中原街道 ④中山→深谷 散策ルート ①桜田門→高輪台 ②高輪台→多摩川 ③多摩川→中山 ④中山→深谷 ⑤深谷→寒川 ⑥寒川→平塚 地図→中山-都岡町 都岡町-瀬谷 瀬谷-深谷 深谷-用田 |
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宮の下交差点から南へ |
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中山駅から宮の下交差点に行き、4回目の中原街道をスタート。 広く整備された自動車道がこの先ずっと続くが、所どころで、旧道の細い道を通る。 その初めての道が、交差点からすぐを左斜めに入る道である。 |
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石塔・石仏 |
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入ってすぐに、目立たないが4基の石仏が並んでいる。 慶応2年(1866)の道祖神はきれいにのこっているが、他は風化している。 右の二つは小さな地蔵菩薩像で 右から2番目は、一部欠けているが寛保元年(1741)辛酉と読める。 |
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長坂 |
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寺山町の交差点から先は、長い緩や かな坂が始まる。 長坂谷公園の手前で東側を見ると、向こう側の町並みとの間に緩やかな谷間が広がっている。 向こう側は、以前、鎌倉下の道で歩いた道筋である。 しばらくは、緩やかな上り、下りの坂がずっと先にわたっても続く街道である。 |
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旧道の名残 |
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動物園入口の信号の先で、左に入る坂道がある。 急な坂道の先に尾根伝いの道にぶつかるが、そこは水道道と呼ばれ、遊歩道となっている。 この尾根道は以前歩いたことがあり、「鎌倉中の道」の鶴ヶ峰から「上の道」の長津田方面へとを繋いでいる連絡路であった。 、連絡路は動物園の為 消滅している。 すぐ中原街道にでる。 今度は緩やかな坂をくだる。 |
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庚申塔 指さし道標 |
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右側に 屋根をつけられた庚申塔が立つ。 『指さし』の浮彫のある道標を兼ねており、、比較的保存状態がよい。 平成2年発行横浜市教育委員会の「横浜の古道」資料編を調べたら、、この南にある「都岡小学校地内」とあったので、その後 この場所に移転されてきたようだ。 正面には、阿弥陀像が浮き彫りされ、その下に西國 坂東 秩父 と刻まれ、三猿が彫られている。 右面は、「かな川ミち ゆひさし」 左面は、「江戸ミち 江戸ミちゆひさ志」 と刻まれている。 天明4年(1784)の建立である。 |
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日蓮供養塔 と 絹の道 |
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すぐ先に、「天拝 日蓮大菩薩 星下り蓮正寺」と刻まれた供養塔が建つ。 文政9年(1826)建立。 すぐ先には石塀の前に「都築郡役所創設の跡」の石柱があり、 その角を横切っているのが「八王子往還」(通称 絹の道と呼ばれる)である。 |
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御殿橋 |
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国道16号線を渡り、都岡小をすぎて、帷子川をわたる。 橋の名が「御殿橋」となっており、それは、家康が江戸入城の時にこの橋を渡ったこと、また中原御殿に向かう際にこの先の下川井御殿(今はない)を休息場所にしていたことなどにより、付けられた名前という。 緩い坂を上って行くと、コンクリート製の祠があり、宝永4年(1707)の地蔵尊が納められている。三猿の土台に乗っている。 |
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三嶋神社 |
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次の信号の左手の奥まった所に三嶋神社がある。 創祀は明確ではないが、旧川井村が川井・上川井・下川井の各村に分かれた江戸江戸時代寛永年間(1624~44)以前には創建されていたとされ、祭神の大山衹命は、伊豆国三嶋大社より勧請されたという。 緩やかな下りとなり、保土ヶ谷バイパス・下川井インターの高架をくぐると、その向こうには台地が広がる。 |
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旧道への入り口 |
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バイパスからの出口の道を通り越すと、左側は高い石垣となっているが、先に進まず、すぐに、左へ上る石段があり、そこをのぼると、旧道に続くようになっている。 その先は尾根を進む道となる。 |
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一里塚跡 |
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右斜め後ろから來る自動車道を横切ると、倉庫などの建物がつづき、そのはずれの電柱に隠れるように 「一里塚跡」の標柱が立っている。 塚の大きさは、直径3m、高さ1mといい、中山の宮の下より一里、大和市の桜株(桜ヶ丘駅近く)より一里 という。 反対側は、眼下に先ほど超えた自動車道が見え、東側が見晴しの良い展望台となっている。 |
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岩船地蔵尊 |
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すぐ横に 享保9年(1724)建立の岩船地蔵尊がある。 ここから先数百mは、右側に「追分市民の森」、左側が住宅地が広がる静かな道が続く。 交通量の激しい中原街道に合流、相鉄線の地下道をくぐる。 |
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二ツ上橋 |
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二ツ上橋交差点を渡った左手角に、自然石の歌碑、石塔 と石碑が並んでいる。 二ツ橋地名由来の碑には、家康と道光親王のそれぞれの歌が刻まれているが、その両方に「二ツ橋」が詠われているという。 まん中にある塔には、「石橋供養塔」と刻むれており、 安政3年(1856)の建立である。 少し離れて、比較的新しい道標が立ち、「中原街道、右八王子往来、左 神奈川往来」とある。 |
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梛(なぎ)の木の碑 |
