横浜道 (横浜開港当時の港への道)   


横浜道は、安政6年(1859)の横浜開港時、東海道と開港場を結ぶために造られた。(それまでは、神奈川の洲崎神社前から渡し舟で行くか、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通っていくかしかなかったという)
そのルートは、東海道の芝生村(今の浅間下交差点の近く)から、当時の平沼の埋立地と袖ヶ浦の海の間に盛土をし、帷子川の河口に橋を作って戸部村まをほぼまっすぐに作り、戸部から、野毛山に切り通しを作って、吉田橋関門を通り開港場までをむすんでいた。

今回は、関内の吉田橋からスタートし、東海道とつながる浅間下までを歩いた。


吉田橋
JR関内駅の北側に馬車道通りと、その延長上にある伊勢佐木町通りの間が吉田橋である。



吉田橋関門跡の標識と説明板









安政6年(1859)6月横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜道を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより『吉田橋』と呼ばれた。

吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まった。関門は当初港町側に設けられたが、文久元年(1862)2月に吉田町側に移設された。

関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止された。

JRガード下の案内板 

JRのガード下の、馬車道通りの北側歩道に、2つの説明板がたっている。明治2年に、イギリス人のR.H.ブラントンにより架け替えられた吉田橋の絵、と横浜居留地の地図とその説明である。 

架け替えられた吉田橋は、桁(トラス)が渡された鉄製の橋で、人々はこれを「カネの橋」と呼んで親しんだという。




吉田町入口


伊勢佐木町通りに入らずに、入口を北に向かい、吉田町に入る。

関内と野毛を結ぶ商店街である。

都橋


 大岡川にかかる都橋(以前は、野毛橋といった)で、ここから北側で、京浜急行の日の出町とJR桜木町の間が「野毛」の町で、いまでは、野毛の大道芸などで大いににぎわっている。

野毛坂交差点 

野毛3丁目の交差点を越えて、野毛坂通りを登り、野毛坂交差点となる。まっすぐ行くと野毛山公園となり、横浜道はここを右折する。

右側の石垣は、明治時代の豪商平沼専蔵邸の石積擁壁で、石積の精度は、市内随一という。


案内板


交差点の左側角に、『西区歴史街道 横浜道』の大きな説明板がたっている。

東海道と横浜道そして保土ヶ谷道の3つの道の関連と地図、史跡などが非常にわかりやすくあらわされている




野毛山公園

この一帯はかつて生糸貿易で財を築いた豪商原善三郎、茂木惣兵衛の屋敷跡地で、関東大震災によって壊滅、その後の復興事業とし山下公園などとともに、公園として整備されたものという。

佐久間象山顕彰碑

中村汀女句碑




横浜道は、野毛坂交差点から戸部方向にむかう。

延命院


この道からそれて、直ぐ右側の道を登っていくと万徳寺と延命院がある。

延命院は、明治3年(1870)に南区西中町に開創し、明治9年高島嘉右衛門から敷地の寄進を受けこの地に移った。その後、延命院と称し「成田山 横浜別院」となり、野毛山不動尊と呼ばれている。

伊勢山皇大神宮


明治3年(1870)、戸部村東部の伊勢山にあった神宮を

野毛山に移し、伊勢山皇大神宮となり、『横浜総鎮守』となった。

「関東のお伊勢さま」の名で親しまれているという。

神奈川奉行所跡 

伊勢山皇大神宮の北側に、ミナトみらい地区から上る紅葉坂があり、その一帯は青少年センター・県立音楽堂・県立図書館などの施設がある。

ここに神奈川奉行所があった。

 

 神奈川奉行所跡の説明板(要約)

「横浜開港にともない安政6年(1859)6月、開港場建設の事務に当たった外国奉行酒井忠行、水野忠徳らの5名が神奈川奉行を兼任し、青木町(神奈川区)に、会所、戸部村宮ヶ崎(西区)に奉行役所を置き、また横浜村(中区)の中央に運上所を置いて事務を執った。

この地にあった奉行役所は戸部役所と呼ばれ、内国司法・行政の事務を取り扱い、運上所では、関税及び外務全般の事務を取り扱った」 

掃部山公園(かもんやま)

