<東京下町の散策と食事を楽しむ>


(14) 
日本橋川の下流と 佃島・月島     月島「ひょうきん村」 
                             2019年11月13日

                  
地図→ ①茅場町-佃島  ②月島・勝鬨


 
 何年かぶりに、”ひょうきん”という ことばを聞いた。懐かしい響きがあり、店に到着する前から、料理に期待をを膨らませながら続けた散策であった。
茅場町の駅をでて、日本橋川下流を進み、隅田川への合流地点にいく。
1年前に出かけた神田川から分岐した日本橋川のスタート地点からの歩きの締めくくりとなる旅である。
 そのあとは、隅田川の河口に造られた佃島・月島と、三つの渡しの跡を訪ねる。
 
霊岸橋
 
    永代橋方面に向かうとすぐに、亀島川に架かる霊岸橋を渡り、新川という町に入る。ここは、北が日本橋川、東が隅田川、西と南が亀島川に囲まれた島である。
 寛永元年(1624)霊巌上人が霊巌寺を創建し、湿地帯の土地が開発され霊厳島と呼ばれるようになった。(霊巌寺は明暦の大火で、全焼し、深川白川町に移転した)

 その後福井藩主松平越前守が屋敷を拝領し、三方が堀で囲まれていたため越前堀とも呼ばれた。
 左側には、日本橋川と亀島川を仕切る日本橋水門がある。
 
湊橋
 
  すぐ先を左折して進み、日本橋川を湊橋で渡って箱崎方面に向かう。
 そこで 素晴らしい光景が見られた。
今まで日本橋川のスタート地点である神田川との分岐から、ずっと日本橋川を覆っていた高速道路が、大きく離れていく姿があった。

                    <湊橋の上流>


<下流の日本橋川










 湊橋の説明板によると、「霊巌島は当時こんにゃく島と呼ばれており、対岸の箱崎地区の地埋立地とを結ぶために、、延宝7年(1679)に架けられた。
この地域は水路交通の要所として栄え、江戸と関西を結ぶ樽廻船によって酒樽が輸送され、橋を挟んだ両側には倉庫が建ち並んでいた。江戸湊の出入口にあったから 湊橋と名付けられた」
という。

 
河村瑞賢屋敷跡
   
    日本橋川を離れ、永代通りに戻る。
その永代通りに面して、幕府の御用商人として活躍した河村瑞賢の屋敷があったという。 交差点の南角のホテルの前に説明板が立っている。

 瑞賢は伊勢国で生まれで、江戸に出て材木商人となり、明暦の大火(1657)の際に木曽の木材を買い占めて財をなし、幕府や大名の土木建築を請け負って莫大な資産を築いた。
 海運の発展にも尽くし、西回り航路、東回り航路を開いたり、治水に貢献したりして、晩年には旗本に列せられた。
 鎌倉 建長寺の山に登っていく途中に墓所があるのを思い出した。別荘を持っていたという。

 新川大神宮
 
 永代通りに並行する一本南の道に、新川大神宮がある。
 徳川初期に設けられた伊勢神宮の遥拝所が、明暦の大火後、この地に移転してきたという。この町の産土神(うぶすながみ)であるとともに、この地に集まっていた酒問屋の守護神として 崇敬を集めてきたという。
 昭和27年(1952)再建の社殿は、ビルの谷間にぴったりと合うすっきりとしたたたずまいである。
 
 
越前堀
 
    南に100mほどの所に、越前堀児童公園が整備されており、松平越前守の屋敷を囲んでいた「越前堀」の石垣石が展示されている。クリック→地図

 クリックすると、越前堀の地図が見れる




 
 その奥には、霊巌島の由来の説明板と記念碑が建っている。
 
豊海橋(とよみばし)
 
 日本橋川まで戻り、隅田川との合流地点にかかる豊海橋に行く。クリックすると拡大
 前回、人形町を訪れて箱崎経由で寄ったときには永代橋と共に周辺が工事中であったが、いまは完全にきれいに整備されており、豊海橋の由来や、一石橋からここまでの地図(クリック)が、プレートに掲げられている。
 元の橋は元禄11年(1698)に架けられた。


 永代橋から見た日本橋川の出口→
 
永代橋
 
   豊海橋を少し北にいき、もともと永代橋が掛けられていた地点(今の橋より150m北)に行くと、新しい銘版が掲げられている。元禄11年(1698)に最初に架橋された。橋の由来は、この辺りが永代島と呼ばれていたことからという。


