朝比奈切り通しへの散策


 

鎌倉七口の散策の最後として、雪ノ下、二階堂から浄妙寺・十二所を訪ねて、朝比奈の切通しまで、出かける。

 

 八幡宮の三の鳥居を東に向けて、朝比奈方向へ進む


岐れ道の庚申搭


しばらく行くと大塔宮方面へ行く道との三叉路となり(岐れ道)、左手の魚屋の前に左手に庚申塔がある。

「庚申供養塔」と彫られ、延享二年(1740)とある。その隣に「右大師道」とある道標が建っている。

 

関所橋


その直ぐ先の関所橋があり、その向かい(金沢街道の左手)に関取場跡の碑がある。 天文17年(1548)北条氏が、この先の荏柄天神の改修のために、関所を設けて通行税を取っていたところ

 文覚屋敷跡の碑


その先を街道からはなれ、右折し滑川を渡ると、文覚屋敷跡の碑が見えてくる。

石碑によると「養和2年(1182)源頼朝の本願として江ノ島に弁財天(べんざいてん)を創設し、三十七日の間、食を断って祈願したという 文覚上人が住んでいた屋敷の跡」という。

勝長寿院跡の石碑


その道をそのまま山側に緩やかな坂を登っていくと勝長寿院跡の石碑と、墓がある。

案内板―概略

『文治元年(1185)源頼朝は父義朝の菩提を弔うためこの地に長勝寿院を建立した。ここには定朝作の本尊金色阿弥陀仏像、運慶作の五大尊像などが安置され阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が建ち並んでいたが、16世紀ごろに廃絶したと思われる。

ここには、工事などで出土した礎石を集めてある。』

 

金沢街道に戻り、東にむかう。
滑川の支流の二階堂川にかかっている橋が、歌の橋である。

 歌の橋

鎌倉十橋のひとつ。

石碑によると「建保元年(1213)渋川兼守(しぶかわかねもり)が、謀反の罪で処刑されそうになったとき、愁いいの余り、和歌十首荏柄天神に納めた。次の日、将軍の実朝は、その歌を聞いて感心して罪を赦した。兼守は神に感謝して、そのお礼としてこの場所に橋を造り納めた。」という

 杉本寺


 天平6年(734)光明皇后の命で、藤原房前と行基が開いたと伝えられる、鎌倉で最も古い寺。

源頼朝により建久2年(1191)再建された。

長い石段の参道が続き、仁王門を過ぎると頂上に茅葺きの観音堂が建つ。本尊として3体の十一面観音立像がある。

 



杉本寺から、朝比奈方面を望む。

 報国寺

杉本寺から東に行き、浄妙寺手前を右に入る。滑川を渡ってすぐ右が報国時である。

足利、上杉両氏の菩提寺として栄えた臨済宗寺院。開山はて仏乗(ぶつじょう)禅師で、建武元年(1334)足利尊氏の祖父家時が建立したと伝えられる。山門から本堂までは禅寺らしい石庭がある。 本堂の裏手に休耕庵跡がある。ここは仏乗禅師が修行や詩作を行った場所で、今は有名な竹の庭となっている。裏山には足利一族の墓とされる大きなやぐらが建つ。


