<東京下町の散策と食事を楽しむ> (11) 日本橋川の散策 日本橋 「北海道八雲町」 日本橋川・・・起点から日本橋まで・・・ 2018年6月19日 地図→ ①飯田橋-一ツ橋 ②一ツ橋-日本橋 |
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いつものメンバーに加え、今回は30年前に一緒に仕事をした共通の友人をゲストに迎え、下町というよりは、繁華街・日本橋の中心地での おいしい魚料理を楽しむことになった。 前回は、常盤橋から鎧橋までの日本橋川周辺を散策したので、今回は、日本橋川の起点(神田川から分流する)から、日本橋までを、日本橋川に沿って散策することにした。 時間に余裕があるため、その起点近くにある「小石川後楽園」をまず訪れた。 |
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飯田橋駅 |
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飯田橋駅の西から四谷の手前まで、今でも江戸城の外堀が残り、内側の斜面沿いにJR中央線がはしっている。 明治に入り、外堀を跨いで飯田町に接して架けられた橋が飯田橋と呼ばれ、新たにこの場所にできた駅が飯田橋駅と呼ばれた。 駅前交差点には歩道橋が設置され、北側からは神田川が流れてきて、そこから直角に西に向かっている。その上を日本橋から続いている高速道路が覆っている。 <北からの神田川> <東に向かう神田川> |
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小石川後楽園 |
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外堀通りを東へ進み、北に100mほど行くと、広大な敷地の後楽園の入り口がある。 寛永6年(1629)に、水戸徳川家の祖 頼房がその中屋敷(後に上屋敷)に造った庭園で、二代藩主の光圀の代に完成した。 「光圀は、造成に当たり明の遣臣 朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れ、・・・・後楽園の名は 中国の范仲淹(はんちゅうえん)の「岳陽楼記」の 『天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』 から名付けられた」 とパンフにある。 入口を入ると、東京ドームの屋根が輝いているのが目に入るが、ほとんど の散策路では、この巨大な建物は視界から消えており、昔の様子を忍ばせる快適な景色を楽しむことができる。 左から園内を時計回りに散策する。 |
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<小蘆山> |
<西湖の堤> |
<渡月橋と大堰(おおい〉川> |
林羅山が中国の名勝地「廬山」ちなみ名付けた。 | 中国の西湖を模して造られ、その後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなった。 | 京都嵐山の下を流れる大堰川にちなんだもの。 |
<屏風岩> |
<観音堂への径から> |
<清水観音堂跡> |
観音堂 |
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三代将軍家光がしばしば訪れた。 | 観音堂跡へ、石段を上っていく。 | 清水寺を模した観音堂があった。関東大震災で焼失。 |
<通天橋> |
<得仁堂> |
<小廬山の上からの眺め> |
二代光圀が建てた園内で最古の建物 |
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<円月橋> |
<八卦堂跡> |
<愛宕坂> |
朱舜水の設計により造られ、橋が水面に写る形が満月になるることからつけられた。 |
光圀が家光より頂戴した「文昌星」像を安置した八卦堂跡。 | 京都愛宕山の坂に倣って造られた。四十七段の石段 |
<異形灯篭 > |
<九八屋> |
<池の景色> |
「酒を飲むに 昼は九分 夜は八分にすべし」と酒飲みならず 万事控えるを良しとする、との教訓による。 |
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<内庭> |
<藤田東湖先生遺蹟> |
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後楽園は、大別すると内庭と後園(後楽園)に分けられ、今まで見てき他後園から、木立を過ぎて、内庭に入る。 | 内庭は、水戸藩邸の書院の庭であった。この内庭から今まで見てきた後園に入るところに 「唐門」(クリックする) が建っていた。(戦災で焼失) |
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<木曽川と寝覚の滝> |
<蓬莱島と徳大寺石> |
、<西行堂跡>> |
内庭池水が滝となって木曽川に落ちるところで、「寝覚の床」にちなんで呼ばれている。 |
島は亀の形をしている。 先端に大きな鏡石があり、島には弁財天を祀った祠がある。 | 藩祖 頼房の時代に、西行法師の木造を安置したことから西行堂と名づけられた。 |
