中原街道  ②高輪台-多摩川

 散策ルート ①桜田門→高輪台 ②高輪台→多摩川 ③多摩川→中山  ④中山→桜ヶ丘
         ⑤桜ヶ丘→寒川  ⑥寒川→平塚



                    
地図→高輪台→荏原   荏原―多摩川


 夕方より、池上線御嶽山駅近くで食事会があったので、その機会に、以前から計画にあった中原街道を歩くことにした。
待ち合わせ時間に合わせ、品川駅から高輪の丘陵にのぼり、そこから中原街道の道筋を進むことにした。 高輪から桜田通りまでの中原街道のあとが消えているようなので、プリンスホテルの脇を通り、尾根沿いの道を越えて、地下鉄の高輪台駅付近に向かうことにした。


高輪台 相生坂
 地下鉄の高輪台駅付近の桜田通りは、整備が進んでおり、片側4車線の道路となり、南に緩やかに下っている。
この坂は、江戸時代から中原街道と御殿山方面からくる道が、この先の雉知神社・宝塔寺付近で合流していたので、相生坂と呼ばれていたという。当時は神社辺りまで、両側に町屋が並び宝塔寺の前は、門前町屋になっていたという。(品川区HP)

袖ヶ崎神社 本立寺
 少し先 左側に、小さな神社がある。
 平安時代 保延3年(1137)に京都から稲荷大明神を勧請したと伝えられる。もとは忍田稲荷と称していたが明治維新後、袖ヶ先神社となったという。

<本立寺>
 すぐ先、東に長く続く参道の奥に本立寺の本堂が見えるが、手前に 3体の地蔵が祀られている祠が建っている。
 元禄地蔵尊といってその由来の説明板がある。

雉子神社
 歩道近くまで迫った大きなビルの一階 奥に社殿がある。
文明年間(1469~86)の創建といわれ、大鳥明神山神社と称していた。 慶長年間(1596~1615)、3代家光が鷹狩に来た時に、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀な目出度いしるしであるとして、「雉子宮」と名付けられ、明治維新後雉子神社と改められた。
それまでは、隣接の宝塔寺が、神社の別当寺であった。

<目黒川>
 この先で五反田駅に突き当たるが、大崎よりの出口の方に向かい、ガードをくぐって目黒川を越えて行く。両岸は桜が満開であった。
 
TOCビルの脇で、桜田通りを斜めに横切り、南東に向かう。
ここから中原街道の自動車道は始まるが、以前の中原街道は、首都高のガード下をくぐり、ホテルルートイン五反田の右側の脇道を進む。
 昔の街道のなじみのある道幅が始まる。

子別れ地蔵
 100m程先の十字路右側に地蔵がある。 
 説明板には、享保10年(1727)に建てられた「子別れ地蔵」とよばれた地蔵菩薩で、ここは かって桐ケ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸を見送った場所であるといわれている。

供養塔群
  すぐ先左手には、地蔵菩薩他供養塔群がならんでいる。 
大きな地蔵菩薩は、江戸中期の造立で、1.9mほどである。(年代不明)
右の小さな地蔵菩薩は延享3年(1746)寒念仏供養の為のもの、左手には元文元年(1736)の馬頭観音がある。

供養塔群  戸越地蔵尊
 500m程進むと、左手に荏原保健センターの建物があり、「戸越地蔵尊」の祠と供養塔群が並んでいる。
戸越村、桐ヶ谷村の中原街道に沿ったところのもので、

 寛文6年(1666)の庚申塔
 延宝元年(1673)の庚申塔
 宝暦4年(1754)の庚申塔
 子育児増と呼ばれた大きな地蔵像(年代不明)
 寛文2年(1662)の髭題目塔  

などがある。  


    

平塚碑
 200m程先の平塚橋交差点で、今の中原街道と合流する。当分の間j交通量の多い自動車道の歩道を歩くことになる。
交差点から150m程先右手にバーミヤンがあり、その階段に小さく「平塚の碑」という札が掛っている。
その路地を入ると、左手の民家のわきに「平塚之碑」と刻まれた石碑が建っている。
説明板によると、「古くは、鎌倉に通じる古道で『平塚』と呼ばれる大きな塚があった。伝承によると、後3年の役(1083~87)に源義家を助けた弟の新羅三郎 義光は奥州からの帰途、この地で夜盗に襲われ多くの部下を失った。その霊を祀ったのが この塚の由来とされる。」

旗の台庚申供養塔
   昭和大病院前の交差点手前の右手に、庚申塔など祀った祠がある。 

 「寛文5年(1665)旧中延村の庚申講中が造立したもので、中央に「南無法蓮華経」の髭題目を彫り、その下に7名の氏名がある。
高さ92cmの板碑型安山岩で、日蓮宗の影響か、青面金剛・三猿・日月が彫られていない文字塔である。」

札場の跡
 細道を挟んだ向かい側に小さな自然石の石塔があり、「札場の跡」と刻まれている。
江戸時代高札場が掲示された場所で、札場とも言われた。

昭和大病院前交差点から、自動車道の中原街道からわかれて、200mまっすぐ南に進む。
つきあたりを右へいき、すぐに中原街道と合流する。
 
 合流後 自動車道を 1km以上進むが、途中右手の歩道わきに延命地蔵の祠が建っているのが、わずかに街道の面影を感じさせてくれる。

妙福寺
   池上線の洗足池駅の手前で、図書館脇の道を右へ入り、洗足池を、東側から一周する。
 右手に「勝海舟別邸跡」の説明板が立つ。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、勝海舟は西郷隆盛と会見するために官軍の本陣が置かれた池上本門寺に行った。その際通りかかった洗足池のこの場所を気に入り、維新後この地に別邸を建築した。

