中原街道 ③多摩川-中山 散策ルート ①桜田門→高輪台 ②高輪台→多摩川 ③多摩川→中山 ④中山→桜ヶ丘 ⑤桜ヶ丘→寒川 ⑥寒川→平塚 地図→多摩川-野川 野川-佐江戸 佐江戸-中山 |
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丸子橋 丸子の渡し |
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新丸子駅から自動車道の中原街道の丸子橋までいく。 多摩川の土手の上を南に100mほど進むと丸子の渡し跡とかかれた金属製の柱がある。ここには「多摩川右岸海から13km」という標識もある。 昭和10年(1935)に丸子橋が架橋されて渡しは廃止となった。 |
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旧原家 母屋屋敷跡 |
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土手から西に向かい丸子橋交差点を横切り、東横線のガードをくぐって、間もなく右手に立派な門構えの日本家屋がある。 原家9代目文次郎は、明治24年から22年の歳月をかけてここに母屋を完成させたという。 川崎歴史ガイド「中原街道ルート案内図」が掲げられている。(クリックすると拡大) |
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安藤家長屋門 |
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安藤家は江戸時代には橘樹郡小杉村の割元名主として、代官の指揮下で近隣の村々 の名主を統括していたという。 この長屋門は、柱・扉・冠木(かぶき)・出梁(だしばり)などすべて欅を用いており、基本的には平屋建の外観を持って、天井裏を中二階として用いているのが特徴という。 少し先右側には、明治3年(1870)創業という石橋醤油店の建物がある。 |
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小杉御殿跡 |
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(西明寺 参道) |
100m程先で中原街道は左に直角に曲がっている。 まっすぐ進む道は(左)、西明寺の参道となっているが、この辺りの北側に小杉御殿があった。 手前の小さな石柱に「徳川将軍小杉御殿跡」と彫られている。 慶長13年(1603)徳川秀忠が、中原街道を利用する時や、鷹狩などのため将軍の宿舎として造営したものである。 その後東海道が主要街道になったころ、50~70年後、御殿としては廃止された。 参道の手前を右に入る細道があり、最初の角を左折して50mほど行くと、小杉御殿の御主殿跡がある。 小さな社と説明板が立つのみである。 |
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小杉陣屋跡 |
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もと来た角まで戻り、北に向かって進み、右折→左折して小公園の手前までいくと、石鳥居と空き地があり、「小杉陣屋跡」の説明板がある。 慶長2年(1597)に代官の小泉次太夫が、稲毛領、川崎領を潤す二ヶ領用水の建設を徳川家康に進言、ここに陣屋を設け14年におよぶ難工事の指揮にあたった。 この辺りの地名「小杉陣屋町」はこれに因むという。 |
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西明寺(さいみょうじ) |
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曲がり角に戻り、参道が続く西明寺にいく。 参道わきには二宮金次郎の石像が建つが、本堂に明治6年(1873)に置かれたという「小杉学舎」の名残か? 西明寺の創建は定かではないが、弘法大師の弟子が堂宇を建てたと伝えられ、北条時頼が中興開山となったとも伝えられる。 山門の扉には北条氏の紋がつけられ、江戸時代には近隣に末寺20余寺をもつ寺であったという。 |
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小杉神社 |
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西明寺の山門脇を廻って、北西に行くと小杉神社がある。 創建は不明。 江戸時代小杉村には、杉山社、神明社、および神明社の相殿の総社権現の三社が鎮守として祀られていたが、昭和26年(1951)に三社を合祀して小杉神社に改称したという。 |
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供養塔 |
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曲がり角までもどり、南に行って西明寺信号の三叉路を、西に向かう。 すぐ右に、供養塔があり、「小杉駅と供養塔」の説明板がある。 左側面には、武州稲毛領小杉駅と刻まれ、弘化5年(1848)とある。 説明板によると、「小杉駅は川崎宿より50年遅れて宿駅に指定された。 供養塔の台座には 東江戸、西中原とある」という。 |
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庚申塔 |
