<東京下町の散策と食事を楽しむ>

(9) 
王子から浅草へ(鎌倉古道の跡)  ねぎま鍋の 浅草「一文本店」 
                                   2017年11月18日
                         

                  
地図→ ①王子-田端  ②田端-浅草


 今回の食事は、浅草の「一文」というねぎま鍋の有名な店である。

久しぶりに、朝から十分な時間がある日だったので、以前から歩いてみたかった所のひとつである、鎌倉古道の「中の道」と「下の道」とを結んでいたという連絡道を歩くことにした。
 「中の道」は巣鴨・滝の川を通って赤羽を経由して荒川を渡り、川口方面へ向かっている。
一方「下の道」は日本橋から浅草を経由して、立石、を通り、矢口渡を経由して松戸方面に進んでいるが、その両者を結んでいたのが今回歩く道である。

 時間的にも夕方からの食事会に余裕があったので、特別長距離を歩くことにした。

 JR京浜東北線の王子駅で下車して「下の道」の通っていた金剛寺まで行き、そこから南東への道を進んで隅田川沿いの石浜・白鬚橋までがそのルートである。
 石浜からは、浅草までまでは隅田川沿いを散策して、浅草寺の北に向かう。

王子神社
 JR王子駅の北口を下りて、東に向かい小さな川沿いの遊歩道を進むと右手に王子神社がある。古くから王子権現と呼ばれ親しまれていた。
 康平年間(1058~65)、源義家が奥州征伐のおり、ここで、加持祈祷を行い、その後の凱旋の際には甲冑を奉納した、との言い伝えがあり、平安以前の創建である。
 参道の説明板ににある「由緒」によれば、元享2年(1322)豊島郡を支配していた豊島氏が石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から 王子大神を勧請し「若一王子宮」として祀るようになったという。王子の地名の由来ともなった。


 徳川の時代には将軍家の祈願所として定められ、近くの花見の名所となった飛鳥山とともに、江戸近郊の名所となり、多くの人が訪れたという。

 境内の南東側に 樹齢600年近いという、高さ約24mの大イチョウがそびえている。

金剛寺ー源頼朝の布陣伝承地
 王子神社から石神井川沿いに500m程西にある金剛寺に向かう。
石神井川流域のこの辺り一帯は、両岸に岩が切り立ち、松や楓があり深山幽谷の趣があり、滝野川と呼ばれていた。

 源頼朝は、治承4年(1180)8月伊豆で挙兵後、安房国他に逃れ、上総・下総国で諸将を味方につけ、隅田川を渡り、頼朝と関係の深かった豊島氏の居城であった平塚城を訪れた。
10月にこの地・・・滝野川の松橋・・・-に勢ぞろいして、「中の道」をを南下して高田馬場を経由して府中 そして鎌倉に向かって行った。 
 

 弁財天を信仰いていた頼朝は、ここのがけ下の洞窟の中に祀られていた弁財天に祈願し、弁天堂を建立したという    



 今北道を戻り 石神井川沿いを東に下ると、途中に「音無さくら緑地」とよばれて、旧川の天然河岸が残されている公園がある。

飛鳥山公園
 王子神社の南で、本郷通りにぶつかり、通りを南東に向かう。東側一帯には飛鳥山公園の高台が広がる。 
飛鳥山交差点では、東京で唯一残る都電荒川線が走る。
 この台地は、上野から日暮里、上中里と続いている丘陵で、武蔵野台地の周辺部にあたるという。

 享保5年(1720)将軍吉宗による鷹狩復活に伴い整備されたのち、元文2年(1737)この地を王子権現に寄進し、桜・松・楓などが植えられ、その後、江戸町民の為の桜の名所となっていった。

飛鳥山碑
 公園の中ほどに飛鳥山碑が建っている。王子権現の別当寺金輪寺の住職が庶民に解放されたのを記念して建立したもので、江戸城吹上にあった紀州の巨石をつかっている。
 紀州熊野につながる飛鳥山の由緒や植樹、寄進の経緯などが難解な文字で刻まれているという。