 左手の竹林の先に妙福寺がある。
 鎌倉時代創建の「御松庵」に、由来する寺である。
日蓮が身延山から池上に向かう途中、この大池で休憩、法衣を松にかけ、池の水で手足を洗った(洗足池の由来)。すると池から七面天女が現れたという。そのお堂を建てたのが「御松庵」といった。
 一方妙福寺は、関東大震災の後、浅草からここに移転し、御松庵と一緒になり、再建されたという。
 境内の池の近くに、「袈裟架けの松」いまは3代目がある。、

 境内には、道標を兼ねた馬頭観世音供養塔がある。
天保11年(1840)馬込村の人により建てられたもので、角柱の各面には 次が刻まれている。
 北 堀之内 碑文谷 道
 東 江戸中延
 南 池上 大師 道
 西 丸子 稲毛
中原街道と碑文谷-池上を結ぶ道との交差する地点にあったものという。

勝海舟の墓
 北に向かうと、公園があり、池を見下ろす高台に「勝海舟夫妻の墓」がある。
説明板 「文政6年(1823)江戸に生まれる。幕臣として万延元年(1860)威臨丸で渡米、明治元年(1868)の江戸開城に尽力。
高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。」

<西郷隆盛の留魂祠>
 勝海舟は、西南戦争の後、明治16年(1883)に西郷隆盛の菩提を弔うために留魂祠を建立した。
元は東京葛飾の菜妙寺境内にあったが、ここに移された、という。





 池の北側には 洗足池弁財天がある。
桜の盛りであった。
     

千束八幡神社
 西には、千束八幡神社がある。
貞観2年(860) 千束郷の総鎮守として宇佐八幡宮が勧請されたことに始まるという。
 平将門の乱を鎮圧するために向かった藤原忠方は、乱の平定後この地に残り、池上氏を名乗ったという。後3年の役の源義家はここで戦勝を祈願。
 源頼朝がこの地で宿営したところ、池に映る月のような姿のたくましい馬が現れたという伝承が残る。名馬 「池月」である。

 ←南方から見た洗足池

庚申供養塔
 街道に戻り、池の南西端から100m程進んだ右側の道に入る角に、庚申塚と大きく刻まれた石塔が建つ。
説明板によると、文化11年(1814)に、品川の御忌(ぎょき)(…法然上人の忌日)講という浄土宗を信仰する人々が建立したものという。
角柱型に文字を刻むという江戸後期の特色をもつ庚申供養塔である。
右面に「従是九品佛道」と刻まれ、世田谷区奥沢 浄真寺=九品仏への道標を兼ねていた。

 時間に余裕があるので、ここから南ある八幡神社に立ち寄ることにした。
少し先のNTTのビルの前の信号から南に行き石川台駅を過ぎた左側高台にある。


雪谷八幡神社
 創建は永禄年間(1557~69)といわれる。
北条氏康の家臣であった太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)が管内巡視の際、ここで法華経曼荼羅の古碑が発掘されたため、めでたいとして八幡大菩薩を祀ったと伝わる。
 社殿は権現造りで、他の比べ拝所を覆う軒唐破風が大きく迫り出しているという特徴がある。

<庚申供養塔群
 境内の奥に、庚申供養塔が並んでいる。雪ヶ谷村の各所に建っていたのが、ここに移されたといい、天和元年(1681)から 安政4年(1857)までの7基がある。

中には新田神社への道しるべを兼ねたものもある。




     天和元年(1681)の庚申塔→

石橋供養塔
 もとの街道の戻った先に呑川がある。その橋の手前に 石橋供養塔が建っている。
安永3年(1774)に雪ヶ谷村の浄心ら6名が願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔という。
正面に「南無法蓮華経」の題目があり、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。(説明板)

桜坂
 街道は大きく左にカーブして、南に向かう。
田園調布警察署前の交差点から、自動車道をはなれ、中原街道は南東に入っていく。急に静かな住宅街となる。
 
 さくら坂上交差点から先は、以前は急な坂道であったが車道は切通しとなった道を進み、歩行者は右上の歩道を進む。

 桜坂という名の通り、すばらしい満開を満喫しながら ゆっくりと下った。

六郷用水の跡
 沼部駅手前の東光院の南に用水が流れている。「六郷用水の跡」の石柱が建ち、遊歩道として整備されている。
 六郷用水は、慶長16年(1611)、多摩川の水を利用して、六郷領(大田区)の開発を目的に切削された用水施設であり、代官 小泉次太夫が指揮したことから次太夫掘とも言われる。多摩郡泉村(狛江市)で取水され、全長239kmにおよぶという。

丸子の渡し跡
 東急多摩川線をこえて多摩川の土手に上る。河川敷の公園入口に、「丸子の渡し跡」の説明板が立っている。
鎌倉時代の文書には「丸子荘」と記載されたり、文明18年(1486)の「廻国雑記」にも読まれており、中世以来の渡し場と推定される、という。


中原街道の散策は、ここで終了する。


近くをを散策しながら、本日のもう一つの目的地まで歩く。

<多摩川土手>

<多摩川土手ー下丸子方面>    

<御嶽神社>
 
                     <御嶽山駅ー歩>
  


散策日  2016年4月6日 品川駅-沼部駅/御嶽山駅