浄妙寺

文治4年(1188)鎌倉幕府の重臣である足利義兼により建立されたという。当初は東の極楽寺といわれたが、義兼の子義氏の時に臨済宗となり寺名も浄妙寺に改名された。

足利氏が栄えた室町時代は23の塔頭を備える大寺院だった、本堂左手に枯山水庭園があり、裏には足利貞氏の墓と伝えられる宝ぎょう印塔がある。



足利貞氏の墓

立派な、白の藤棚・・・きれいに咲いている

青砥屋敷跡


浄妙寺から街道に戻り、東に向かって進むと、南側に青砥橋あり渡ったところに石碑がみえる。

北条時頼、時宗の両将軍に仕えた青砥藤綱の屋敷の跡と伝えられる所。

青砥藤綱には、滑川を渡るとき、落とした十文を、五十文でたいまつを買って、家臣に拾わせたという逸話がある。

足利公方屋敷跡

青砥橋からさらに東に行くと左側に足利公方屋敷跡の碑がある。

源頼朝が幕府を開いた時に、足利義兼(よしかね)がこの場所に家を定め、以後子孫が代々住んでいた。鎌倉幕府滅亡後、2代将軍足利義詮(よしあきら)の弟の基氏が関東管領となって、ここに館をかまえ、東国の支配をおこなった。以後基氏の子孫が鎌倉公方を引き継いだが、享徳3年(1454)足利成氏は、執事上杉憲忠との不和により下総古河に移り、廃墟となっている。

 

明王院

金沢街道を東に向かい、逗子方面に向かう大きな交差点−明石橋が見えてくる。その直前を左折し滑川を越えると,緑に囲まれた明王院がある。

嘉禎元年(1235)鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経が、将軍の御願所として建立した寺という。「鬼門除け不動」といわれている。

境内は緑が多く、本堂は,茅葺で、簡素な感じを受ける。

 

光触寺

明石橋の信号を越え、街道が北に向かう直前のところにバス停があり、そこを右にむかう。

弘安2年(1279)一遍上人に帰依した作阿上人によって開かれた時宗の寺。

頬焼阿弥陀如来の話がつたわる。

寺宝の「頬焼阿弥陀縁起」は国の重要文化財に指定され、鎌倉国宝館に寄託されているという。


一遍上人

本堂横の地蔵堂には、供物の塩を嘗めるという塩嘗地蔵が祀られる

裏にある豪華な藤棚


 稲荷坂の調査

通例言われている七切通しのほかに、有名な坂としては、小坪切通し、稲荷坂の二つがあり、このうち、稲荷坂は 『十二所村より池子村へ出る坂』ということから、ここに来た機会にさがしてみた。

光触寺の奥に東側の山に向かって道が続いており、その奥に建設会社の事務所と資材置き場がある。そこに働いている人にさらに奥に行けるか確認したところOKというので、進んだ。

小さな流れがあり、それに沿って道らしいものがあったが、雨上がりのため、ぬかるみとはっきりしない道筋のため、途中であきらめて引き返した。

バス停の近くの人に聞いたところ、以前は登り道はあったが、今は通れないという話である。

十二所神社


 バス停まで戻り、北に向かう。左側に懐石料理の峰本 朝比奈店があり、その奥に十二所神社がある。

創建は弘安元年(1278)。かつては熊野十二所権現社と呼ばれ、光触寺の境内に鎮守社として祀られていたという

朝比奈切通

十二所神社から小道を通り、金沢街道に出た向かい側に、朝比奈切通の標識がある。川に沿ってさらに登っていくと三郎の滝といわれる小さな滝がある。ここから左に上る道が朝比奈切通である。

 初代侍所別当 和田義盛の3男、朝比奈三郎義秀が太刀で一夜のうちに切開いたという伝説からこの名前がついたといわれている。

 


途中には、石仏や庚申塔がおおくあり、また頂上付近の岩には、仏像が彫られている。



鎌倉と六浦を結ぶ道として特に重要であったのは、鎌倉防衛よりもむしろ、六浦が房総や江戸湾の内海航路とつながっており、東国の物資を鎌倉へ運ぶルートとしてであった。 

熊野神社


頂上を過ぎて六浦方面に下り始めると直ぐ、『右 かまくら道 左 熊野神社』という道標がある。その道をしばらく行くとうっそうとした立派な杉林があらわれ、切通とはがらりと変わった静かな雰囲気のなかで、熊野神社がたっている。
 案内板によると、源頼朝が朝比奈切通切削に際し、守護神として熊野三社大明神を勧請して、元禄年間に、地頭の加藤太郎左衛門尉之を再建したとある。



切通の熊野神社入口までもどり六浦街道側におりる。、十二所側から登ってきた坂よりはゆるやかなくだりだ。

出口近くにある庚申塔群   六浦側の入口。 


    
散策日 2006年4月24日 鎌倉-十二所
2006年5月1日 十二所-六浦