巨福呂坂・亀ガ谷坂・化粧坂・大仏坂



 
 鎌倉七口の散策の第一回目として、西側に位置している切通を八幡宮を起点として歩くことにした。そのルートは、次の通り。

@八幡宮から一番近いところが、巨福呂坂でありそこを抜けると、鎌倉から出て山之内方面=北鎌倉に向かうことになる。

A次に建長寺前を、南に向かって扇ガ谷方向に向かうのが、亀ガ谷坂で古くから鎌倉に入る道として使われていた。

B亀ガ谷坂をおりて、横須賀線をわたり、海蔵寺をを見た後、化粧坂をのぼる。ここが鎌倉街道の上ノ道の起点とされた。



鶴岡八幡宮−源氏池


いつも訪れている八幡宮ではあるが、いつもの何かの用事があるときと違いみるところの範囲が広いせいかまたはゆとりがあるせいか、今までとは違う何かを感じさせた
巨福呂坂ー登り口


巨福呂坂は、八幡宮の脇から山之内へ抜ける道で、近くを現在の建長寺へ向かう鎌倉街道が通っている。坂があったところはトンネルができており、そこは「巨福呂坂洞門」と名付けられている。

鎌倉時代の巨福呂坂は、八幡宮西側の車のお祓い所前にある道を西側に入っていくが、坂の途中で行き止まりになっている。そこまでは、当時の名雰囲気が僅かだが残っている。

車のお祓い所の前の道を登っていくところ。

巨福呂坂ー道祖神



 左側には 道祖神がのこる

巨福呂坂ー青梅聖天社


 通称、聖天坂とよばれ、左側に苔むした石段があり、青梅聖天社が祀られてる




案内板によれば、双信歓喜天を本尊に祀ってあるという。

『ここの歓喜天は、新編鎌倉誌に「病に罹った鎌倉将軍が時季外れの梅を望み、諸所さがしたが、この宮の前に俄かに実った青梅を奉じ、回復した」とあり、青梅聖天と呼ばれたという。

歓喜天は大聖歓喜天とも称され、仏教を守護し、邪悪を除去市、諸願を成就させてくれる尊体として信仰されてきたという。(以下略)』

 巨福呂坂ーつきあたり 



 さらに登っていくと、民家がありその先が完全に行き止りとなっている。 

 

今までの道をひきかえし、現在の国道―鎌倉街道−に出て、北鎌倉方面に歩く。

 

今の巨福呂坂方面:八幡宮から建長寺がわに抜ける手前







 鶴岡八幡宮の西および南側を迂回している現在の国道―鎌倉街道を北鎌倉方面に歩く。

写真左側の山巨福呂坂があった場所で、トンネルの手前に巨福呂坂が近くにあったことを示す標識が立っている。

北条泰時の時代に巨福呂坂と朝比奈峠の切通しが開かれたが、これにより山之内川が急速に開かれ、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された。

  トンネルを越えると、左側に円応寺があり、さらに進むと建長寺の大きな山門がみえてくる。建長寺については、昔から何回もきており、また別の日に改めて訪ねることとする。 

トンネルを越えると、左側に円応寺があり、さらに進むと建長寺の大きな山門がみえてくる。建長寺については、昔から何回もきており、また別の日に改めて訪ねることとする。 

 さらに北鎌倉方面に進むと、長寿寺があり、そこから南側の山方向にのぼっているのが亀ヶ谷坂である。

亀ヶ谷坂

 この道は、ほかの鎌倉七口と違い、今でも生活道路として使われており、道全体が干舗装されている。 

亀ヶ谷坂は頼朝の鎌倉入り以前からの、山ノ内から扇ヶ谷へと結ぶ重要な道であった。巨福呂坂と共に鎌倉街道中ノ道の起点とされている。

岩船地蔵堂


亀ヶ谷坂を下って横須賀線の見える三叉路のところの真新しい六角形の建物が、岩船地蔵堂である。源頼朝の娘で、木曽義仲の子義高の許婚となった大姫を供養する地蔵と伝えられる。

