<東京下町の散策と食事を楽しむ>


(13) 
人形町周辺の散策     甘酒横丁「わさび」 
          小伝馬町から永代橋へ・・・         2019年7月3日

                             
地図→ 小伝馬町-永代橋


 
 今回は、町の名前も、店の名前もいずれも響きの良い・・「人形町」の 「甘酒横丁」にある 「わさび」 での 飲み会だ。
 小伝馬町駅から、人形町通りを南にすすんで、永代橋をわたり、甘酒横丁に戻ってくる。
   
 
十思公園(じっしこうえん)
 
   小伝馬町駅を降りると、江戸通りが東西に走っている、その一本
北側にある十思公園に行く。
公園の説明板に、その読み方が書いてなく、帰ってからネットで調べたら「じっし」ということが分かった。

 この辺り一帯が、伝馬町牢屋敷があったところで、2618坪(8639㎡)の広さであった。慶長年間(1596~1615)に設置され、明治8年(1875)まで続いた。
公園の西はずれに、屋敷の井戸や出土した石垣が、説明板と共に展示されている。

    <石町 時の鐘>
 
  中央左側の木に囲まれた建物に、「石町 時の鐘」である。
江戸時代当初は城内で鐘をついていたのが寛永3年(1626)日本橋の石町(こくちょう)--今の室町4丁目付近--に設置されたのが始まりで、その後江戸市街地の発展と共に増設され、9つとなった。
 ここにある鐘は、宝永8年(1711)に鋳造されたもので、公園が整備されたときに設置されたといいう。
 
   <吉田松陰終焉之地>
 
 大きな石碑と辞世の句が建てられている。
安政6年(1859) 安政の大獄の連座したとされ、伝馬町牢屋敷に投獄され、斬首刑とされた。享年30歳。遺骸は小塚原回向院に葬られた。
  辞世の句:身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 
  <大安楽寺>          <身延山別院>    
 公園の南側には、牢屋敷での獄死者を追善するため、明治
になって創建された。
 
宝田神社
 
    江戸通りを横切り、2本南を並行している道に、両側が駐車場になっている宝田神社がある。
 説明板によると、「宝田神社は、江戸城外宝田村の鎮守であった。 江戸城拡張に伴い、宝田・祝田・千代田の三村が移転を命ぜられ、宝田村の名主・伝馬役であった 馬込勘解由(かげゆ)が、住民を引率して、神社と共に大伝馬町に移転してきた。
 慶長11年(1606)、その功績により家康から授けられた恵比寿神像を神社に安置した」 という。


於竹大日如来井戸跡
 
   、宝田神社の一ブロック西側の道路わきに、、「史跡  於竹大日如来井戸跡」 と その説明板が設けられている。
当時の大伝馬町 馬込家の下女 於竹は、訪れた行者から大日如来の化身であると告げられ、江戸市中に広がった話が、その縁起の記されている。
 
馬込勘解由の碑
 
 すぐ西側を通る首都高速の高架下にある道路わきに、「馬込勘解由の碑(べったら市の由来)」の石碑が建っている。
 宝田神社の恵比寿講の前夜に市が開かれるようになり、神棚などと共に江戸名物の浅漬け大根が売られた由来がかかれている。
 
小津資料館
 
    石碑の向かいに立つ建物は、「小津和紙」のビルで伊勢商人 小津清左衛門は承応2年(1653)の創業という。
 その資料館の入り口にある和紙の原料の木が植えられている。
 <コウゾ>             <ミツマタ>
 
椙森(すぎのもり)神社
 

 人形町通りに出て南に向かう。
堀留町の裏通りに椙森神社がある。
 社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮圧するために、藤原秀郷が戦勝祈願をしたところという。室町中期には太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰したという。

 江戸城下の火災で寺社が焼失し、その再建費用のために有力寺社で当たりくじである富興行がが行われ、椙森神社のそれも江戸三富の一つとして大いに親しまれたという。
 鳥居の脇に、大正9年(1919)に建立され、その後再建された富塚が建っている。
 
三光稲荷神社
 
   人形町通りにもどり、100m程先を東に入った所にある。
「中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者 関三十郎が伏見より勧請したとつたわるが、元禄2年(689)の書物に記載があるので、創建はそれ以前と推測される」 という。
 「近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、人形浄瑠璃の小屋などがあり、それを背景とした江戸落語に「三光新道」{「三光神社」が登場するところとなった。」という。
 
玄治店(げんやだな)跡
 
    人形町交差点の手前に説明板が立っている。
 「この辺りは、 幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれていた。
屋敷は 坪数 数千坪とされ、九代にわたり子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられる。
 「玄冶店」の名は、歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになった」 とい。

 大観音寺
   クリックすると拡大 人形町交差点野の先100mほど右の路地の奥の石段の先に 大観音寺がある。
創建は明治13年(1880)と比較的新しいが、そのいきさつが興味深い。

 本尊は、鋳鉄製観音菩薩像の仏頭である。
(クリック)

