八王子街道(絹の道) ②南町田-多摩境 散策ルート ①芝生→南町田 ②南町田→多摩境 ③多摩境→大塚山(+滝山城) ④片倉→八王子 地図→南町田-金森 金森-木曽 木曽-常盤 常盤-武蔵境 |
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南町田付近までは、八王子街道(絹の道)は、国道16号線として整備されているが、この先からの自動車道は町田街道となっている。 |
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南町田駅付近 |
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前回の終了地点は、南口であった。町並みはすっかり整備されているが、今回下りた北口は、駅前広場からすぐ横を走る保土ヶ谷バイパスに続く国道も含め、整備の真っ最中である。 約200mほど東へ向かい、前回の続きー今の町田街道ーにでて、北に向かう。 400mほど先の小川の信号で。自動車道から離れ、静かな住宅街の道をすすむ。 数百mで自動車道(町田街道)に合流後、1km以上進む。 横浜線を越える陸橋の先で、三塚(さづか)交差点となるが、左に入り、すぐに斜め右に細い道んでいくのが八王子街道である。 ここで、次の信号を左折して、横浜線南にある町田天満宮に立ち寄る。 |
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町田天満宮 |
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横浜線を渡るとすぐ大きな鳥居と広い境内が広がる。 天満宮の由来は、HPによると、「記録がなく推測となるが 天正10年(1582)に原町田村が本町田村(菅原神社があった)と分村したが、その前に原町田の地に、祭神を替えないで祀るとい事が進められた 天正年中の1580年前後が始まりであろう」 という。 |
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勝楽寺 |
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もとの道に戻り、次の交差点を右に入って、勝楽寺にいく。 天正元年(1573)、八王子の極楽寺の末寺として創建されたという。 山門をはいると、境内の建物は皆新しく、奥にある高層の納骨塔が存在感を示している。 本堂前の宝篋印塔も新しそう。 寿老人がある→ |
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「二・六の市」の碑 |
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交差点までもどり、北東に進むが、そこから先は商店街としてきれいに整備されている。商工会議所の前に「二・六の市」の碑が立っている。 原町田村が独立した後、それまで行なわれていた市をわけて、「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設された。 その後、本町田の市は衰え、原町田の方は「二・六の市」として盛んになったという。 福禄寿がある→ |
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浄運寺 |
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ビルの間の細い参道の奥に浄運寺の本堂がある。 天正5年(1577)日蓮宗の日明の開創という。 境内には、「武藤塚」と刻まれ石碑が建つ。 これは、町田の武藤家が名主の時、野盗に襲われたが、全員倒し、その供養の為に建てられた野盗塚がここに移されたきたという。 隣には、神道無念流の剣士 長岡織部の墓がある。 . 毘沙門天→ |
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町田駅前 道標 |
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その先は、小田急の町田駅である。 駅前広場の道寄りに 新しく建てられた「絹之道」の石柱と説明板がある。 横浜開港後の絹の道-原町田中央通りの様子が記されている。 「新編武蔵風土記稿には「神奈川道」と記され・・・二・六の市を主軸として、日本のシルクロードになった」と述べている。 |
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道の景色 |
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広い自動車道が続き、両側は商業地域が広がる。 北東にまっすぐに進む。 以前 町田駅から、鎌倉 「山の道」を歩いたが、それは町田駅西口から、300m程南をこの道と並行して北東に向かった道である。 さらに、木曽中原の交差点を過ぎ、さらに、忠生三小学校を過ぎて少し進んだところで、左斜めに入っていく。 ようやく自動車道から離れて静かな道歩きとなる。 地蔵の祠もある。 |
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覚円坊 |
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少し先で広い自動車道を横切り 間もなく変則四辻となる。 その手前左側に、フェンスで囲われた広い境内がある。 左手の奥に、観音堂が建っている。 「吉祥山 覺圓坊」といい、由緒によると、もと近江国園城寺(三井寺)の寺のひとつであったが、ここ多摩郡木曽が義仲の縁地のため、観応2年(1351)ここに移り、以後 木曽の観音様として親しまれてきた」 という。 フェンス内に庚申塔が1基祀られている。 左側面に 元禄9年丙子(1696)とあるのが読みとれる。 |
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木曽一里塚 |
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寄り道してその角を左へ進んで行くと、木曽一里塚が残っている。 八王子街道と交差しているこの道は 「元和3年(1617)徳川家康の遺櫃が久能山から平塚・座間・木曽・小野時・府中を通って東照宮に移された時の道で、後に「御尊櫃(ごそんぴつ)御成道とよばれた。 その後大山講が盛んになると、大山道ととして利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた」 という。 塚の上には、武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。 |