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200m弱進んで、郵便局の少し手前を左に入るT字路があり、小さな祠が建っている。 「庚申塔と大師道」の説明板あり。 庚申塔は、風化も進んでおらずきれいに保存されている。 天保14年(1843)の建立で、台座には 「東 江戸道 西 大山道 南 大師道」 と刻まれており、左へ進む道が川崎大師へ行く道であった。 |
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二ヶ領用水と神地(ごうじ)橋 |
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小杉十字路の先の二ヶ領用水路に架かる神地(ごうじ)橋を渡る。 説明板には、「この用水の恵みを受け この辺でとれた質の良い米は、特に『稲毛米』と呼ばれ、江戸で喜ばれた」という。 |
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泉澤寺 |
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すぐ右側にある泉澤寺は、延徳3年(1491)多摩郡烏山(今の世田谷区)に吉良氏の菩提寺として創建された。その後火災で焼失した為 天文19年(1549)に現在地に移転した。 吉良氏は、この地の税を免除して居住を促し、門前市を開いて繁栄を図った。 夏の泉澤寺の門前市は、世田谷のボロ市と並び広く知られた、という。 本堂(左)は、安永7年(1778)に建立されたもの。 |
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この先には 街道と交差する細道との角に、庚申塔や石仏を納めた祠が点在している。 |
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庚申塔青面金剛 大正6年(1917) 青面金剛 庚申塔?(下部が欠けている) | ||||||
木月堀と「くらやみ」 |
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武蔵中原駅の約200m程手前にtsutaya, book-off のビルが目印となるが、その向かい側に、北に行く細道があり、30mほど先に、説明板がある。 ここには木月堀-二ヶ領用水の支流-が流れていて今は暗渠となっている。 説明板には「堀の水を使った醤油づくりの歴史もある。 この先の原家は、名主をつとめた旧家で、木々に囲まれた家を地元では『くらやみ』と呼んできた。」という。 |
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地蔵尊 馬頭観音 | ||||||
大戸神社 |
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武蔵中原駅南側のガードをくぐった先に大戸神社がある。 大戸神社は、世田谷吉良氏の家臣の内藤氏が、永正年間(1504~21)に戸隠明神を小田中村の守護神として勧請したものという。 狛犬は砲弾を抱えている珍しいもので、台座には明治40年(1907) とある。日露戦争後である。 奥の宝物殿の脇に、庚申塔が 3基納められている。年代不明 |
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道の景色 蟻山坂 |
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すぐ先に大戸小入口の交差点を直進するが、9年前に歩いた鎌倉街道「下の道」は日吉方面から来てこの交差点で合流し、中原街道を上って行ったものだった。 数百m歩くと、二ヶ領用水あとの江川をまたぐ厳川橋(いわかわばし)をわたる。 その先の千年(ちとせ)交差点を過ぎたら、自動車道からはずれて、「蟻山坂」を上って行く。(自動車道は昭和24年(1949)に坂道を解消するために掘り下げられた。) 200m程先で、影向寺入口の標識のあるところで、自動車道を横切り、再び細道を進む。 影向寺へは、後ほど別ルートで訪れる。 |
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石塔・石仏群 |
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すぐ左側の一段高い所に、石仏や石塔が並んでいる。新道建設の時に、ここに集められたものだろう。 一番右の石塔は「天照皇太神」。 右の石仏は、左が正徳3年(1713)の「青面金剛」、右は、文化4年(1807)の「秩父・坂東・四国百番供養塔」である。 100mほどで、自動車道に合流する。 ここで寄り道となるが、右側の山腹にある寺を訪れる。 |
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能満寺 |
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川崎市教育委員会のHPによれば、行基の創建とされ、正徳4年(1714)に没した観空によって中興されたと伝えられている。 今の本堂は、元文4年(1739)の建立という。 境内にある別の説明板によると、「能満寺はもともと影向寺の塔頭十二坊のひとつであったのが、天文年間(1532~54)に移転してきた」とある。 また本尊の虚空菩薩像は、鎌倉の仏師 朝祐によって明徳元年(13980)に造立されたものという。 本堂への参道の脇の道には、多くの庚申塔や石仏がならんでいる。 |
