中原街道  ①桜田門-高輪台


散策ルート ①桜田門→高輪台 ②高輪台→多摩川 ③多摩川→中山  ④中山→桜ヶ丘
        ⑤桜ヶ丘→寒川  ⑥寒川→平塚


             
地図→桜田門-赤羽橋  赤羽橋-高輪台


 街道歩きをやってきて、以前から気に留めていたのが、神奈川県の東部をすすむ中原街道である。
先日、丸子の渡しの近くに飲み会に出かけることになり、その近くを通る中原街道を歩いて見ようと思い立ち、午後出発という時間の関係で品川から丸子の渡しまでを、先に歩いてしまった。

そこで 今回の桜田門からから高輪台までを 中原街道の第一回目として歩く。

  東京駅から、皇居前広場まで行き 二重橋をはるかに眺める広場を過ぎて、ようやく遠方に桜田門(桔梗門が見えた。  
            

この皇居外苑から見える門は、内桜田門で、桔梗門と呼ばれる。その奥に枡形があり、外苑の外側--南側にある凱旋濠と桜田濠の方に向いているのが、外桜田門である。

桜田門
 外苑から南にでて日比谷濠-凱旋濠に沿って西にいくと、桜田門全体が見えてくる。
右の櫓が桔梗門、南向きの高麗門がが外桜田門である。

 江戸と平塚、小田原方面への始点となっており、東海道の脇往還として、庶民や商人たちに多く利用された。
安政7年(1860)の桜田門外の変をおもいめぐらしながらのスタートである。


旧法務省本館
 桜田門を出たらしばらくは桜田通り(国道1号)を歩く。すぐ左に赤レンガのビルがある。 旧法務省本館で、明治28年(1895)ドイツ人建築家の設計で完成、戦災でレンガ壁のみ残り、その後 創建時代の外観に復元された。
 反対側には警視庁のビルなど、この辺りはクリックすると拡大 官庁街が並ぶ。 

虎の門
    
 虎の門交差点で、江戸城 外堀の石垣を見に行く。
地下鉄虎の門駅の構内に、復元されて残されている。
寛永13年(1636)に築かれた石垣で、構築大名を示す刻印もみられる。





 駅出口を出た所(8番)に、虎のブロンズ像がある。
小さくて探すのが大変だ。 
金刀比羅宮
 右側ビルの脇に鳥居があり、その奥に ビル群に囲まれた広い境内 を持つ金刀比羅宮がある。
 丸亀藩主京極家の江戸屋敷跡であった。
 万治3年(1660)に三田の屋敷に讃岐の金刀比羅大神を勧請し、その後延宝7年(1679)に屋敷とともに、ここに移転してきた。説明板によると、こんぴら人気が高まった文化年間には、京極家は毎月10日にかぎり一般の参詣を許し、大変にぎわったという。

 拝殿の正面にある青銅製の鳥居は文政4年(1821)に奉納された。


愛宕神社
 虎の門3丁目の交差点を過ぎて、次の交差点を左に入り、愛宕神社に寄る。トンネルを過ぎて、左折すると、神社への石段がある。
 男坂と呼ばれる傾斜角40度、86段の石段で、寛永11年(1634)に丸亀藩の曲垣平九郎が馬で駆け上がったことで有名で、出世の階段とよばれる。

 愛宕神社は、慶長8年(1603)に家康の命により防火の神様として祀られたのが始まりという。
愛宕山は標高26mで、以前は見晴らしがよい場所であったというが、今はビルのみである。
 神社の南東側から階段を下りるとトンネルの前に出る。

天徳寺
 街道に戻る途中の左に天徳寺がある。
 境内に「弥陀種子板碑」の説明板が立っている。探したが見つからなかった。高さ68cm、幅29cm 緑泥片岩(秩父青石)で、永仁6年(1298)と刻まれているという。
 本堂は八角形で、変わった形の鐘楼があり、梵鐘は寛永12年(1635)の鋳造という。


光明寺
クリックすると拡大 地下鉄神谷町駅の左側にある光明寺に立ち寄る。
「明和の大火死者供養墓」がある。
明和3年(1772)目黒行人坂の大円寺から出火した火事は浅草・千住まで達したといい、死者14,700人行方不明者4,000人を超えたという。光明寺の住職が山へ避難した人の供養の為に建立したという。
 
