中原街道 ⑥寒川→平塚 散策ルート ①桜田門→高輪台 ②高輪台→多摩川 ③多摩川→中山 ④中山→桜ヶ丘 ⑤桜ヶ丘→寒川 ⑥寒川→平塚 地図→寒川-真土 真土-中原 中原-平塚・京方見附 |
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今までの神奈川県内では、県道45号線(自動車道の中原街道)は、景観寺からそのまま南に進んで茅ヶ崎まで続いている。 寒川から中原までの昔の中原街道に相当する自動車道はなく、所によって消滅している。 |
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神川橋 |
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まずは寒川駅から東に向かい、相模川にかかる神川橋をめざす。 大山、箱根、富士山が見えるはずであるが、残念ながら見えない。 |
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田村の渡し |
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橋を渡って土手を50mほど下流に向かって歩くと「田村の渡場跡」の大きな石碑がある。 ここは、中原街道とともに、藤沢・江ノ島から大山へ向かう大山道の為に使われた渡しであり、神川橋が開通する昭和28年(1953)まで、使われていた。 渡し場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か所が務めていたという。 |
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八坂神社 |
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橋を過ぎた北側に八坂神社がある。 由緒不明。境内は広い。 八坂神社入口交差点を、100mほど南に行き、三浦義村の館があったという、市営住宅を訪れる。 「三浦義村 田村ノ館跡」という大きな石碑が建っている。 |
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三浦義村 館跡 |
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住宅地の一画に 「三浦義村 田村ノ館跡」という大きな石碑が建っている。鎌倉時代の武将・三浦義村の居館跡といわれる。 建暦3年(1213)の和田合戦(一族の和田義盛を裏切った)の後に造られたものといわれている。 安貞2年(1228)には、将軍藤原頼経が訪れたことが『吾妻鏡』に記されている。 ・・・・義村の子、泰村は、宝治元年(1247)の宝治合戦で、北条氏に敗れ自害し、三浦氏の家督は、傍流の佐原盛時が継いだ。・・・・ |
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田村の辻・大山道標 |
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街道に戻り、「旧田村十字路交差点」となる。ここは、大山道が右へ進み、中原街道が左へ進む「田村の辻」と呼ばれる。 十字路手前右側に「十王堂跡」の碑がある。 天文6年(1537)小田原北条氏と川越上杉氏の相模川の合戦での戦死者を弔うために十王堂が建てられたという。 その隣に、大山道標がある。 「右 大山道」 「左加満*みち 江のしま ふじさわ」と刻まれている。 ここを右に行った辺りに 田村宿があったという。 |
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妙楽寺 |
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南に進み、馬返橋のバス停の角をまがると妙楽寺がある。 参道を進むと、特徴のある山門の先に新しい本堂が建つ。 足利基氏の開基、夢想国師の弟子義同周信が開山といわれる。 境内には、屋根改修記念碑として、大きな「本堂鬼瓦」がおかれている。 また、説明板に「妙楽寺には「木造閻魔王座像」が安置されており、像底の墨書から、文禄4年(1595)の制作と判明した」という。 |
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田村駒返橋跡 |
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もう一方の角には、「庚申供養塔」「田村駒返橋跡」石碑、道祖神や五輪塔のある祠が建つ。 石碑は天保13年(1842)とある。 説明板によると、「妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので、馬返橋の名が発生した」という。 |
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田村一里塚跡 |
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300mほど先で道は二手にわかれるが、中原街道は右に進む。 その角に、一里塚跡の石柱が建っている。 「南 中原道 北 奥州道 ゑの木需一里塚 跡」と刻まれている。 説明板によると、「ここは、平塚で最も古い道路で、平安時代の奥州道であったとも言われ・・・という。」 この石柱の建立年は不明であるが、右に行くのが中原街道で、なぜ石柱が左側の道に向いているのか、不思議である。 |
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四之宮交差点 |
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すぐに県道に合流し、数百m南に進み、四之宮西町交差点となる。 中原街道はここから西に向かうが、前鳥神社と渡し跡を見に行くため、東に向かう。 交差点南西角には小さな祠が建ち、普段あまり目にしない観音菩薩らしい石像が納められている。 享保13年(1728)とある。 細道を前鳥神社へ進んで行くと、左側の石塀の内側に、 祠が建てられ、石仏が新たに造られた台座にのっている。安永年(1776)秩父・坂東・西國四國供養塔と刻まれている。 東へ行くと前鳥神社境内の西側となる。 |
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前鳥(さきとり)神社 |
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奈良時代以前から始まるという歴史のある神社である。 延長5年(927)の『延喜式神名帳』では式内社とされ、10世紀末に大磯 国府本郷へ国衙が遷された後は 国司巡拝社の第4番に列し、相模國四之宮とされている。 吾妻鏡によると建久3年(1192)に頼朝が夫人政子の安産祈願し神馬奉納したと記されている。 江戸幕府成立後は、将軍家の祈願所として定められ、「四之宮大明神」として信仰されてきた。 |
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四之宮の渡し |
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神社の北側の道を相模川の堤防まで行くと 「四之宮の渡し」の説明板がある。 実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて、目久尻川合流地点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していたという。 土手から南の景色→ 湘南銀河大橋が見える |
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道の景色 |
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四之宮交差点までもどり、西に進む。 道標らしい石塔がある。 嘉永3年(1850)?とあり、「あつぎ」と刻まれているが他は読めない。 その次の角を左折した後、まっすぐ西に進むと「真土神社参道」と刻まれた石碑が建っている。 |