入口近くまで戻り、池のほうを見る。 <一つ松> |
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池は、大泉水と呼ばれ近江の琵琶湖を模したものであり、これは琵琶湖の唐崎の一つ松にちなんでいる、という。 | ||
約1時間半の散歩で、ゆったりと園内を楽しめた。 後楽園を後にして、神田川沿いまで戻り、外堀通りをお茶の水方面に向かう。 |
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神田川 市兵衛河岸 と小石川 橋 |
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旧町名の案内板がある。 この辺りは、市兵衛河岸と呼ばれ、神田の昌平橋との間を往復する客船の船着場があったという。 この先に、小石川橋が見える。 ここで、神田川から分岐にて、日本橋川が南に向かう。 神田川の上を走ってきた首都高は、大きなカーブを描いて今度は日本橋川の上を通っていく。 |
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小石川橋 |
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この先に、小石川橋が見える。 ここで、神田川から分岐にて、日本橋川が分岐して南に向かう。 神田川の上を走っている首都高は、大きなカーブを描いて日本橋川の上を通っていく。 |
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小石川門跡 |
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神田川を、小石川橋でわたる。すぐ左に小石川門跡の説明版がある。 寛永13年(1636)岡山藩の池田光政によって築造されたという。 ←明治4年(1871)撮影の小石川門 ←クリックすると拡大 <神田川と日本橋川と江戸城> |
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日本橋川の始まり 三崎橋 |
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左手に三崎橋がある。 神田川から分岐した日本橋川に架かる最初の(一番北に位置する)橋である。 日本橋川はここから南に延びている。 江戸初期には、この辺りには平川が流れていたが、江戸の開発に合わせ この三崎橋から下流の堀留橋のあたりまでは、埋め立てられていた。 明治になり埋め立てた区間を再度開削し、神田川とつなげられ、日本橋川と呼ぶようになったという。 |
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小石川見付跡 |
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JR高架下を過ぎたところに石垣の跡がのこる小さな広場がある。小石川見付があった場所である。 標識もないが、それらしい雰囲気は残っている。 すぐに新三崎橋があり、そこから見る日本橋川は、首都高速の高架が覆っている。 この景色は、前回訪れた茅場町まで続いている。 、 |
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飯田町周辺の遺跡 |
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日本橋川沿いの歩道の脇に、「飯田町遺跡周辺の歴史」という説明版が立っている。 神田川下流のこの辺りは、絶えず水害の危機にさらされ、江戸城下の中心部を洪水から守るために、流路を変えたり、堀が造られたりと、大規模な造成工事が行われてきた、という。 この説明版の立つ地点から東側一帯は、今は「アイガーデンテラス、ガーデンエアータワー」といった巨大な商業施設が建っている。 そのビル群の間に、讃岐 高松藩上屋敷跡や、もともと神田川の下流で、日比谷入り江に注いでいた「平川」の跡が残されている。 <高松藩上屋敷跡>上屋敷の庭園跡で、発掘された泉水の護岸石や、景石がほぼ当時の位置に合わせてのこされている。真ん中の大きな石に簡単な説明が刻まれている。 <平川の径> 広場から南に、「平川の径」とつけられた散歩道が伸びている。上屋敷の遺構の下に残されていた平川の護岸石を使って、往時を偲ぶ、という説明が刻まれている。 ビルの一画を通り抜け、そのまま南へ。 広い道にぶつかり、西に行き、目白通りにぶつかる角に出る。 |
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台所町跡 |
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交差点の角の歩道に大きな台所町跡という石柱が立っている。 飯田町紙流通センターの所に、元禄のころまで、江戸城の台所衆の組屋敷があったという。、その後大名や旗本の屋敷に変わっていったが、町名は残っている。という。 東に向かい、日本橋川に戻る。 |
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堀留橋と傳蔵地蔵尊 |