 その隣に 板碑が残っている。高さ1m、幅30cmで、秩父青石で、貞和4年(1348)と刻まれている。
年号の「貞和4年}の「四」が左右に「二・二」と表記されているが、これは中世文書によく使えわれているという。・・・初めて見た。(右写真クリックすると拡大)

 街道の反対側にある八幡神社に行くために、歩道橋をわたる。そこから南側を見た今の景色。
(右の緑が八幡神社)
 

八幡神社
 石段の奥に西久保八幡神社がある。
神社のHPによると、「寛弘年間(1004~12)に源頼信が創建、その後現在地に移され、2代秀忠の正室「お江」は秀忠の関が原での戦勝を祈願、その後に寛永11年(1634)、社殿が造営されたという。

 境内奥には庚申社と書かれた祠に覆われた庚申塔がある。 一部欠けているが、石塔の下部に丸みをおびた三猿が彫られている。
 
 社殿脇に、「西久保八幡貝塚」の説明板が立っている。  社殿の裏側に、貝塚が形成されていたことが昭和の初めに知られるようになったという。縄文時代後期の土器が出土したという。

土器坂
先の板倉交差点から先は「土器(かわらけ)坂」という緩い下り坂となる。
この一帯に土器師が多く住んでいたためにその名が付いたという。
 右手に熊野神社がある。
創建年代は不詳、養老年間(717~24)に勧請されたのが始まりで、文明年間(1469~87)に太田道灌により再建され、江戸期には寛永寺の末寺の正宮寺が別当寺であったという。






 桜田通りを横断し、東京タワーの下を通り、増上寺に寄り道する。
 以前増上寺を訪れたのは、鎌倉古道『下の道』を歩いた2007年で、その時見れなかった徳川家の墓所を訪れる。

増上寺
 増上寺HPによると、明徳4年(1393)に武蔵国豊島郷貝塚・・今の平河町から麹町・・に開かれ、浄土宗の東国の要として発展した。その後慶長3年(1598)に現在地に移転、江戸時代には徳川家の菩提寺として興隆した。
 浄土宗 関東十八檀林(だんりん)の筆頭をつとめ 寺領は25万坪に及んだという。

 北西側からの入口からはいると、静かな築地塀が続く。趣のある所だ。

徳川将軍墓所
 墓所は大殿(本殿)の左右に建ち並ぶ壮大なものであったが、戦災で大半が焼失した。今の墓所の門は、「鋳抜門」といわれ、戦、6代将軍家宣の宝塔前の「中門」であったものが移築されたという。
左右青銅製で、5ヶずつの葵紋があり、両脇には上り龍・下り龍が鋳抜かれている。
 墓所には2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、秀忠の正室・・お江、14代正室・・和宮 など多くが埋葬されている。

<秀忠>          <家茂>        <和宮>
      

赤羽接遇所跡
 桜田通りの東麻布1丁目交差点まで戻り、西に入って行くと板倉公園がある。
東側の植え込みの外側に、地名の由来とともに、小さな説明板が立っている。
 安政6年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人の為の宿舎兼応接所である。黒の表門を持ち、2棟の平屋家屋であり、幕末での外国人応接の舞台となったという。

 その先 小さな川を渡った先に、赤羽橋とある橋の親柱(?)が建っている。
(芝方面の景色)

 ここから先は以前歩いた鎌倉「下の道」と同じ道筋である。
 その時とは逆方向であり、江戸時代という意識があるので、見るところも変わってきた。

春日神社
 しばらく歩くと慶応義塾東門の手前に、大きな鳥居があり石段の先には朱色の映える春日神社がある。 
 天徳2年(958)武蔵国国司 藤原正房が任国の際、春日大社の神霊を目黒区三田に勧請、天文年間(1533~55)にこの地に遷座したといわれる。
江戸の中では、春日神社はこの一か所という。

延命地蔵尊
 次の三田二丁目交差点を、右(南西)に進んで五反田方面に向かうのが今の国道1号線(桜田通り)であるが、中原街道は直進し、次の角を左に入って三田の尾根を南西に進んで行く。
 角を左に入る所に、延命地蔵尊がある。
古くからの街道の名残であろう。

聖坂

 街道は緩やかな坂道を上って行く。
聖坂の標柱が立つ。名前の由来は、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開いた古代・中世の通行路で、宿所もあったためという。 