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影向(ようごう)寺 |
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脇の急な坂を上って影向(ようこう)寺にいく. 天平12年(740)、聖武天皇の命をうけた行基により、開創されたと伝えられているが、発掘調査などから、それ以前にはすでに創立されていたという。 <薬師堂> 山門を入ると、正面に薬師堂がある。この薬師堂は、創立当時の堂宇とほぼ同じ位置にあり、元禄7年(1694)に建立された。 境内の東南側に影向石がある。寺の創建時には すでに塔が建てられており、その心礎として使われていたものという。 |
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妙法寺 久松の義民地蔵 |
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街道にもどり、野川の交差点を過ぎて緩い上り坂を進む。数百mさきにある久末の交差点の少し手前を南に入り、妙法寺に寄り道を。 境内には 地蔵堂があり、地蔵と供養塔がおさめられている。。 久松村の人々は、元禄6年(1693)領主から年貢を増やすよう求められ、直訴に向かった19人が殺された。 その後、その追悼の為に、地蔵尊と供養塔が、延享三年(1746)、寛政元年(1789)に建立され、義民地蔵と呼ばれるようになった。 昭和58年に妙法寺に移されたという。 |
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鎌田堂 |
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街道に戻り、第三京浜の高架下を過ぎて、道中坂にさしかかると左側に鎌田堂がある。 由来が記された石碑によれば、「この背後の丘に鎌田兵衛正清(源義朝に仕えたという)の館があったので、鎌田堂といわれる。観音が安置されてあったが盗まれたため、寛文13年1673)に今の石地蔵が建立され、子育て地蔵として信仰された」という。 安政のころ念仏道場として栄え、道場坂の名ともなった。(今は道中坂) 脇には、石仏が並ぶ。 四国諸州第(略字)八十二番根来寺と彫られている石仏などがある。(四国の寺の名が具体的に彫られているのは珍しい) |
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のちめ不動尊 |
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次の交差点でいったん自動車道から離れ100程先で合流した後、すぐに別れて、右へ大きくカーブしていく。200m程先の右側の 高い石垣の上に小さな堂と地蔵の祠がたっている。 「のちめ不動尊」と呼ばれ、由緒によると、「文久2年(1864) のちめの住人が八王子から不動様を背負ってこの地に祀り地域の守り神となってきた。 山の上にあったのがここに移転されてきた」という。 隣に石仏が納められた祠がある。宝永2年(1705)の青面金剛の庚申塔や線刻画の石仏などがある。 |
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山田神社 |
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広い自動車道に合流すると、すぐに大きな石鳥居と石段が目に入る。 右側には石仏が並んでいる 、南に突き出した丘陵先端を長い石段で上って行き 尾根沿いの長い参道を進んでいくと、山田神社本殿に到達する。 山田神社は、明治43年(1910)に近隣の村社である神明神社を 諏訪神社・八幡神社などとともに妙見社に合祀、その際地名にちなんで山田神社と改称されたという。 諏訪神社は貞観2年(860)に創立されたといわれる。 本殿は 棟札により、天保13年(1842)の造営という。 |
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道の景色 |
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新しくなった広い自動車道が続く。 中川中学校のグラウンド前に嘉永4年(1851)の「馬頭観世音菩薩」と大きく刻まれた石塔がたっている。 その先の早淵川の手前で右に入る旧道を進む。 勝田橋を渡り 200m程先をさらに右へ分岐して西側の山に向かって上る。 緩い坂道は今までの道に比べて狭く久しぶりの昔の街道歩きという雰囲気である。 |
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杉山神社 |
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坂の途中に新たに改築された杉山神社がある。 「社殿改築の碑」に、新武蔵風土記稿に記されている内容が紹介されている。 「村(勝田村のこと)の乾(北西)の方にあり・・・・村の鎮守にて、村民の持なり・・・当社の勧請は伝えざれど 応永(1394~1427)の鰐口を社前に掛く・・・」 坂を上りl切ると、道は西側から続く丘陵の東端を進んでおり、東(左)側には「源流の森 保存地区」という標柱が立っている。 この先は、新しい団地が造成されて、街道は消滅している。 自動車道の中原街道に出るために、突き当りの広い道を左折し、「郷の関橋」の手前の階段を下りて自動車道へ出る。 右の写真は、下りる前に東側をみたところ。(真ん中を走るのが自動車道、関家住宅は左の黒っぽい林の奥) 歩道を 100mほど北へ戻る。 |
