<東京下町の散策と食事を楽しむ>


 谷中・根津の散策 と 「はん亭」 (串揚げ)
   2015年12月21日

                     
地図→日暮里駅→谷中→根津駅


 明治時代に建てられた建物で、根津の串揚げ処 「はん亭」で、あげたての串揚げを楽しむ。
その前に、約3時間ほどの時間を利用して、谷中・根津の散策を楽しんだ。

通称「谷・根・千」と言われて下町の風情の残る町並みとして親しまれているが、今回はそのうちに南の部分にあたる日暮里から、根津の近辺までを散策した。
 ルートとしては、谷中銀座→谷中霊園→寛永寺→根津神社→弥生坂→根津駅である

日暮里駅北口
 日暮里駅の北口から西口に出る。
駅の西側には谷中霊園と寺が並び、東西に車道が一本伸びるだけの静かな駅前である。

御殿坂
 西に向かって緩やかな坂がある。御殿坂といい、江戸時代からの呼称という。
説明板によると、御殿坂は谷中霊園にある天王寺の下を通り芋坂の下へ続いていたことが、当時の絵図にあり、また このあたりに白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿があったというが、名前の由来は明確でないという。
 坂の北側には、本行寺の石塀が続き、その端に説明板がある。大永6年(1526)の建立で、のちに現在地に移されたという。景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれたという。

経王(きょうおう)寺
その隣に、明暦元年(1655)建立の大黒天 経王寺がある。
慶応4年(1868)の上野戦争の時、敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけ、山門にはその銃弾の跡がのこっている。




少し先で二叉路となり、谷中銀座へは右の道を進み、、途中に石段を下りていく。
上からは谷中銀座が見下ろせる。

二叉路を左に進むと、下り坂で、、谷中銀座のアーケードのすぐ南に到達する。
この坂は、七面坂といった。

谷中銀座
 谷中銀座は庶民的な親しみのもてる商店街である。

味噌おでんと、いか刺身、焼きそばで遅いランチ・・・安くておいしい。


150m程で、南北にはしる「よみせ通り」につきあたる。 
この通りもいかにも下町の雰囲気のある通りである。

岡倉天心記念堂
 谷中銀座通りをアーケードの立つ地点まで戻り、細道を右折する。
 宗林寺の脇を通る静かな通りを少し進むと、左手に小公園があり、その奥まったところに記念堂が建っている。
説明板によると、明治31年(1898)に岡倉天心が中心となって創設された「日本美術院」が、この場所に建てられたという。8年後に茨城県五浦に移るまで、ここが活動の拠点になっていた。
その活動は、絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法を取り入れ、近代日本画に清新の気を与えたという。
記念堂には平櫛田中作の天心座像が安置されている。

蛍坂
 次の角を左にはいり、観音寺の塀を見に行く。
すぐにコンクリートの高i壁に突き当たり、壁に沿って右に進んで行く。
 その角に「蛍坂」の標識が立っている。
先ほど通ってきた宗林寺の付近は、蛍沢と呼ばれ、蛍の名所であって、それにちなんで蛍坂とつけられたという。
また、ここから100mほど南側にある三崎(さんさき)坂と、、北側の七面坂の中間の坂なので、中坂とも呼ばれたという。

観音寺の築地塀
 突当りを左に進むと、観音寺の南側の路地で、築地塀が続く。
幕末の頃建てられたものといわれ、瓦と土がきれいに積み重なって造られた塀に屋根瓦が乗っている。
はずれの塀の断面を見ると、以外と分厚い塀であることがわかる。