北条政子が、鎌倉の扇ヶ谷に創建した新清水寺の本尊として安置された観音像であるが、火災で頭部が落ち、井戸の中に安置されていた。そのご、八幡宮の前の鉄井(くろがねい)から掘り出され、人形町の住人により、この地に運ばれ、この地に堂をたて、安置された。という。
 
蛎殻(かきがら)銀座跡
 
   、南に少し進むと、甘酒横丁の交差点となる。
その西/北の角に、「蛎殻銀座跡」の説明板が立っている。
 江戸時代、銀貨の製造とその検査や管理を行う役所は、銀座と呼ばれ、幕府直轄でなく御用達町人に委託していた。
 江戸銀座は慶長17年(1612)に今の銀座2丁目に置かれていたが、寛政の改革により寛政12年(1800)に廃止され、人形町に幕府直営の度合いを強めた銀座が発足、明治2年(1869)の造幣局が設置されるまでこの蛎殻町で存続した。


 通りを挟んだ向かい側に、人形焼きの店-板倉屋があり、、作りたての人形焼きを一つ購入。
 
甘酒横丁
 

    この交差点から、東の隅田川西の浜町公園まで、「甘酒横丁」と呼ばれる商店街がある。

 今晩のの飲み会は、この横丁にあり  まだ時間があるので、先に進む前に少しぶらぶら歩いた。
たい焼きで有名な柳屋や、少し路地を入ったところにある 牛肉、すき焼きコロッケで有名な今半などなど。




<からくり時計>
 
水天宮
   新大橋通りとの交差点、近代的な造りで、堂々とした威容を誇示しているような水天宮が現れる。。
 文政元年(1818)久留米藩9代7藩主有馬頼徳が江戸・三田赤羽の江戸上屋敷に久留米の水天宮を分霊したのが始まりという。江戸でも信仰者が多く、藩邸内での参拝が特別に解放されたという。
 明治5年(1872)に 有馬家の中屋敷のあった現在地に移転した。

 TCAT
    まもなく箱崎JCTで、TCATである。成田に向かう時によく使ったが、YCATが横浜駅の近くに開設してからは 全く来たことがなく、懐かしくロビーまでで行ったが、昔に比べて活気がなくなっていた。

 ここから隅田川西岸まで、ビルの間を抜けて向かう。
<隅田川に架かる首都高速 隅田川大橋>






 永代橋
 
   IBMと隅田川の間の歩道を歩き、永代橋までいく。永代橋は塗装工事中であった。

昔の永代橋西詰の場所をさがしたが、工事中のため近づけない。

<江戸時代の永代橋西詰付近>、
  永代橋は、元禄11年(1698) 徳川綱吉の50才の記念事業として、として架けられた。
この場所は、深川の渡しがあったところで、今の橋は100m下流である。


 上の写真の右側から、日本橋川が流れ込んでいる。  

                   <日本橋川にかかる豊海橋>
 この付近は工事中であったが、右に回って日本橋川に架かる豊海橋(とよみばし)をわたり、現在の永代橋西詰に向かう。

 本所 吉良邸で討ち入りを果たした赤穂浪士は、永代橋で大川(隅田川)をわたり、この橋(乙女橋と呼ばれていた)を経て泉岳寺を目指した、と伝えられる。
 
<永代橋から月島方面を望む>
 
 
隅田川の景色  永代橋から新大橋へ

  <隅田川テラス東岸∸>


<仙台堀川水門> 下流を見る  <平賀源内電気実験の地>


  
 
< 清洲橋>
                     
                   <新大橋>
                        
清洲橋を渡って西岸へ 

 浜町公園
 
    新大橋の北側に浜町公園がある。
江戸時代 熊本藩主細川氏の下屋敷があったが、関東大震災の復興事業の一環として 墨田公園・錦糸公園と共に整備された。

<明治座>






 浜町公園から明治座通りを過ぎると、甘酒横丁の東端となる。

 すぐ先に浜町川緑道が整備されている。
 
弁慶像
 
   緑道には、大きな弁慶像がある。
説明板によると、 「当時この街では、江戸三座といわれていた芝居小屋のうちの市村座と中村座の二座が歌舞伎を上演しており、芝居街と呼ばれていた。また浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数件あり、庶民の人気を集めていた。ここで使われた人形の製作と修理に当たった人形師たちはこの周辺に住み、人形細工と販売を業としていた。・・人形町のいわれである。」
 
わさび
 
    甘酒横丁の一角にある。
二階への階段入口の店構えは、横丁の居酒屋とは思えないほど、上品に よくできている。
カウンターとテーブル席で、それほど広くはなく、我々が酒・肴を楽しんでいる間 常時満席であった。

 最初の「お通し」 がとてもよく、あとは推して知るべし、である。

クリックすると拡大通常のメニューのほかに、その日の「新鮮な肴のメニュー」 がびっしりとある。
   クリックすると拡大  クリックすると拡大