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堀留橋があり、東詰めに、小さなコンクリートでできた祠が建っている。 江戸初期にこの辺りまで埋め立てられていたために、堀の終点のため、堀留と名付けられたという。 「傳蔵地蔵尊」という名がついているが、比較的新しい像である。関東大震災後に架け直す際に地蔵を祀ったことから、つけられたという。 |
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滝沢馬琴硯石跡 |
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堀留橋をもどり、日本橋川と並行する道路を南に行くと交差点を、右に入る。 「東建ニューハイツ九段」のビルの左手奥に、「滝沢馬琴硯の井戸」の石碑と説明板がある。 ここは、滝沢馬琴が寛政5年(1793)から31年間すんだところで、この奥に当時の井戸があったという。 |
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俎(まないた)橋 |
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靖国通りに出て、左に俎橋が架かる。江戸時代 台所町が近くにあったことに関係しているという。 橋のたもとに夜を待つ屋台がひっそりと置かれている。 |
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大隈重信邸跡 |
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日本橋川沿いを下り、千代田区役所前に行く。 内堀通りを挟んだ南側には江戸城の清水濠が広がり、清水門がある。 小さな広場に、説明板と石柱がある。 この場所は将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれていたという。 明治にはいると、政府の厩が置かれ、大隈重信が邸宅を構えた。 |
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清水門 |
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以前より 江戸城跡や、千鳥ヶ淵・田安門・武道館などは散歩することはあるが、この場所まで来ることはないので、この際、清水門の中まで行くことにする。 江戸城は 長禄元年(1457)太田道灌によって創られたとされ、天正18年(1590)から徳川家康の居城となった。 その後 大規模改修が施され、慶長12年(1607)天守閣、寛永13年(1636)には総構が完成した。 清水門は、北の丸北東に位置する枡形門で、正面の高麗門と奥の櫓からなる。 現在の清水門は 扉釣金具に残る刻銘から 大火の後の万治元年(1658)に建てられたものと考えられている。 清水橋の左手が清水濠、右手が牛ケ淵でその奥に武道館の屋根が見える。 |
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平川門 |
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竹橋を過ぎると、平川門が見えてくる。 太田道灌が江戸城を築いたころは、この辺りは江戸湾に面しており、上平川村、下平川村という村があったといい、門の由来でもある。門につながる木橋は昭和63年に再建されたもので、橋の擬宝珠には寛永な土の銘が彫られているという。 江戸時代には 江戸城三の丸の正門で、本丸に近い通用門として奥女中の「お局御門」ともいわれ、また北の丸に暮らす御三卿(清水家・一橋家・田安家)の登城口であった。 ここから再び日本橋川に戻る。 |
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一橋徳川家屋敷跡 |
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平川門の交差点から北に進むが、その東側一帯、現在丸紅本社ビルの大規模な工事で塀で囲まれている場所が、屋敷跡である。 一橋家は8代吉宗の四男徳川宗伊(むねただ)によって創始された 後の15代将軍となった徳川慶喜が、水戸徳川家から養子に入った一橋徳川家である。 ( 水戸徳川家斉昭の七男の七朗麻呂は、12代将軍家慶(又は老中阿部正弘)の意向で、将軍跡継ぎの資格を持たせるため、水戸徳川家から一橋家へ養子に出された、という。) |
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一ツ橋 |
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家康の入国のころに、丸木が一本架けられていたことに由来するという。 その後一ツ橋御門として濠の内外を繋いでいて、橋の右手に、その石垣が残っている。 |
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錦橋とその先の親水広場 |