   永代橋から南の景色→


<新川の跡の石碑>

 隅田川テラスを南に100mほど行くと、新川公園があり、石碑と新川の跡の説明板がある。
 新川は、河村瑞賢が江戸へ運ばれる物資の陸揚げ用に万治元年(1660)に開さくした運河で、亀島川から分岐し、隅田川へ合流合流しており、総延長は590mという。
という。
越前堀の石垣のの説明板に、新川の地図がある。
 
中央大橋
 
 隅田川テラスをさらに進むと、佃島を結ぶ中央大橋が現れる。

 隅田川に架かる橋では、千住汐入大橋に次ぐ2番目の新しい橋、で、橋の中央 上流にむけて、フランスのパリから東京に贈られたメッセンジャー像が建っている。



 まもなく霊巌島の南端となり、右側からは亀島川が合流している。
 
佃島・月島
 
    この辺りから見る佃島・月島は、そびえたつタワーマンションに圧倒され、昔の隅田川河口にあった島というイメージは全くない。
 
その歴史
 
<江戸時代の石川島・佃島>
クリックして拡大

(佃島渡船場跡に掲示されている)
   →クリックすると拡大

 

 ネットその他の資料から、その歴史を概略次のようにたどることができる。

 古くから隅田川の河口に堆積した三角州があり、森島、鎧島などと呼ばれていたが、寛永3年(1626)に旗本 石川が拝領し、
屋敷を構えたことから石川島と呼ばれるようになった。
 その南にできていた中洲(寄州)を、正保元年(1644)に摂津国佃村の漁師が幕府から拝領し、埋め立てて築いたのが、佃島である。 

⇐江戸時代の地図 、「石川島」「佃島」

その後、二つの島の間の浅瀬を埋め立てた土地に、人足寄せ場が設置された。(寛政2年(1790長谷川平蔵ー鬼平ーが提唱))

ペリー来航後、嘉永6年(1853) 幕府の委託により水戸藩が日本最初の洋式造船所を建設、明治政府に移管後、民間に払い下げられた。(今のIHI)
あわせて、佃島には台場が築かれた。

明治5年(1852)の町名改正で、佃島と合併したために「石川島」という住居表示はなくなった。

 隅田川には、年々土砂が堆積し船舶の往来が困難になり、明治20年(1887)より、東京府が隅田川の浚渫をはじめ、その土砂の埋め立て造成されたのが月島である。
 明治25年(1892)月島1号地(今の月島)、明治27年(1894)に月島2号地(今の勝どき)が築かれた。

 南高橋
 
   亀島川を横切るには、少し上流の南高橋を渡って迂回していく。橋の手前に小さな神社がが祀られている。新川に広大な屋敷を構えていた越前松平家の下屋敷の中に祀られていたものという。

 南高橋の上流左手には、3年前に散策した八丁堀の東出口となっていた場所が見える。
(街路樹のあるところ)


   <南高橋から見える亀島川と隅田川を仕切る水門>







 佃大橋
 
    再び、隅田川テラスを南下しながら、佃島を対岸から眺める。
佃島の北側に位置する水門と、その左側の佃公園と灯台のモニュメントがはっきりと見える。

 佃島渡船場跡


    佃大橋の手前で土手からでて、大橋の西に出る階段の下に佃島渡船場跡の石碑と説明板がある。
正保2年(1645)から、ここと佃島との間の渡しがはじまった。
明治9年(1876)から渡し銭一人5銭で、本格的な渡船となった。
昭和30年(1955)には一日70往復にもなったが、昭和39年(1964)の佃大橋の完成により廃止した。
 
佃大橋から佃島へ
 
    渡船場跡、水門、佃公園など、昔の風情が残る。
     
  
佃島の渡船場跡
 
   昔と変わらない隅田川沿いの道(右上写真)を進むと、左手の小公園に「渡船場跡の石碑がある。対岸と同じ説明板がある。クリックすると拡大
         昭和30年代の渡船→ 
 
佃の景色(その1)
   
  <佃煮屋-天安…創業天保8年(1837)>     <丸久∸∸安政6年(1859)>                     
   
  <住吉神社への参道)>     <水門>          <佃島との間の水路)>        
 
 <石川島と間にある佃公園の灯台モニュメント
クリックすると拡大
 ←石川島灯台と人足寄せ場 の説明板

・・・灯台は人足寄せ場の南端に築かれた六角二層の常夜燈であった
 
住吉神社
 
    大阪から移住してきた漁師が佃島を築いた後、大阪の住吉社の分霊を社殿を設けて祀ったのが始まり。
この二の鳥居の扁額は、明治15年(1882)の陶製。
  社殿のうち、拝殿と幣殿は明治3年(1870)の築造という。

 景色(その2)
 