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地蔵祠 |
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変則四辻に戻ると、真新しい地蔵がたっている。 延命見張り地蔵菩薩といい、初代地蔵尊は伝重寺に祀られているとの説明板がある。 一里塚の反対側に少し進んだ行き当たりに伝重寺があるので立ち寄った。 享保4年(1719)建立という。 |
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福昌寺 |
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変則四辻まで戻り、北に向かう。 300m程すすむと、左手に福昌寺がある。永禄11年(1568)の創建といい、家康の遺櫃を日光へ移送の際には休息所となったという。 残念ながらっ山門内には入れない。 |
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秋葉神社 延命地蔵尊 |
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右に秋葉神社がある。由緒の石碑や地神塔が建っている。 貞享2年(1865)に秋葉山本宮から火伏の神として勧請したという。。 その隣に地蔵堂がある。延命地蔵尊が祀られており、石碑によるとこの地蔵は上(かみ)の地蔵ととしてしたしまれ、延宝元年(1673)の銘がある、という。 この先から道は大きく右へカーズしていき、上宿の信号で町田街道に合流する。 |
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道の景色 |
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北東にすすんで、桜美林大学の脇を通る。 以前散策した 鎌倉「山の道」は、この南200m程の所を北東に進み、大学の南に位置する箭幹(やがら)八幡宮の境内を通った。 町田街道は緩やかに右にカーブしていくが 常盤駐在所のすぐ先で、八王子街道は左に分岐している。 そこには、交通安全地蔵と刻まれた昭和の地蔵がたっている。細道をすすんだあと、町田街道に合流する。(以前の「山の道」もここで合流した。) |
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合流後すぐ右に入り、ほんの少しで、中常盤の信号でまた町田街道を斜めに横切る。 南側を並行して進み、常盤の信号を過ぎた所で街道に合流する。 この先も街道と並行して進む道がある。馬場の交差点から先はしばらくの街道の歩道を歩くことになる。 |
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中村不動尊 |
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中村不動の信号を、右にはいり、山に向かう。突当りに石段が続き、その先に小さなお堂が建っている。 東京都・首都圏のの寺社を紹介している”猫のあしあと”というHPによると、本山修験宗寺院の本覺院で、中村不動尊として知られている本堂であるという。 身辺武蔵風土記講に記載され、江戸時代には建立されていたという。本堂は明治時代に建てられたという。 |
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中村地蔵尊 |
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中村不動の信号の所に戻り、300m程先の南側に多くの地蔵が並ぶ祠が建っている。 中に宝暦6年(1756)建立の中村地蔵尊があり、そのまわりに明和、安永、天明などの銘のある地蔵が合計13体ある。 石碑に記された由来によると、それぞれの建立された時代は、大飢饉、洪水、悪疫等が続発しており、人々の平穏・安寧への願いこめられている。 宝暦6年の地蔵坐像 その脇には庚申塔や道祖神、馬頭観音などが多く集められている。 |
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道の景色-道祖神 |
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すぐ先で、街道を横断し、脇を並行する細道に入る。車の通行もなく、古道の趣のする気持ち良い道である。 200mほどさき右手に、道祖神らしい石仏が2基立っている。風化して読み取れない。 |
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常夜燈、石仏群 |
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少し先は、まさに古道らしい四辻である。 左角にには、常夜燈と馬頭観音が、向かい側には供養塔と石仏が建っている。常夜燈(中央にある石碑には、燈献と記されている)は、慶応元年(1865)の建立である。 |
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御嶽神社 |
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間もなく町田街道に合流する。 右側の高台に、御嶽神社があるので、立ち寄る。 立派な鳥居の先に石段、その上の境内は以外に広い。 町田市史によると、、創建は不詳。宝暦年間((1751~64)の棟札が残るという。 神社から街道へ戻る途中、神社側をふりかえると、長い板塀に囲まれた広い敷地が広がっていある。 この地の古い名家だろうか。 |
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道の景色 |
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先の右手の高台に福正寺の大きな本堂が見え、その前に保育園のあるところで、街道からわかれ、右に進んで行く。 京王線相模原線の高架の見える角に、「指定村社 札次神社」と刻まれた石柱がたっている。 多摩境駅は、すぐ右なので、街道歩きは、ここまでとし、札次神社に寄ってから駅に向かう。 |
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札次神社 |
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由緒によると、創建年代不詳だが、常陸国一之宮鹿島神宮を勧請したもの。、寛文6年(1666)の検地の記録や 宝暦6年(1756)社殿再建 の記録があるという。 | |||||||
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