<東京下町の散策と食事を楽しむ>


(4) 上野公園から根津へ   根津の居酒屋 車屋
      2016年7月4日


                     
地図→上野公園とその周辺


 上野公園には過去何回も訪れたが、博物館、美術館が主な目的であり、歴史を感じる建物などを巡るのははじめてである。
今回は、公園の南端の不忍池からスタート、北に向かって散策、国立博物館の北側の寛永寺霊園の南端から、西に向かい根津駅近くの老舗居酒屋 車屋 に向かう。

弁天堂
 寛永2年(1625)に上野の台地に寛永寺を創建した天海僧正は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島に因んで池中に島を築かせ、弁天堂を建立した。(説明板)
その後、石橋が架けられて自由に往来できるようになり、参詣者や行楽の人で大いに賑わったという。
今の弁天堂は戦災で焼失し昭和33年に再建されたものである。

弁天島の周囲は蓮の葉で覆われており、ちょうど花が咲き始めてたところであった。








 弁天堂の本尊は、慈覚大師の作と伝わる大弁財天で、脇士は毘沙門天と大黒天とある。
北側に大黒天堂が建っている。

清水観音堂
 弁天島から、自動車道を横切って、上野の高台に上って行く。
そこには、清水観音堂が立ち、その前に、特異な形をした、松が植えられている。 歌川広重が描いた「上野清水堂不忍池」に描かれた『月の松』を復活したものという。
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寛永寺は、寛永2年(1625)、徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に、天海僧正により創建された。  京都御所の鬼門に位置する比叡山延暦寺にならい、江戸城の東の位置に建てられ、山号も東叡山とされ、寺号も延暦寺同様に、元号を使って寛永寺と命名されたという。
今の上野公園の中央ー噴水広場のあるところに、45mx42m、高さ32mという壮大な根本中堂(本堂)が建立され、国立博物館のあたりに、小堀遠州による名園が作庭され、 最初に訪れた弁天堂や、この観音堂など、多くの伽藍が次々に建立されていった。
 江戸時代最盛期には境内地は三十万坪におよんだという。
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 この清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台作りの堂で、寛永8年(1631)建立された。
戊辰戦争での焼失を免れた数少ない当時の建物である。    





その境内には、桜の名所として知られており、そのうち固有の名を持つ桜の木・・・「秋色桜」の説明板が立つ。
 『井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔い』

彰義隊の墓
 観音堂から道を挟んで反対側に彰義隊の墓がある。徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ったが、慶喜の一橋家時代の側近たちは、慶喜の助命を求めて同盟を結成(後の彰義隊)、上野にたてこもった。   慶応4年(1868)大村益次郎指揮の東征軍が上野を総攻撃、彰義隊は敗走した。(=上野戦争)
 戦死者の遺体は、放置されていたが、円通寺の住職らにより荼毘に付された。
 近くには王仁博士の顕彰碑が建つっている。  →
日本史で習った、古墳時代に百済国から渡来した学者ということを懐かしく思い出した。

天海僧正 毛髪塔
 寛永寺を創建した天海僧正は、寛永20年(1643)、108歳で死去。
徳川家康の知遇を受け、元和2年(1616)家康が没すると、その神格化に当たり、権現号の勅許をはかり、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導したという。遺命により日光山輪王寺に葬られ、この地に供養塔が建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになったという。

花園稲荷神社
 広い通りを西に進むと、赤い鳥居がならぶ参道がある。花園稲荷神社と五條天神社へ続く下り道であるが、不忍池側から入るのが正面入り口のようである。
花園稲荷神社は、創建は不詳で、古くからこの地にあったようで、「忍岡稲荷」が正式名で、俗称「穴稲荷」とも言われる。
承応3年(1654)、天海僧正の弟子で本覚院の晃海僧正が再建したという。
彰義隊の激戦地となり、その後花園稲荷と改名された。

五條天神社
 すぐ西側に五條天神社がある。
由緒によれば、日本武尊が東征の際、上野忍岡で薬祖神二柱の大神が奇端を現し、難儀を救われたので、ここに両神を祀った、と伝えられている。
区内有数の古社という。
寛永18年(1641)菅原道真を合祀、寛永寺の拡張により、一時上野公園下-旧五條町に遷っていたが、昭和に入りここに遷座された。

上野大仏
 もとに戻り、北に進むと左手の高台(精養軒の東側)に上野大仏とパゴダがある。説明板によると、
寛永8年(1631) 越後村上藩主、掘直寄が戦死者慰霊の為に漆喰の釈迦如来坐像を建立したのが始まりという。その後、青銅の大仏となったが、天保年間に火災に遇い、天保14年(1841)に鋳造され、仏殿も再建された。関東大震災で頭部が落下、顔面のみが残されている。
説明板の脇に、昔の写真が展示されている。(→右)

上野 東照宮
 
 すぐ北に大きな鳥居が建つ。 上野東照宮で、この先長い参道が続く。
寛永4年(1627)津藩主 藤堂高虎が上野山内の屋敷の中に徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造ったのが創建といわれ、正保2年(1645)に正式に宮号を受け「東照宮」となったという。

 この鳥居は、寛永10年(1633) 酒井忠世が奉納したもので、国の重要文化財に指定されている。備前の御影石という。




参道の両側には多くの石灯籠とともに、諸国の大名から奉納された50基の銅燈籠が並んでいる。(重要文化財)