 T字路を右に曲がると、長安寺で、山門の前にある説明板によると、建治2年(1276)の板碑を含め 鎌倉・室町期の4基の板碑が残されているという。

徳川慶喜の墓
 200m程進むと車道に合流しさらに100mほどの三叉路で、谷中霊園の西端となる。霊園の中に入るには、そこから日暮里駅方面にもどると、入口がある。
広い霊園であるが、案内の通りに進みんでいくと、柵で囲まれた墓所にたどり着く。
 葵の紋のある柵の奥に、2つの円墳状のお墓があり、左側が慶喜で、従位勲一等徳川慶喜墓の石柱がある。
 慶応2年(1866)家茂の跡を継いで第15代将軍となったが、慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸城を明渡した。その後駿府に隠棲し、侯爵、貴族院議員となり大正2年(1913)に逝去した。
 
 そこから、南に向かって霊園をでて、寛永寺に向かう。
霊園から来たため、境内の裏から入る形となる。

寛永寺 根本中堂(本堂)
 寛永寺は 元和8年(1622) 二代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧 天海に寄進したことから始まるという。
その時の根本中堂(天台宗の寺院では、本堂にあたる建物を「根本中堂」ということもある)は、元禄11年(1698)に完成。
 当初は徳川家の祈祷所であったが、のちに、増上寺とともに徳川家の菩提寺となり、6代将軍以降、墓所は交互に造営されたという。

 江戸時代後期の寛永寺は、現在のの上野公園の全域が旧境内であり、子院を含めた寺地はその2倍であったという。
 慶応4年(1868)の彰義隊の戦い=上野戦争により主要な堂宇は消滅した。

 今の根本中堂(本堂)は、寛永15年(1638)建造されたという川越市の喜多院の本地堂が、明治9年(1876)から12年にかけて移築されたものである。

 旧本坊表門に据えられていた鬼瓦→



←銅鐘
高さ177cm、口径91cmで、4代将軍家綱の一周忌にあたる延宝9年(1681)に奉献された。

吉田屋商店
 寛永寺の北を通る言問通りを西に向かう。上野桜木の交差点角に「旧吉田屋酒店」がある。
月曜日は、見学施設に休館日が多く、ここも入れず、やむなく説明板だけである。明治から昭和初期の酒屋店舗の形態を残すため、谷中六丁目の一画にあった建物が、ここに移築復元されている。 棟札には明治43年(1910)新築とある。(その後一部改築)。 正面1,2階とも出桁造りで、商家特有の長い庇を支えている。
 上野桜木町この付近に桜の木が多くあったことに由来し、谷中は、震災や戦災で大きな被害を受けることの少ない地域であり、古い建物が多く残っている。

この先の谷中六丁目の交差点のすぐ先の細い路地を北に入る。周囲には寺が多い。

<大名時計博物館>
 左へカーブした先に、細い急な坂道があり、その角に大名時計博物館がある。(あとで調べたら、上野台地から西の愛染川(藍染川)流域の斜面にあたるため、坂が多く、この坂はその一つで「三浦坂」という。)
 


 残念ながら休館日であるため、100m程北に進んだあと、根津神社のある不忍通りにむかった
 
 坂を下りきると 「旧 谷中真島町」の説明板がある。
「江戸末期、このあたりは武家屋敷の地であった。美作(みまさか)国の真島藩下屋敷があったのもこのあたりで、周辺のの武家屋敷を合併して真島町と名付けられた」という。

根津神社  
 
<楼門>  根津神社は日本武尊が、千駄木の地に創建したと伝わり、徳川綱吉が、のちの6代将軍家宣の産土神として宝永3年(1706) この地に移し社殿を造営した。

 鳥居に続き長い参道があり、その先に楼門があり、その先に唐門と社殿がひかえている。
<唐門>
 唐門をくぐると、左右に続く透塀が社殿と中の境内を囲んでいる。

燈籠は、銅製 寛永7年(1631)と刻まれている。

<透塀>         <銅製灯籠>









<拝殿>
 
 社殿は 拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿を見せている。
(説明板)