県立音楽堂のうらには、掃部山公園がある。

明治42年(1909)旧彦根藩士が藩主井伊直弼の開港の功績を顕彰するため、井伊掃部頭の銅像を建立した。

(現在の銅像は、昭和29年再建されたもの。)


歩道上にある横浜道のマーク


紅葉坂にもどり、戸部町1丁目の交差点まですすむ。

横浜道は、そこから右方向に向かう。

 

戸部町1丁目の交差点の近く−戸部町1-13−に、稲荷神社と庚申塔があるということで、さがしたが、ついに見つからなかった。

御所五郎丸の墓 

横浜道(ここでは戸部通り)を掃部山公園の台地を右に見ながら戸部に向かって下っていくが、少し外れて、途中の信号を左折し、御所山町に五郎丸の墓と伝えられる五輪塔を訪ねた。



御所山町会・五所丸会の石碑によれば、

「この墓は御所五郎丸を祀ったものである。

・・・建久4年(1193)5月28日、源頼朝が富士の巻狩をした夜、曽我兄弟が父の仇(かたき)の工藤祐経を討ち取った、その時、五郎丸が曽我兄弟を祐経の館に導き本望を遂げさせた後、弟五郎時致(ときまさ)を捕え頼朝に差出した。実に勇と情を備えた武士の鑑である。御所山の地名も御所五郎丸の名より付けられたものである。・・・』 

岩亀横丁


横浜道にもどり、戸部4丁目の信号のところに、岩亀横丁がある。

岩亀稲荷

岩亀稲荷への入口は、戸部4町目の信号から入ってしばらくの右側にある。

(注意しないと狭くて見過ごしてしまう))




 説明板によれば、

「開港当時、横浜の歓楽街は、横浜公園の近くから高島町に移り、そこに一、二を争う岩亀楼があった。そこの売れっ子の遊女が、ペリー艦隊の軍人に言い寄られたが、これを拒み『露をだにいとう倭の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさず』という辞世を残して自害した。当時の遊女気質がうかがえる。

岩亀横丁には、遊女が静養する寮があり、寮内にはお稲荷様があったので、岩亀稲荷とよばれ、その信仰はいまに受け継がれている。」という。
 

敷島橋


国道1号線を横切り、石崎川にかかる敷島橋を渡る。


平沼商店街


島橋を渡ると、平沼商店街が続き、JR線で突き当たりとなる。

以前は踏切があったが、今はなく、現在の新横浜通りが通る「平沼橋」を通ってJRと帷子川を渡ることになる。

平沼神社





JR線手前を左折し、相鉄線平沼橋駅入口を過ぎたところに平沼神社がある。

説明板によれば、

『平沼新田は、帷子川下流地帯の新田のうち江戸時代の最後に開かれた。平沼家は、常陸出身で、保土ヶ谷宿で代々造酒業を営んでいたが、5代目平沼九兵衛は、天保10年(1839)埋立てを始め、また、新田の守護神として、水天宮を祀った。その後明治初めに平沼神社に改称した。』という

新しい平沼橋



突き当たりを階段を登って車道に出る。

帷子川−上流方向を望む


一時期有名になった タマちゃんはこの上流にきていた。

新田間橋


帷子川の北を流れる新田間川にかかる新田間橋。

横浜道の標識と当時の説明がある。



横浜道の起点

このまま進むと、環状1号線=旧東海道と交差する浅間下交差点となるが、横浜道は、交差点手前の細い道を、右へ入る。

旧東海道に出るところが、横浜道の起点で、大きな説明板がたっている。


横浜道は、ここまであるが、西区の案内板・地図にある「軽井沢の庚申塔」を見に行った。
軽井沢の庚申塔

浅間下の交差点を三沢方面に進むと、直ぐに急な坂となる。

右側の石垣が続くところに、階段が現われ、その上に石塔が見える





 安永8年(1779)の庚申塔と、文政7年(1824)の堅牢地神塔 などがある。そして壁には次のように刻まれている。・・・『この塔は、道路拡張にも拘わらず西区唯一の建立当時の現地にあり、保存のため建之』  昭和46年稲葉辰蔵ほか・・・

横浜道は、ここでおわり。
散策日 2006年7月10日  関内−浅間町