 更にその奥には 古墳時代後期の直径31mの円墳が残されている。
公園内にはほかに多くの古墳の周溝が確認され、古墳群が形成されていたという。

西ケ原一里塚
 本郷通りの一里塚信号の先に、西ヶ原一里塚が残る。
 日光御成道の二番目の一里塚で、中央分離帯の中に、西側の一里塚、道路の東側がもう一対の一里塚である。

 今の本郷通りのもとになっている日光御成道は、日本橋から 本郷追分の一里塚をへて、岩淵宿、川口宿、を北上して 幸手宿で、日光街道に合流していた。
 将軍が日光東照宮に参拝する際の道路として使われたので、この名前が定着したが、岩槻藩主の参勤交代や藩の通行路にも使われていたので岩槻街道とも称されたという。

平塚神社-平塚城跡
 500m程先に平塚神社の長い参道が現れる。この神社一帯は、西側の印刷局の一部を含めて、豊島氏の 平塚城跡である。
 秩父出身の豊島氏はこの地を開拓、荘園とし 平安末期に豊島近義が城を築いた。 
 前9年の役の時、近義は源義家に従って奥州各地を転戦、義家は京都への凱旋途中に平塚城により、豊島氏の忠誠を賞して鎧一領と、守本尊の十一面観音を与えた。
近義は 鎧を清浄な地に埋め、塚を築いて自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚と呼ばれ高さがないため平塚と呼ばれた、その後 社殿が建てられたという。

 その後、治承4年(1180)頼朝が隅田川東岸に到着すると、豊島清光はいち早く頼朝の呼びかけに応じて、参陣していったのである。
 
文明9年(1477)太田道灌は、豊島泰明のいる平塚城を攻め、豊島氏は滅亡した。

道の景色-旧古川庭園
 神社から本郷通りに戻ると、反対側に広大な、「旧古河庭園」がある。
 本郷通りは、右に大きくカーブしているが、今回の連絡道は、ここから分岐してまっすぐ田端方向に進む。
 途中山手線を横切るが、この辺りまで、東西との台地の端であることがはっきりわかる。

八幡神社・・上田端八幡神社
山手線を越えてから田端高台通りという古くからあるようなを道を200m程進んだところで、寄り道して、南西200m先にある八幡神社にいく。
 頼朝が奥州藤原氏を討伐、その凱旋の途中この地の豊島氏を奥州奉行に任じ、ここに鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられている。



 本殿の左にある境内社の白鬚(しらひげ)神社は田端中学校の敷地内にあった神社で、奥州討伐に向かう途中の畠山重忠がそこにあった杉の大木を遠くから望んで、家来と松の木か、杉の木かと言い争ったとの伝承があるという。


田端駅周辺
 元の通りに戻り、田端駅方向に進む。
 駅の先で、左に曲がって、今の明治通りに合流するルートが、往時と石浜を結んでいた旧街道であるが、田端駅により消滅している。
( 左に行かずにまっすぐ進んで行くのが、上野方面へ向かう旧街道のひとつである。)
 駅の北口側に架かる新田端大橋を渡って、広い線路を越えて行く。並行してできているのが、「田端ふれあい橋」と名付けられた歩道である。
 これは昭和10年(1934)に架設された旧田端大橋で、現場継手部も溶接した全溶接橋で、当時としては最大級のもので多くの注目を集めたといい、いまは歩道橋として残されているものである。


 線路沿いを南に進み、宇都宮線の高架下を通りまっすぐ東に進む。(冠新道という名前となっている。)

 今の明治通りにぶつかり、ここからは当分の間、広い明治通りの歩道を歩くのみである。

荒川区役所前を過ぎた先の三叉路を100m程進んでから、明治通りから左に分岐して、都電荒川線につながる細い道に入っていく。
都電の荒川一中前駅があり、その先はまっすぐに進む道はなくなる。