 参道の正面にある唐門
唐門の奥に見える奥の社殿>
 参道の先に、金箔が鮮やかに浮かび豪華な彫刻が施された唐門と、その奥に一目で豪華な佇まいを想像できる社殿が控えている。
この社殿は、慶安4年(1651)に三代家光が大規模に造り替えたもので、関東大震災や戦災からの被害を免れ、江戸の面影をしっかりと残している。
透塀(すきべい)
 社殿への入場料は500円であるが、内部を訪れる価値はある。
 南側の透塀を回って中に入る。
説明板によると、「格子の向こう側が透けて見えるのでこの呼び名がある。 社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上、 色鮮やかに生き生きと表現されている。造営当時は極彩色であり、その後の修理の際に弁柄漆で上塗りされていた、という。

拝殿・幣殿・本殿
 現在の社殿は、慶安4年(1651)に 三代家光が大規模に造り替えたもので、関東大震災や戦災からの被害を免れ、江戸の面影を残している。 社殿内は非公開。

参道側から拝殿、幣殿、本殿の三つの部屋から構成される権現造りである。
<本殿> 南側から見たところ    <幣殿> 北側から見たところ
        


唐門 拝殿側から見た
 (説明板)正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。
柱内外の四額面には、左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、 毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があり、
偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれている。
北側には、樹齢「350年以上という「きささげの木」

寛永寺. 五重塔
 帰りの参道 左手に、寛永寺の五重塔が見える。
寛永8年(1631)に築造され、寛永16年(1639)焼失した。同年すぐに古河城主 土井利勝により再建され、現在に至る。
 残念ながら五重塔へは動物園の中に入らないと近づけない。


 大噴水のある広場を過ぎて国立博物館に向かう。
もともと、この大噴水の位置に寛永寺の根本中堂(本堂)が建っていた。(今は、更に北にある「寛永寺」が根本中堂となっている・・・前回の谷中の散策ですでに訪れた。)  
そして、国立博物館の位置には、寛永寺の本坊があった。  現在 東側一帯は、寛永寺の諸堂が建ち並んでいる。

輪王寺(両大師)
 
 博物館のすぐ東に輪王寺(両大師)がある。もとは開山堂または慈眼堂と称されていた。
 寛永寺の開山 天海(慈眼大師)の死去後、展開を祀る開山堂が建てられた。あわせて、天海が崇敬する良源(慈恵大師)・・・平安時代の比叡山延暦寺の中興の祖といわれる・・を祀ったことから、両大師と呼ばれるようになった。
現在の建物は、平成5年に再建されたもの。

 更に東に進んだ角に、旧本坊の表門が残されている。

寛永寺旧本坊 表門
 国立博物館一帯にあった旧本坊は、寛永2年(1625)に建立されたが、、慶応4年(1868)の彰義隊の戦争により焼失、その表門だけが戦火を免れた。
明治11年(1878)に帝国博物館の開館すると、その表門として使われ、震災後博物館の改築に伴い現在の場所に移築された。
切妻造り本瓦葺、薬医門。
 門扉には、その時の弾痕が残っている。

徳川家綱霊廟勅額門

 少し戻り、両大師と博物館の間の通りを北に向かうと、寛永寺霊園となる。 左に向かうと家綱霊廟勅額門が残る。
 4代家綱は慶安4年(1651)10才で将軍となり、延宝8年(1680)に没した。
直後、由井正雪の慶安の変がおこったが、酒井忠勝、や酒井忠清など重臣により政権は安定していった。
家綱の霊廟の遺構として、この勅額門と水盤舎が残っている

徳川家霊廟
 さらに霊園沿いの道を西に向かうと、徳川家墓所の大きな門があるが、非公開である。
この墓所には 4代家綱、10代家治、11代家斉が眠る。
 前回の谷中散策の時に訪れた徳川家の墓所は、北側のもので、5代綱吉、8代吉宗、13代家定が眠る。


 この後根津方面に向かうのであるが、前回寛永寺から言問い通りの北側を下って行ったので、今回は南側をくだることにする。

護国院
 東京芸大の脇を通って護国院に行く。 天海の弟子生順が釈迦堂の別当寺として、いまの国立博物館の右手裏に開創したのが始まりという。その後、徳川家の霊廟の建立等に伴って移転したという。
現在の本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722)に再建されたものという。

森鴎外居住之跡
 上野動物園との境界にある緩い坂道を下っていくと、「水月ホテル鴎外荘」というホテルがあり、その角に石柱と説明板がある。
文久2年(1862)に生まれた森鴎外は、明治22年(1889)に結婚しこの地に移り住んだ翌年長男が生まれたが離婚し、千駄木町に転居していったという。
家は今もホテルの中庭に残されているという。

都電7506 池之端児童遊園
 根津駅に向かうために不忍通りに向かう。
その通りの手前に、池之端児童遊園があり、都電が展示されている。
ここは池之端七軒町という都電停留所があった場所という。
平成20年まで都電荒川線を走っていた7506号車である。


本日の散歩はここまでで、根津駅に向かう。
雨が降り出してきた。

居酒屋 車屋
雨の為、写真撮らず

入口の構えを見ただけで中ですぐに飲みたくなりそうな雰囲気
・・・まさに老舗の居酒屋
 根津一丁目交差点から言問通を東に向かい、最初の道を左に入る。
車の往来の激しい交差点からすぐの、路地裏の通りというのがぴったりすごく親しみのある通りである。
 すぐに車屋はある。30年以上続く老舗の居酒屋である。
一階は、カウンターとテーブル席、手書きメニューと「本日のおすすめ」のボード。まさに飲み仲間と一杯やるのにぴったりの店である。
 玉子焼き、くじら竜田揚げ、いわしシソあげ、さかないろいろ  などなど
各々好みの料理と酒を大いに楽しんだ。