道は、直道とも書き直線道路を意味する。」
 
 「かながわの古道」に、巡礼街道と共に中世・近代にわたって足柄地方で利用されていた『古道』が、解説されているので、ここに載せる。
クリックすると拡大










(クリックすると拡大)
 
<鎌倉書記時代初期>
 ①足柄路(京鎌倉往還)
   足柄峠-関本-塚原-桑原-飯泉-鴨宮・酒匂-
    二宮-平塚
 ②山手の道
    桑原-曽我-六本松-二宮-国府新宿-平塚
 ③田村大道
   小田原∸大井-秦野-伊勢原-田村大道(相模川)

<室町以後>
 京鎌倉往還は足柄路から箱根路に移る
  三島-葦河(箱根町)-湯本-小田原-酒匂-国府津  ∸二宮-平塚
  クリックすると拡大
<参考:相模平野の古道>
     (クリックすると拡大)




            
  
道標
 
    巡礼街道に入ってすぐの「巡礼道入口」バス停の前に、 順礼道入口バス手手前に
道標と観音供養塔が建っている。
  「右いすみ□」 
     (飯泉道の意味か?)
と刻まれている。
 
街道の景色
 
   「巡礼街道」の石柱が建っている。
 
少し先に、前回訪れたモールの東側の小さなモールに到着した。