中原街道 ⑤深谷→寒川 散策ルート ①桜田門→高輪台 ②高輪台→多摩川 ③多摩川→中山 ④中山→深谷 ⑤深谷→寒川 ⑥寒川→平塚 地図→深谷-用田 用田-小谷 小谷-寒川 |
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長後駅から綾瀬市役所/海老名方面行のバスに乗り、大法寺で降りて、前回終了した深谷の早川交差点まで行く。 |
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御嶽(みたけ)神社 |
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次の交差点(吉岡)で、左に入るとすぐに鳥居と境内があり、奥に小さな社がある。 鳥居の脇の金網に囲まれて、不動明王像が石柱にのっている。 安政3年(1856)の造立で、石柱には不動明王と大きく刻まれている。 その手前には天保9年(1838)の文字の庚申塔があり、道標となっている。 「東 江戸道 南 ふしさハ道 西 大山道 北 ほしのや道」 と刻まれている。(説明板による) |
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道の景色 綾瀬浄水場から女坂へ |
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この先、工場群が続くが、左手の出光を過ぎた先の角に、大正11年(1922)道祖神が木の陰に隠れているように立っている。 右手に綾瀬浄水場がの敷地がつづく。 女坂のバス停があり、広いT字路となり、ここから藤沢市にはいる。 |
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サイホウ塚?と呼ばれる塔 |
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右角に、四隅をしっかりと鉄柱にガードされている「サイホウ塚」と呼ばれる石塔がある。 説明板もないが、大事にされているらしい。石塔は風化して読めないが、新しい卒塔婆には「南無妙法蓮華経為 佐要坊塚」と書かれている。 側面に「右 江戸」「左 一之宮」とどうにか読め、また天保xx九月もどうにか読める。 道標となっていたのだろう。 ここからは緩やかな下り坂で、のどかな風景がひろがる。 遠く丹沢の山も望まれる。 坂をくだり、新幹線が見えるあたりの右手に、中将姫の祠があるということで、15分ほど探し歩き、土地の人にも聞きながらようやく辿りついた。 |
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中将姫の祠 |
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坂を下りきったところ、右手の高い石垣を過ぎたその角を、右手に入る。 目印は、角にある赤い消火栓である。(新幹線のガードから100m程手前) 200mほど真東にすすみ、突き当たると、畑がひろがる。 右に少しいくと、左手に、「中将姫入口」という小さい標識がたっている。 畑の中をまっすぐ進み、こんもりとした森の中にある。 祠には姫の肖像画が掲げられている。 説明板によれば、 「中将姫は、奈良時代藤原豊成の娘として生まれ、母と死別、その美貌と才能から継母にいじめられ、この地に身を隠した。顔を隠した面が、寿昌寺(ここから100m南)に預けられたという。 17歳で中将法如として仏門に入り、その後宝亀2年(775)に往生した」という。 新幹線の高架をくぐり300m程行くと、寿昌寺入口の看板があり、あたらしい双体道祖神やばらばらになった小さな五輪塔がある。 そこから緩い上り坂となり、その先で広くできた自動車道を横切った先で用田交差点となる。 |
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用田の辻 と 道標 |
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ここは、中原街道と大山街道が交差しているところで、用田の辻といわれた。 渡った先右角に、背の高い不動明王が乗っている道標が立っている。 石柱には「右大山道」と刻まれているが、他は不明である。 安政4年(1775)の建立という。 |
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道の景色 |
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約2kmほど、南へまっすぐ進むが、途中には「中原」というバス停が存在している。 中原街道の案内地図をみると、途中で右に曲がるルートが書かれており、そこを歩く事にする。 目印としては、ENEOSのスタンドのサインが見えたら、その100mぐらい前を、右斜めに入るのが、昔の街道である。 右手には畑が広がり、古くからある道らしい。 右手奥には小動神社の森が見える。 |
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小動神社 |
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三叉路に突き当たって、寄り道となるが、東に向かい小動神社にいく。 創立など定かではないが、神奈川県神社庁のHPによると、 「神仏混淆の時代から鎮座していた念宗寺境内の村社御嶽神社と部落東部の稲荷神社を小動中央に位置する日吉(ひえ)神社に明治29年(1896)に合祀して小動神社と称した」という。 境内の石仏→ このうち、一番左は、不動明王(?)で、左面に天保10年(1839) 小動村とあり、右面は読み取れず。 その右は、正面に「地神宮」と刻まれ、弘化3年(1846)の建立で道標となっている。 右面:「xx 一之宮みち」 左面:「x方 用田八王子道」 と刻まれている。 三叉路に戻り、道なりに南西に進み、自動車道の中原街道に合流する。 |
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大蔵の長屋門 |