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200mほど下流に錦橋があるが、関東大震災後に架けられた橋で、この辺りは日本橋川が蛇行していて首都高速の下の川面がよく見える所でもある。 川の右側一帯は、親水広場として整備されており、そこに立てられている「大手町川端緑道案内図」には、江戸時代のその周辺の松平越前守などの大名屋敷の多く並んでいたことが示されている。 |
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神田橋・神田橋門跡 |
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<神田橋からみた日本橋川> | その先に架かる橋が、神田橋である。橋を北に進んで行くと本郷通りで、地下には東京メトロ千代田線が走っている。 渡った先の小公園の前に、「神田橋門跡」の説明板が立っている。 神田橋門は寛永6年(1629)に構築され、神田口門・芝崎口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くためのお成道となるため、門の警備は厳重であったという。(クリックすると拡大) 江戸城大手門から神田橋門を通って幸手宿で日光街道と合流する日光御成道でもあった。 さらに少し先の歩道脇に「豊展観守像」が建っている。 神田橋南詰めの東側に石垣跡がある。 石垣跡の説明板が立っているおり、そこに 神田橋と江戸城外堀の絵が、ある。 ←明治時代の神田橋付近(新撰東京名所図会) クリックすると拡大 |
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鎌倉橋 |
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日本橋川のほとりの整備された広い緑道を進んでいくと、周辺の案内図のほかに、「日本の文様」というテーマにして市松文様や縞文様など多くのサンプル模様が、解説とともに描かれている掲示板があり、ゆっくりと散歩するには格好の場所である。 錦橋から神田橋までの案内図。(クリックすると拡大) 鎌倉橋の対岸(内神田側)は、江戸城を築くときに鎌倉からやってきた材木商が、材木を荷揚げする時に使った河岸で、「鎌倉河岸」と呼ばれるようになり、その後多くの物資が集まり、生花市場など町人地が広がっていった、という。 |
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新常盤橋・常磐橋・常盤橋 |
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緑道は、JRの高架で行き止まりとなり、少し遠回りして次の新常盤橋を渡り、日本橋宝町側に出る。 <新常盤橋から下流方面> この新常盤橋の下流側に、常磐橋 そして 常盤橋の三つの橋が並ぶ。 新常盤橋は、大正9年(1920)に最初に架けられた。 次の常磐橋は、最初の橋は天正18年(1590)に造られた。(工事中) 三つ目の常盤橋は昭和元年(1926)大震災後に架けられた。 <常盤橋から見た上流側・・・・工事中の橋> 常磐橋は、前回訪れた時と変わらず工事中であり、常盤橋御門(江戸城の正門である大手門へ向かう外郭正門)跡も含めてみることはできない。 <明治4年(1871)の常盤橋門の写真> クリックすると拡大→ <常盤橋> 俎橋にもあったが、橋のたもとにある屋台の風景。 大都会の真ん中でも根強い人気があるのだろうか? |
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日本橋 |
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日本橋川は、一石橋・西河岸橋を過ぎて、日本橋に至る。 常盤橋から下流の鎧橋まで様子は、前回の散策を参照。 本日の散策はここまで。 三越前 「北海道 八雲町」に向かう。 |
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ご当地酒場 「北海道八雲町」 |
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三越本館の真向かいのビルの地下である。 今まで訪れてきた「下町」の食事・酒の雰囲気を大いにを楽しむというよりは、今回は日本橋界隈のど真ん中での、新鮮な魚介類を!! という”新たな趣向”である。 『太平洋と日本海の二つの海でとれた豊富な種類の魚介類が、毎日直送で入荷』 が売り ということで、それに恥じない新鮮なホッキ貝、ホタテの炙り、タコのザンギ その他野菜も含め大いにに楽しんだ。 (後で地図を見たら、八雲町は、函館の北、内浦湾に面して室蘭の真向かいにあり、西側は日本海に面していることを、知った。) また今回は、いつものメンバーの5人にとって30年ぶりの再会となるKさんを迎えての特別な集まりでもあった。 メンバーの一人のコメント: 『当時の状況を冷静に観察していた貴重な証人であるKさんの 忌憚のないお話は、一気にあの時代に引きづり込んでくれました。 久しぶりにあの 時代の気分に浸ることができましたことを、未だ頭脳明晰を維持しているKさん に心から感謝いたします。』 |
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