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真土神社 |
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立派な本殿である。 神社由緒によると、創立年代不詳。 祭神は 真土地域内の各地に鎮座する諏訪神社、白山神社・・・等々を明治年間に一社に合祀し、真土の総鎮守にした、という。 |
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真土地区の中原街道 |
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少し西に行くと、街道が整備されて、説明板や、真土大塚山で出土した神獣鏡の碑などが建っており、また、その先は街道の雰囲気をだしている。 |
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道の景色 | ||||||
ここから200m程の道は、昔ながらの街道の様子が残されている道筋である。 ここから先は、街道の跡は消滅しており、 ローソンの角を西に向かい、三菱樹脂の南側を進む。 その先の中原街道の道筋で、はっきりとわかるのは、一里塚跡のある「中原二丁目北」交差点の西である。 その一里塚跡に行く前に、まず日枝神社を訪れる。 県道61号線との交差点で、日枝神社の森が南にあるので、すぐわかる。 正面の細道を西に進んで神社への入口となる。 |
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日枝神社 | ||||||
由緒によると、「昔は山王社と言われ、文禄年間(1592~95)家康が中原御殿を建築する際、御殿の鬼門に当たる当社を、方除鎮護のため修営、寛永17年(1640)に社を現在地に遷座した」という。 境内の北側に、庚申供養塔がある。 明治20年(1887)東海道本線平塚駅が開設され、駅に通じる道が整備され、その記念に設置されたという。その道が消滅したためここに移されたという。 左面に「左 平塚ステーンショ道」と刻まれている。 鐘楼の後ろ側に、礎石が置かれている。 山王社(現日枝神社)の別当寺だった得願寺の礎石という。 得願寺は神仏分離令により廃寺となり、そこに明治6年(1873)に崇広館が開設され、中原小学校の原点となったという。 |
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シロミ塚 |
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日枝神社の鳥居の前の道を北に少し行くと小公園がある。 そこに「シロミ塚(城見塚)」の説明板が立っている。 この付近は小高い丘になっており、ここに中原御殿の造営に伴って、見張り番が置かれていたのではないかと考えられる」とある。 |
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中原上宿遺跡 |
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日枝神社の交差点までもどり、県道61号線を南に行く。 広い歩道が整備されており、歩道の両側に 住居や井戸跡などの説明が銅板に彫られている。 この辺りに弥生時代から平安時代にわたる18基の竪穴式住居跡が確認され、その紹介となっている。 |
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一里塚跡 |
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「中原二丁目北」交差点を右に入ると、左側の電柱の陰に、「中原街道一里塚跡」の石柱がある。 説明文によると、「中原街道は別名「御酢街道」とも呼ばれ、成瀬酢を江戸城まで運ぶこの場所の両側に一里塚があった」という。 道の向かい側のブロック塀の土台に 「御酢街道・一里塚跡」と刻まれた石が はめこまれている。 |
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大松寺 |
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一里塚の先の四つ角を左折し、県道61号線と並行して、南に向かう。 左手に大松寺がある。 「新編相模國風土記稿」では、開山は、江戸深川霊厳寺を開山した 松風霊厳というらしい。 境内には、文化13年(1816)の建立という「徳本六字名号塔」が建つ。 |
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高札場跡 |
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100m程先のT字路を右に曲がる。左手には交番がある。 その角に「中原宿高札場跡」の標柱がたっている。 ここは、御殿への大手道と中原街道が交わる位置であった。 |
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中原御殿跡碑 |
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東へ進むと中原小学校にぶつかる。 {相州中原御殿之碑」(平成元年建立)と、説明板がある。 「御殿の規模は、東西78間(141m)南北56間(101m)で、四方に堀をめぐらし、東を表としていた。 御殿は、慶長元年(1596)に造られ、寛永19年(1642)修復されるが、明暦3年(1657)には引き払われた、」という。 |
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善徳寺 |
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中原小学校の南西角を右折し、200mほど進んで、T字路を南に進む。 南に行く前に寄道、更に200m弱東に進むと、善徳寺がある。 この寺の山門は、中原御殿の裏門を移築したものと言い伝えられている。 T字路に戻る途中の北側地蔵堂に、舟地蔵が納められている。 T字路から南に向かい、旧東海道の平塚宿京方見附を目指す。 |
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道の景色 |
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数百m先で二叉路となり、大久保公園がある。その三角地帯に新しい道祖神のが建ち、ブロックの祠でしっかりとまもられている。 公園内には、諏訪部神社と水天宮が祀られている。 比較的新しそうである。 |
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. 更に進み、春日野中学校の東脇を通って200m程先の信号のある交差点(スリーエフがある)を100m程西に進み、左折すると大きなタブの木が存在感をだしている。 五霊社が祭られている小さな祠がある。 |
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京方見附跡 |
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もとに戻り南に進むと国道1号線にぶつかり、右折、その先で、東からくる旧東海道と合流する。 京方見附跡である。 9年前の旧東海道の散策で訪れたところだ。 西を見ると、 高麗山が懐かしい姿をみせている。 |
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この見附跡で、中原街道の散策は終了とする |
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折角なので、旧東海道の平塚宿の跡-問屋場跡などを見ながら、平塚駅にもどった。 時間があったので、何十年も前、小田原に住んでいたころ、七夕や他の機会に食べて深い思い出のあった「都まんじゅう」の店がまだあるかどうか平塚駅前を探した。 見付かった。 まだあった。 残念ながら定休日でシャッターが下りていたが、次回の平塚訪問が楽しみだ。 |
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