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関家住宅 |
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左へ入る道の奥に表門が見える。 関家は後北条氏に仕えた地侍で、江戸時代は代々名主を勤めた旧家という。東日本最古の民家のひとつといわれるが、非公開である。 江戸末期(1830~67)の建物といわれていたが、このうちの、主屋は、木材の加工痕や構造などから、17世紀前半の建築と考えられている。 |
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道の景色 庚申塔 |
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消滅した中原街道が再び現れるのが、しばらく先の「大塚原」の交差点である。 そこまでは、広々とした団地の間を通り、、市営地下鉄の仲町台の近くのガード下から「向原」の信号で右折して300mほど先である。 大塚原交差点を左に入っていくと、少し先で両側に広大な農地が広がっている。看板によると、港北ニュータウン計画の一環としての「東方農業専用地区」に指定されているという。 幅の広い道路が続き、昔の街道の様子は全く感じられないが、所どころに保存されている石塔・石仏が街道の面影をのこしている。 |
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原庭バス停横の庚申塔 |
少し先左手にある馬頭観音 (後ろに風化の激しい古い塔が残されている) |
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関戸交差点から左へ 地蔵尊 享保16年(1731) |
ENEOS の手前、左側の庚申の地蔵尊 (台座に3猿) 元禄16年(1703) |
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ENEOS のすぐ先(滝ヶ谷戸バス停前)の庚申塔 東漸寺 入り口の石仏群と 庚申塔 |
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東漸寺 |
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都田西小前の信号から道幅が狭くなり、その先で、右に分岐していく。 200m弱で右への細道を進み石段をのぼると、東漸寺がある。 天平16年(744)行基が草庵を結び文殊菩薩を祀ったのが始まりという。 →境内から南西方向を望む。住職のでは以前は鶴見川まですっきりと見えたが・・・と。 |
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佐江戸の交差点を過ぎると、右に子育て地蔵尊がある |
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杉山神社 |
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交差点から200m程を右に入ると、杉山神社がある。 鳥居の先の参道わきに「震災復興の碑」が建つ。 関東大震災で被災した神社の再興の様子がある。 佐江戸の杉山神社の創建は不明、古くから佐江戸村の鎮守で、慶長18年(1613)に再興したという。 先ほど訪れた東漸寺が別当寺だった。 |
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地蔵尊 |
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街道を進むと広い産業道路につきあたる。地蔵尊前と名付けられた交差点で、右側の一段高くなった歩道上に地蔵が納められた祠が建っている。 祠の脇に地神塔が建ち、その後ろに「中原街道の拡張により移転する・・・」という石柱がある。 舟形地蔵尊で、右側は、延宝8年(庚申)(1680)??らしい。 |
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鶴見川 |
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鶴見川を落合橋で渡る。 バーミヤンの先の、中山駅北口方面に向かう道の角の駐車場の端に、石塔が2基たっている。風化が激しく、判別が難しい。 次回の街道歩きの為に、横浜線を渡って宮の下交差点まで進み、そこで終了とした。 |
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宮の下交差点からから中山駅までの途中の景色 |
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杉山神社 |
長泉寺入口の庚申塔 緑郵便局入口の祠・石仏 元禄6年(1693) |
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