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南に少し進み大蔵のバス停を過ぎると、左側にひときわ目立つ長屋門が見えてくる。 露木家の長屋門である。 その前から、道は二つに分かれている。右側に行く細い道は、江戸時代初期のルートで、左手に進むのが江戸時代後期の道で、今の中原街道となっている。 右への道は、日産工機の工場が建って大きく迂回しているので、ここからは、左の道を進む。 そのさき、工場を過ぎてから両方の道が接近する所があるので、そのあたりの旧道の状況を見に行くこととする。 |
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十三塚 |
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小谷の交差点を過ぎると、左手に大きな塚がある。 中原街道沿いに大小15基ほど残っており、「十三塚」または「おこり塚」(盗掘したものが病にかかった)と呼ばれ、この塚が一番大きなものという。 この付近の豪族の墳墓または戦国の両上杉の戦死者の墳墓など、諸説あるが、発掘調査によると、室町時代頃に造られた供養塚と考えられるという。 <少し先> <右側>・・無名塚とある |
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旧道へ寄り道 |
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500mほど進み 日産工機の工場のはずれにある信号で右に曲がる。300m弱行くと、寒川小学校の南に出る。 そこで、日産工機を北に迂回して来た旧道にであい、左に向かう。 少し先で2叉路となり右にいく。 |
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中原街道説明板 |
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少し南にある安楽寺の墓地のはずれに、「中原街道」と書かれた説明板が立つ。 江戸時代地図のとともに、中原街道のルートや津久井往還、矢倉沢往還などの概要が描かれている。 あわせて、中原に酢を造る家がおり、家康に気に入れられ、荷駄馬で酢を運ばせたところから お酢街道の名がある、と紹介している。 すぐ先右側に地蔵尊がたっている。 |
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安楽寺 |
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ここ古い中原街道と、東側の新しい今の中原街道との中間あたりある安楽寺を訪れる。 養老2年(718)の開創と伝えられ、江戸時代には寒川だけでなく、海老名、藤沢におよぶ末寺18ヶ寺を支配していたという。 本尊の大日如来坐像は平安時代の作という。 本堂裏手に、大(応)神塚といわれる前方後円墳がある。全長約50m、後円部約30m、高さ約5mの帆立貝形という。、 今の中原街道に戻り、南へ進む。 寒川駅の東の踏切を渡り、景観寺前の交差点に行く。 |
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景観寺 |
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角にある景観寺は、天平宝字元年(757)に行基が創建したと伝えられる。 本堂前に享保12年(1727)建立の宝篋印塔がある。 説明板によると、景観寺の行者が全国の霊場を行脚して、願文や社寺の巡礼帳を塔内に納めたものという。 本尊の十一面観音菩薩立像は室町時代の作と推定されるという。 |
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一之宮八幡大神 |
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景観寺の角を右に曲がり200m程行くと、右側に「八幡大神」の額のある大きな鳥居の先に参道が続く。 元禄10年(1697)の創立と伝えられるが、寒川町観光協会のHPによると、梶原景時が一之宮に館を構え、その鬼門除の神社として創建されたという説もあるという。 |
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伝梶原氏一族郎党(七士)の墓 |
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鳥居から200m程先、左側の広場の入り口に「梶原伝七士の墓」という矢印があり、その奥に行くと、説明板と 石塔や多くの五輪塔が一か所に並んでいる。 説明板によると: 「正治2年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一之宮を出発、上洛の途中清見関(清水)で討死してしまったので、一之宮の留守居役であった家族、家臣らがその者達を弔ったという説や、景時父子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものとという説もある」 という。 |
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一宮館址 案内図 |
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少し先町内会館広場に「梶原景時と一宮館址」という大きな案内図がある。 梶原景時の頼朝との出会いから 最後まで、まとめられており、合わせて「一宮城址案内図(クリックすと拡大)がかかげられている。 |
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梶原景時館址 |
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<←天満宮> 100m程先に鳥居と「梶原景時館址」の石柱がたっている。 景時は一宮を所領としており、この地に館を構えていた。 さっきの案内図にある通り、その規模は広大でこの天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したと伝えられているという。 |
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車地蔵 |