底脱ノ井戸


岩船地蔵堂から西北方向に向かい横須賀線のガードをくぐって、化粧坂方面入口を越してさらに進むと、海蔵寺の門前、右側に鎌倉十井のひとつの、「底脱ノ井戸」がある。

海蔵寺



海蔵寺は、開基は応永元年(1394)上杉氏定、開山は心昭空外(源翁禅師)といわれる。

源翁(げんのう)禅師は、謡曲「殺生石」で有名。

また、四季の花でも有名で、訪れたときには「ミツマタ」がきれいに咲いていた。

『十六ノ井』


 仏殿の左側を進んだ奥に、弘法大師が彫ったといわれる16の 丸穴の『十六ノ井』とよばれる

やぐらがある。

景清の牢の跡


 海蔵寺に来た道をもどり、化粧坂入口の案内があるところを西にむかうと、坂の手前 左側に、景清の牢の跡がある。

(景清:平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため、平姓で呼ばれるが、本名は藤原景清。頼朝暗殺を企てたが、建久6年(1195)に捕らえられたという。

化粧坂


化粧坂(けわいざか)切通しは、鎌倉と武蔵の国を結ぶ重要な出入り口で、鎌倉上ノ道(うえのみち)の起点とされている。

ここを越えると洲崎〜渡内(藤沢市)−俣野を通って府中に続く武蔵大路であった。

坂の長さ自体は短いが、非常に急峻で、現在の感覚から言えば、とても鎌倉との通路になっていたとは思えない。

新田義貞の鎌倉攻めのはなし

 

「元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めのとき、全軍を3つに分け、義貞と弟・脇谷義助がここでたたかっている。巨福呂坂では堀口貞満、極楽寺坂では大館宗氏が鎌倉を総攻撃した。

義貞軍は洲崎の守りを破って化粧坂に入り、北条軍を破ったが、極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、腰越から干潮の稲村ガ崎を回って幕府軍の背後を突いて鎌倉へ侵入し、北条氏を滅ぼした。北条高時の一族は東勝寺で自害する。」

源氏山―源頼朝



 坂を登りきると源氏山公園となっており、南側には、源頼朝の銅像が立てられている。

政子の墓


源氏山の東側に、急な斜面をくだるハイキングコースがあり、下りた所が寿福寺の墓地の裏である。

墓地の山際にはやぐら群があり、その中の一つに源実朝、北条政子の墓といわれる五輪塔がある。

 寿福寺


頼朝の父義朝の屋敷がかつてあり、頼朝は当初ここに幕府を構えようとした。

寿福寺は鎌倉五山のうちの一つで、北条政子・源頼家が僧・栄西を迎えて創建したといわれる

寿福寺から、線路に沿って北側に行くと、鎌倉で唯一の尼寺である英勝寺がある。

その前の踏切を渡って、北側方向へいくと浄光明寺がみえる

浄光明寺

鎌倉幕府6代執権北条長時により、建長3年(1251)創建されたという。

本堂と奥の阿弥陀堂とも静かなたたずまいをのこしている。

 泉ノ井


浄光明寺の前の道をさらに奥へ行くと、鎌倉十井の一つ『泉ノ井』がある。

石仏


 その先にあった石仏・・鎌倉には、このような昔からの石仏や供養塔が数多くある。

寿福寺の前まで戻り、直ぐ前の横須賀線の踏切を越えて、八幡宮へいくみちが、「窟

小路」とよばれ、亀ガ谷坂/化粧坂切通から、鎌倉幕府に通じる重要な道であった。

窟(いわや)堂


寿福寺の前まで戻り、直ぐ前の横須賀線の踏切を越えて、八幡宮へいくみちが、「窟

小路」とよばれ、亀ガ谷坂/化粧坂切通から、鎌倉幕府に通じる重要な道であった。

鉄ノ井



 小町通りのはずれにでたところ−鎌倉街道にぶつかるところ−の角に鎌倉十井の一つの『鉄ノ井』がある。

 ここから鎌倉駅までもどり、江ノ電で、長谷までいき『大仏切通し』の探索に出かけた

 大仏は、以前行った事があるので、今回は長谷寺をおとずれた。

長谷寺


大仏坂トンネル


長谷寺の前の道を、鎌倉大仏のある高徳院前を通り過ぎ、西に向かう。大仏トンネルガ見えてくる。

右側にある階段をのぼる。



途中に、ハイキングコースの標識がたっており、それは、「長谷駅−源氏山公園」のコースになっているところで、その標識の道に向かわずにさらに、まっすぐに登っていく。そこが、大仏切り通しである。

大仏切り通


細い道が続き、トンネルの向こう側に下ることができたが、この道は、地図には明確に表されていない。

 下ったバス通りから、大仏トンネル経由の鎌倉行きのバスがある。

 

散策日

2006年3月17日

鎌倉駅  長谷駅 鎌倉駅