 芳賀氏の「下の道」の地図によると、ここから先石浜までの旧街道は消滅している。

ここから三ノ輪橋駅まで行き、日光街道沿いにある円通寺を訪れる。


都電荒川線-三ノ輪橋
 小学校手前で、荒川線を越えてすぐに荒川線に沿って、「ジョイフル三の輪」のアーケードのある商店街が約200mほど続く。










 アーケードを抜けると、右側が、荒川線終点の三ノ輪橋である。

円通寺
 駅前の通りを北に向かって200m行った先に、日光街道に面して円通寺がある。 現代的な造りの建物の正面には、大きな観音像が建つ。
 説明板によると、「百観音 円通寺」とあり、延暦10年(791)、坂上田村麻呂が創建し、源義家が再興したと伝えられる。
古くは、義家が奥州征伐の時討ち取った首を埋めたという古塚があったので、この地方一帯は古塚原と呼ばれたという。
 江戸時代 下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」と呼ばれ、秩父・坂東・西國霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたという。、境内の入口近くに 「百くあんおん」と刻まれた明和9年(1772)の石柱が建っている。

 境内には、寛永寺に建っていた旧上野の黒門が移設されている。
慶応4年(1868)彰義隊が戦った上野戦争の時の弾痕が多くのこっている。

 境内の右側には、庚申塔や多くの石仏が集められた塚があり、その上の方に、荒川区最古の永仁4年(1296)の板碑が残されている。

 都電荒川線の終点近くから石浜神社・隅田川の白鬚(しらひげ)橋までの旧街道のルートは消滅しているので、途中 以前から行きたいと思っていた吉原近辺へ 寄り道する。

 明治通りまで戻り、そのまま、三ノ輪二丁目の三叉路まで進む。

三叉路で、明治通りから外れ、土手通りを南東に進む。

桜肉鍋-中江 天麩羅-伊勢屋
  三叉路から300mほど進むと、左側に趣のある料理屋の建物があらわれる。
 左が、桜肉鍋の「中江」で、明治38年(1905)創業で、関東大震災で倒壊、翌年1924年再建して、東京大空襲でも焼け残り、現在に至る。
右側が天麩羅「伊勢屋」で、通称 土手の伊勢屋と呼ばれる。創業明治22年(1889)、昭和2年(1927)再建した。
 
 折角の情緒ある建物なので、わざわざ土手通りを横断して写真にした。
今後も予定している「下町散歩の食事会」の候補として是非頭に入れておくことにした。

吉原大門への入口
 数十m先が、「吉原大門」交差点である。この奥 西南側に吉原遊郭があった。

 江戸幕府は、当初元和3年(1617)日本橋葦屋町(今の人形町)に公認の吉原遊郭をに認可した。
明暦の大火(1657)の後、浅草寺裏の日本堤に移転させられ、新吉原と呼ばれた。(今まで歩いてきた土手通りの場所は、隅田川に続く山谷堀という水路に日本堤という堤防が通っていた。)

 この入口から 五十間道と呼ばれるS字形の道が約90mあり、その先に「吉原大門」があった。
大門の先は仲の町と呼ぶメインストリートで、左右には引手茶屋が並んでいた。
奥行き約270m、幅約320m 約2万坪の敷地で、大門がただ一つの出入り口であった。 四方はおはぐろ溝(どぶ)と呼ばれる堀と高い塀に囲まれていた。

吉原大門跡
 S字形の道に入る所は、衣紋坂と呼ばれ、客が身なりを整えたという。
 派出所を過ぎると、大門のあった所に、「よし原大門」と書かれた高い木製の柱が建ち、大門のあった場所を示している。その先は、仲の町と云われたまっすぐな道である。

 右側は、門の内側から土手通り方面を撮ったもので、S字形により、通りから中が見通せないようになっているのがよくわかる。

おはぐろ溝(どぶ)の石垣跡

 土手通りへの帰り途中、S字の通りがはじまる派出所の角を左に約50mほど進むと、おはぐろどぶの石垣跡がわずかに残されている。

見返り柳
 
 大門入口交差点までもどると、右側のガソリンスタンドの脇に、小さな柳の木と、説明板がある。
 
 それによると、「旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ったという事から、「見返り柳」の名がある。
    きぬぎぬの うしろ髪ひく 柳かな
    見返れば 意見か柳 顔をうち 」