鎌塚稲荷
途中右側に鳥居と小さな社がある。
亀塚稲荷神社という。元はこの先の亀塚の所にあり、ここに移ってきたという。
 社の前に弥陀種子板碑が5基残されている。秩父青石の板碑で、文永3年(1266)、正和2年(1313)、延文6年(1361)が刻まれており、文永3年のものは港区最古のものという。

←右側の板碑:文永3年

済海寺
 左側に広い境内を持つ済『海寺がある。
ここには安政5年(1858)に締結された日仏修好通商条約により、翌 6年にフランス大使館が設置されたという。
明治3年(1870)まで使われた。

亀塚と亀山碑

 左手の公園内に「亀塚」がある。説明板によると発掘調査により古墳時代以降に築造された塚ということが明らかになったという。
 塚の頂上に巾2.2mの、「亀山碑」がある。
この地を下屋敷としていた上野国 沼田城主 土岐頼煕(よりおき)によって寛延3年(1750)建てられたもので、この地が更級日記の竹芝寺伝説の故地であることや、亀石の伝説に興味を持って建立したという。


<幽霊坂>
 100m程先で西に下る坂があり、幽霊坂という標柱がたつ。
坂の両側に寺院が並びものさびしい坂であることから付いたという。

実相寺

 下ってすぐ右側に入ると実相寺がある。本堂脇に「会津松平家墓所」がある。
 寛永12年(1635)に参勤交代制の確立により諸国大名の敷地の確保から八丁堀にあった寺院二十余ヵ寺がまとまって移転させられたもので、会津江戸での菩提所になっている。 
    →聖光院(お万の方)の墓

お化粧地蔵
 更に少し下った左側に玉凰寺があり、その山門脇の地蔵堂に「お化粧地蔵」がある。
八丁堀で放置されていた地蔵を住職が修復、泥まみれになっていたのを白粉を塗ったところ、和尚の顔面の痣が消えたので、病気と同じところを塗って祈願することが大いに流行ったという。

薬王寺 朝顔の井戸
  街道に戻り、100m程先の小公園の三叉路を右へ寄り道する。
薬王寺の門から奥まった所に本堂があり、その裏手の墓地の隅に 「朝顔の井戸」がある。
加賀千代女の 『朝顔に云々の句 由来の井戸なり』と刻まれた石碑がある。

魚籃寺
 墓地の隅からそのまま西側の道路にでると、その坂は魚籃坂である。
坂をくだると魚籃寺がある。
 山門の割には質素な本堂があり、となりに 塩地蔵が祀られている

伊皿子坂
 魚籃坂を上ってもと来た街道に戻る。伊皿子交差点で、街道に交わり、その先は伊皿子坂と呼ばれ、泉岳寺につながる。
三田の台地の尾根を進んできた街道はさらに西に進む。
 右手に「旧高松宮邸の敷地があり、続いて高層の都営高輪アパートがあり、途中の建物の前に「大石良雄等自刃ノ跡」という石碑がある。

大石内蔵助忠烈の碑

 その脇を奥に入っていくと、大きな塀の前に「大石良雄他十六人忠烈の跡」の説明板がある。この地は、肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部で、元禄16年(1703)2月4日 大石内蔵助ら17名が切腹した場所である。

承教寺
 左手にいろいろな説明板がたち、その奥に広い境内と山門と本堂を持つ承教寺がある。
 説明板の「二本榎の碑」によると、品川宿の手前の右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいたが、この寺にある二本の榎が目標になっており、そのまま地名となったという。





 本堂前には「英一蝶(はなぶさいっちょう)の墓」がある。江戸中期の絵師。、

光福寺 幽霊地蔵
 この先に、中原街道のブログなどで良く出てくる「る幽霊地蔵」を見に行く。
高輪警察署前の交差点から200m程先左手に余り目立たない山門の「光福寺」の左手に、その地蔵尊の祠がある。


 
街道消滅
 尾根道はさらに南に続いているが、このあたりから、西に向かって、今の桜田通りの道筋に進んで行ったようであるが、街道の今の道は消滅している。
 そこで、この先の高輪三丁目の交差点を右折し、中原街道(今の桜田通り)に合流する。

 以前 散策した鎌倉「下の道」は、さらにこのまま尾根道沿いにすすんで、御殿山付近を通る。


今回は ここまでとして、品川駅に向かう。




散策日  2016年5月18日 東京駅-品川駅