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数百m先の下り坂の途中の生垣の中に、大きな石碑が建っている。 寛文年間(1661~73) この地を治めていた島津久利がこの地に薩摩から取り寄せた梛の木を植えた。弘化元年(1844) 江戸城の大火の折、梛の木を伐採して中原街道を急送し、復興に寄与した、とつたえられる。 数百m先の下瀬谷二丁目交差点先左側の石垣の上に、石塔が並んでいる。 天保10年(1839)の地神塔や、文政5年(1822)の道祖神などである。風化が進んでいる。 斜め向かいに宗川寺がある。 |
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宗川寺 |
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石川宗川が開基、日賢商人が寛永2年(1625)に開山したという。 山門を入ると、夫婦銀杏と呼ばれ、樹齢220年といわれる二本の銀杏がある。 境内東側に瀬谷八福神のひとつ福禄寿が祀られている堂がある。 山門の前には、「中原街道瀬谷問屋場跡」の掲示板がある。 「天正6年(1578) 小田原北条氏の関東経営の駅路として、瀬谷に問屋場が設けられ、のち江戸開府により石川彌次右衛門重久が問屋場の運営を幕府から託され、270年にわたって街道筋の人馬諸貨物の運送、継立の役割を果たした。これより東80mがそのあと。」 という。 宗川寺の西側を南北に通っている細道は、鎌倉街道「上の道」である。 |
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道の景色 |
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境川 |
新道大橋 大坂 |
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順礼街道 |
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大坂を過ぎて100m程の信号を南に行き、佐馬神社を訪れる。 その手前の消防団の建物のフェンスの内に「順礼街道」の石柱がたっている。 『巡礼者がめぐった坂東三十三札所のうち、第八番星谷寺(座間市)と第十四番弘明寺(横浜市) または 第四番長谷寺(鎌倉市)とを結ぶ江戸時代の古道』 という。 |
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佐馬神社 |
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順礼街道の東側一帯が佐馬神社である。 佐馬神社または鯖神社は、境川流域に12社あり、祭神は源義朝を祀っているところが多く、語源は義朝が左馬頭(さまのかみ)だったからという説もある。 この上飯田の佐馬神社は、神社のHPによると、「 桃園天皇の宝暦14年(1764)、徳川9代将軍家重の代に当村の名主 渡辺兵左衛門・小川清右門がこの地に建立したと伝えられる」という。 境内には鐘楼がある。 境川の東側を通っている鎌倉「上の道」を歩いた時も佐馬神社があり、その多くが鐘楼を持っている。 |
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庚申塔・道標群 |
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神社の前には、多くの庚申塔や石仏が並べられている。 |
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この中で、特に目立ったもの、興味深そうなものを掲げる。 |
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青面金剛庚申塔 文政6年(182 相州高座郡上和田村 |
地神供養塔(正面に像) 青面金剛庚申塔(道標兼ねる) 寛政3年(1791) 安永8年(1779) 相州上和田村 右面:右 ほしのや道 |
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地蔵尊立像 延宝二年(1674) |
(猿)田彦大神 ((猿)部分かけている) 道標兼ねる 享保19年(1734) 推定 左面:西 あつぎ 東 ほしのや 道 |
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庚申塔道標 |
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もとの道に戻り、桜ヶ丘に向かう。 道路拡幅の工事中である。 桜ヶ丘の交差点を右折、次の信号を左折、そして右折すると金毘羅神社がある。 境内西隅の建物の陰に、青面金剛庚申塔があり、道標をかねている。 宝永7年(1710)建立で、右面に 「八王子ミち」 左面に 「大山ミち」ときざまれている。 元は、桜ヶ丘の交差点に立っていたというが、保存状態は非常に良い。 街道に戻り、桜ヶ丘駅の南の踏切を越すと、すぐ左に「桜株十一面観世音菩薩」がある。 昭和11年(1936)に起きた踏切事故での冥福を祈って設立された。 |
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厚木基地 |
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引地側を過ぎて、厚木基地により江戸期の中原街道は分断されている。 基地の南端とスポーツ公園の間を進む。 綾瀬大橋入口の交差点で左に曲がっていくが、そこには春日新道の標識がたっている。 |
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石塔 |
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深谷原の信号を過ぎると左側に石塔石仏が3基ならんでいる。 左は、地蔵の胴部分が風化しているが、安政4年(1857)の建立、まん中の塔は、慶応3年(1867)の堅牢大地神、右は、文化11年(1814)文字庚申塔で道標となっている。 左面:「南大山道」 右面:「西阿つぎ 江戸 道」とある。 |
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道の景色 |
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鶴ヶ岡 バス停付近 |
旧家 大法寺 |
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石塔群 |
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大法寺の交差点から100m程先の角に、石塔がまとめられているスペースがある。 文政2年(1819)の堅牢大地神、万延元年(1748)の庚申塔、左の写真は、宝暦9年(1759)の五輪塔である。 この形態の五輪塔は 初めて見た。 |
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次の早川交差点で、今回の歩きは終了とした。 ここから北約1kmに綾瀬市役所がある。 いままであまりなじみのなかった綾瀬市なので、市役所まで歩き、そこからバスで長後駅に帰った。 |
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