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鳥居のすぐ先を右折して、北に進み車地蔵を訪れる。江戸初期の中原街道は、この道を南下してきたようだ。 200m程先の辻を右にはいると地蔵堂ある。 ←<正徳5年(1715)> <寛文5年(1665)→> 車地蔵は厨子の中で見えない |
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一之宮宿場-面影なし |
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車地蔵からの元の道に戻るルートが、江戸初期の中原街道であったが、梶原景時の館址付近から西は、江戸後期の街道と重なる。 西に向かって、一之宮小学校の脇を過ぎるが、そのあたりに「一之宮宿場」があったというが、今はその面影は全くない。 中原街道や、鎌倉藤沢方面から大山への参詣する人が、相模川の対岸の「田村の渡し」にとともに、大いに利用されたという。 |
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相模海軍工廠跡 |
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さらに西に進み、相模川の土手に行きつく前に、左側にある小公園に立ち寄る。 八角広場と言い。かっては西寒川駅があったという。かって、相模海軍工廠の引き込み線として使われた、といい、石碑がある。 そこから引き込み線の跡を北に向かうと元の中原街道にでる。 |
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一之宮不動堂 |
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100 mほど先右手に、一之宮不動堂がある。 河原不動尊といい、説明板によれば、 「本尊は、不動明王座像と二体の眷族(けんぞく-お供の仏像)からなる不動三尊像で、不動明王座像は江戸初期の作とみられる。(中略)・・・・・新編相模国風土記稿によると、村民持ち、大山道にあり、と記されている。」という。 <堂内の写真> 堂の前に不動明王の道標があり、 「右大山道 左 江戸道」 と大きく刻まれている。 天明6年(1786)とある。 |
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相模川 四之宮渡し方面 |
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不動堂の前を右にカーブしていくと、目久尻川を渡と、その先は相模川の岸に沿って建設された圏央道の高架が、北に続いている。 その高架下をくぐる場所があったので、堤防に出て、この南側にあったという「四之宮の渡し」の方面を見たが、様子はわからなかった。 ここから高架に沿って北に向かうと、「田村の渡し」のあった場所となる。 今の中原街道の神川橋の南側である。 |
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寒川神社へ 一之宮公園 |
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次回は、神川橋で相模川を渡るので、今回街道歩きはここまでとし、目久尻川の橋まで戻る。 そこから北に向かって一之宮公園を経由して寒川神社を参拝することとした。 海軍工廠への引き込み線や機関車の車輪が残されている広い公園である。 |
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寒川神社 |
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今の中原街道とJR相模線を越えるとすぐに、寒川神社参道で、一の鳥居が建つ。 <二の鳥居> <三の鳥居> <神門> 長い参道が続き、高さ約16mという県内最大級の二の鳥居、そして道路を横切った後、神池橋を渡り、三の鳥居から神門にいたる。 一の鳥居からおよそ1kmの距離である。 |
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寒川神社本殿 |
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寒川神社の祭神は、寒川比古命、寒川比女命で、寒川大明神とされる。 由緒によると、1600年前の雄略天皇の時代には、すでに関東における著名な神社として知られていた。 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に、名神大社(みょうじんたいしゃ)として名を連ね、相模国一之宮として崇敬を集めた。 また寒川神社は特に八方除けの守護神として知られている。 境内には 『方位盤 ・ 四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の彫塑 ・ 渾天儀 という八方除に因む三つの構造物の構成による記念碑』 が置かれている。 また、寛政8年(1796)に建立され、その後の地震で倒壊した鳥居が残されている。 |
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宮山駅へ |
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寒川神社参拝のあと、神社への最寄駅となっている宮山駅にいく。 その途中 九尻川の橋のたもとに地蔵堂がある。 説明板によると; 堂内に二体の子育て地蔵が安置されており、周りに、文政11年(1829)の道祖神、嘉永元年(1848)の庚申塔、道標を兼ねており、「右なんご 左あつ木・八王子」とある)、天保13年(1842)の馬頭観音像がある。 また、雷」町の歴史が書かれている。「・・・宮山は雷を含む七つの町内で構成されており、南湖より八王子へ向かう道が町内を抜けている・・・」 (南湖:今の茅ヶ崎の南西部) |
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宮山駅から帰途に就いた。 |
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