 拝殿に向かって左手にある透塀から出て境内の西に向かう。
銀杏の葉の浮かぶ池を挟んで 乙女稲荷がある。

 その奥には、駒込稲荷があり、まわりに石塔・石碑が集められている一画がある。

<塞の大神碑>
  
 もともと通称 「駒込の追分」に建てられていたが、道路拡張のため、根津神社に移されてきたという。
 駒込の追分は、日本橋から一里で、一里塚のあった所で、旧中山道と旧岩槻街道(日光御成)の分岐点であった。そこにあった庚申塔が火災で欠損したため、その跡地に、この塞の大神碑が、明治6年(1873)に建てられたものという。

<庚申塔群>
 その手前に、6基の庚申塔がある。道の辻などに建てられていたものが、明治以降の道路工事などの為 ここにひとまとめに納められたものである。
 東京都内ではあまり見かける機会のなくなった庚申塔なので、説明板にある内容も含めてメモした。

各々の庚申塔はクリックすると拡大。

クリックすると拡大青面金剛
下部:猿と鶏
寛文8年(1668)

クリックすると拡大観音像 
庚申供養

クリックすると拡大青面金剛
上部:日月瑞雲
下部:鬼 2鶏 
元禄5年(1692).

クリックすると拡大青面金剛像
上部:日月
下部:3猿 
延宝8年(1680)日月

クリックすると拡大梵字 庚申供養 
寛永9年(1632)

クリックすると拡大
日月・青面金剛
上部:日 月
下部:鬼猿
宝永6年(1709)

 

<徳川家宣胞衣(えな)塚>
 千本鳥居をくぐった先には、十数個の割り石が積み重ねられたところがある。家宣の胞衣が納められている。
(胞衣=胎児を包んだ膜と胎盤のこと)
説明板によると、関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、大切に扱われたという。

<鳥居>

お化け階段
 根津駅はすぐ近くであるが時間があったため、鳥居から出たすぐ先を南に向かい、谷根千の案内にあった「お化け階段」を見に行った。
上りで40段、下りで39段と段数が違うというものである。
幽霊坂ともいわれ、これが話題になるほど、この近辺は坂が多い。

弥生坂と弥生式土器
 根津の交差点から、西に向かう。
説明板がある。
 「このあたり一帯は「向ヶ丘弥生町」といわれ、元和年間(1615~24)の頃から水戸藩屋敷、小笠原信濃守の屋敷、加賀藩前田家の屋敷があった。明治2年(1869)明治政府に公収され、大学用地になり、「向ヶ丘弥生町」と名付けられた。弥生とは、徳川斉昭が文政11年(1828)3月ー弥生ーに このあたりの景色を詠んだ歌碑を、建てたから」という。、


 坂の左には東大工学部の建物が並び、その西の端、信号機のある角の一画に「弥生式土器発掘ゆかりの地」と刻まれた大きな石碑がたっている。
 明治17年(1884)弥生町の向ヶ丘貝塚で貝や縄文土器とともに口縁を除いてほぼ完形のの壺が出土した。正確な位置は不明であったが、その後の東大構内の発掘調査で、遺構が確認され土器が出土した。
その地名をとって「弥生式土器」と呼ぶようになったが、今は「弥生土器」の名が一般化している。弥生時代の名称の元になっている。(wikipediaより)

   <弥生坂・・根津駅への下り→>

今回の散策のメインである「はん亭」に向かう。

はん亭
 不忍通り東側のビルに囲まれた一画に ある。周囲は薄暗くなっていたが、大変歴史が感じられる建物である。、
 もともと藍染川に面しており、古くは爪皮屋(雨や泥よけに下駄の鼻緒にかぶせる爪皮を扱う)を営んでいた商家の建物であったという。
明治末に建てられた総けやき造り 木造3階建で、震災、戦災にも残り、文化庁の登録有形文化財指定となっている。
 道路拡張で一部が削られたため、道路側は鉄矢来でおおわれている。

 3階にある個室で、揚げたての新鮮な素材の串揚げを楽しんだ。