隅田川ー白鬚橋へ

 三ノ輪・円通寺あたりから石浜神社・白鬚橋あたりまでの旧道の道筋が消えているので、明治通りを東に行く。
 途中、南側に少し入った所に、平賀源内の墓が地図に載っているので、見に行く。清川二丁目の信号を南の50m程の細い道をはいったところである。
 ここはもともと総泉寺の境内で、平賀源内墓があったが、板橋へ移転墓だけがここにに残っている。

享保13年(1728)讃岐国生まれ、物産開発に尽力、エレキテルを復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明。安永8年(1779)小伝馬町の楼内で病死。

石浜城跡
 明治通りは、隅田川で白鬚橋を渡る。
その手前は橋場という町名であるが、古くは、付近一帯を石浜といったという。
頼朝が挙兵後、安房国から武蔵国入りしたのがこの辺りで、当時は「長井の渡し」と呼ばれるところで、渡河した。以後橋場となったという。
 この辺りは、古利根川(江戸川)、荒川、入間川の合流点右岸にあり、『義経記』には多数の船が碇泊していたとあり、中世には港町として賑わっており、初期の江戸郷の中心地であったという。(芳賀氏による


 隅田川 白鬚橋の西詰交差点を北に進むと、広い公園の先に「石浜城址」の説明板が立ち、その先に石浜神社がある
 それによると、石浜城は室町中頃、武蔵千葉氏の居城となり、100年あまり続いたが、後北条氏滅亡のあと廃城となったという。

石浜神社

 聖武天皇の神亀元年(724)の創建と伝えられる。
 文治5年(1189)、源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進をはじめ、千葉氏、宇都宮氏など関東武将の崇敬をうけたという。

 参道入口手前にある鳥居は安永8年(1780)建立、左写真のの第二鳥居は寛延2年(1749)建立で、笠木の小口がカマボコ型で、柱の傾斜が大きいという特徴を持ち、第一鳥居のとともに神明鳥居系の石浜鳥居と呼ばれる との説明板あり。


拝殿の右側に富士塚があるが、隅田川のスーパー堤防建設時に新築されたものである。
宝暦8年(1758)銘の標柱は、その年に遥拝所が築造された可能性を伝えている

  


また、脇には、貞享4年(1687)貞享3年(1686)の庚申塔が残されている。

 王子から石浜までの、鎌倉街道「中の道」と「下の道」の連絡道のひとつをたどる散策は、ここで終了する。

本日の食事会の場所-浅草寺の北側-まで、隅田川テラスをのんびりと散策する。

南に下り白鬚橋を望む
 
 スカイツリー              桜橋
  
     

言問橋

言問橋からのスカイツリー     言問橋から吾妻橋を望む
  
 
 言問橋通りを西に向かい、浅草寺の北へ。
まだ集合時間までには、時間があるので、ひさご通りの「江戸下町伝統工芸館」を見学した。
ゆったりとしたスペースに台東区の多くの伝統工芸品が陳列されている。
外はすでに暗く見学者も少なく、撮影自由ということで、歩いて回るのとは別の楽しみを味わった。

江戸手描提灯

江戸木彫刻                  江戸うるし刷毛
  

江戸指物

                  江戸切子
     

 いよいよ時間となり、言問通りと国際通りの角地を奥に入った所にある ねぎま鍋で有名な「浅草一文」に出かける。

 数年前にも訪れ二階の部屋で鍋を楽しんだが、今回は居酒屋スタイルで、一階で単品料理とおいしい日本酒を楽しんだ。

浅草一文
 5時なのにもうこの暗さで、入口の軒の上に置かれた大きな酒樽と、夜空の月がとても良い組み合わせであった。





マイクロトマトざるとうふ
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