  神社の南に行き、水路を佃小橋でわたる。

 神社の東側と、北側に水路が続いているが、佃島の当時の海岸の名残という。
水路の中に立っている立て札には、「この場所には江戸時代後期寛政10年(1798) 幕府より建立を許された大幟の柱・抱が埋設されている・・・・」とある。
3年に一度の住吉神社の大祭の時に、6本の柱が掘り出され、大幟が建立される。

近くには波除稲荷神社がひっそりと建っている。
   
 
佃大橋から南へ
 
 佃大橋を戻る途中、南側には聖路加ガーデンの巨大なビルが存在感を放っている。
 隅田川テラスを南に進み、ガーデン南の公園にでる。
桜の名所でもあるらしいが、土手に十月桜の花が咲いていた。
 

 
アメリカ公使館跡
 
    南側のクレストンホテルの入り口近くに、アメリカ公使館跡の説明板が立っている。安政6年(1859)の港区での開設の後、明治7年(1874)にこの地に公使館を新築したという。

 <運上所跡>
 明石町河岸公園の前をすすんでいくと、生垣の前に史跡「運上所跡」と刻まれた石碑が建っている。
 この先広い敷地を持つ料亭「治作」の入り口付近にあるので、ほとんど目立たない。
東京税関発祥の地という。
 
月島の渡し跡

  料亭の前のカーブをすぎて、広い通りに出る角に、「月島の渡し跡」の説明板が立っている。それによりと、「月島の渡し」は、月島一号地の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892)に手漕ぎの船での有料渡船から始まったという。   昭和15年(1940)の勝鬨橋が架橋され終了した。

 南に進み、はとば公園から土手に出て月島方面を臨む。


 勝鬨橋は、景観照明の改修工事中であった。
 
波除稲荷神社
 
   まだ時間に余裕があるので、築地のはずれまで最近の様子を見に行く。
 晴海通りの南側はすでに大規模な工事がはじまっている。
築地場外市場の南外れに位置する波除稲荷神社は、開発とは別世界で、ぽつんと建っている気配であった。

 万治年間(1658~61)、築地一帯の埋立てが進められたが、海面での工事は波浪により難航を極めたという。ある夜海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋め立て工事が無事完了したという。


場外市場にも少しはいっていったが、はずれでもあり、時間も夕闇が迫っているせいか、閑散としていた。
  
勝鬨の渡し
 
 勝鬨橋西詰南側に資料館と小公園があり、「かちときのわたし」と刻まれた大きな石碑が建っている。
 明治38年(1905)日露戦争の旅順陥落を契機に、京橋区民の有志が渡船場を設置し、東京市に寄付した。 この石碑は その時に建てられた記念碑で、実際の渡船場はここより西約150mの波除神社辺りにあったという。
 昭和15年(1940)勝鬨橋の開通まで続いた。

              <勝鬨橋の南 「築地大橋」 >

 勝鬨橋
 
  「勝鬨の渡し」をもとに名前がつけられた可動橋であり、昭和15年の開設当時は1日5回、1回20分程度跳ね上がっていた。
その後、航行船舶の減少と、道路交通量の増大により、」昭和45年(1970)に開閉が停止となった。
 
月島の渡し跡
 

    月島側にあったの「月島の渡し跡」をみるためには、月島川にかかる西仲橋まで迂回し、100mほど北の「わたし公園」に行く。

          昭和12年(1937)のこクリックすると拡大ろの渡船場

 今日の散策はここまで、いつもと違ってゆっくりとした散歩を楽しめた。
100mほど東の「ひょうきん村」を目指す。 


 ひょうきん村
 
  もんじゃ焼きで有名な西仲通りから少し外れた 静かな雰囲気の一角である。

 店の壁には、その名の通りひょっとこなどのお面や、民芸品が所せましと飾られている。  そんなに広くはないが、相席でも和気あいあいと日本酒を楽しく、おいしく飲める雰囲気が伝わってくる。   
 

 以下は、メンバーのMoさんから写真とともに、いただいたコメントです。
 
 『今回のひょうきん村での食事会は、大変楽しかったです。

 夫婦で一生懸命御客をもてなすお店の空気感と、Miさんをして 「実のある料理だから美味しいね」 と言わしめた料理の数々、近所の喫茶店のおばさんオーナーも あそこの料理はおいしいよと自慢していたとおり、美味しかった魚料理と、とにかく大満足でした。

 因みに、味わった料理はは次のとおりです。
カワハギ・イワシの刺身、ツブ貝の串焼き、牡蠣フライ、インドマグロの能天ネギマ煮、焼き鳥、葱玉焼、メンチコロッケと記憶しております。』

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