<東京下町の散策と食事を楽しむ>


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日本橋から茅場町へ散策     焼き鳥 「鳥徳」 
       日本橋川・・・常磐橋から鎧橋へ・・・       2018年2月23日
                          

                     
地図→東京駅-茅場町


 今回は、茅場町のおいしい焼き鳥屋である。
東京駅から出発、以前 八丁堀界隈を散歩したので、今回は、その北にあたる日本橋川を中心に茅場町まで散策する。


北町奉行所跡
 
 八重洲北口の開発は、早い勢いで進んでおり、しばらく来ないとその変化に戸惑うばかりである。
 東京駅八重洲北口改札をでて、そのままコンコースを北に向かい大丸ビルの小さなドアから外に出る。
 シャングリ・ラ ホテルの東側にある通路(鉄鋼ビルとの間にある)通路を北に向かう。

 左側に低い石垣が続くが、江戸城外堀の石垣の石が8個 組み込まれている。

 その先に、北町奉行所跡の説明板がある。
 
 この地域は、江戸時代呉服橋門内と呼ばれ、文化3年[1806]から幕末まで、北町奉行所が置かれていた。

 今の有楽町駅前に置かれた南町奉行所とともに、2か所に分かれて交替で 町人地の行政・司法・警察の職務を担っていた。

常盤橋
 北口のバスロータリー前の信号で永代通りを横切り、北に向かう。広い道路にぶつかり、横切った左手に、常盤橋公園があり、右手に進むと日本橋川に架かる常盤橋である。
 この先 日本橋川の上には 首都高のコンクリートの塊がどっしりとのっかている

 左側の澁澤栄一の銅像が建っている公園一帯は工事中の為、中に入れない。

 この常盤橋の上流にあたる公園内の工事中の橋も、常磐橋とよばれるが、 日本橋に近い方の橋が、「常盤橋」で、工事中の橋を「常磐橋」と使い分けている。(部首の皿が割れることで縁起が悪いという事で、石になったといわれる

 以前 「鎌倉古道 下の道」 を歩いた時の公園内の写真が下記である。(2009年)

<常盤橋門跡>            <常磐橋> 常ではない









 寛永6年(1629)、日本橋川に架けられていた木橋の前に、江戸城外郭門として建てられたのが 「常盤橋橋門」である。
江戸城外堀の正門であることから「追手口」、または浅草へ通じていることから「浅草口」と呼ばれていた。
 右側の写真が常磐橋で、それまでの木造橋を、明治10年(1877)に架け替えた2連の石造アーチ橋である。


 現在、東日本大震災で危険な状態になったため、明治10年の様子に戻す整備工事が行なわれている。


<常盤橋から見た工事の様子>  


クリックすると拡大
 <完成イメージ図>

一石橋
 常磐橋を渡ると外堀通りで、右に行くと「一石橋」である

<八重洲方面>        <常盤橋方面を見る>  。
 

親柱
 一石橋は、寛永年間(1624~47) またはそれ以前から存在していた。
 日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要であった。橋名の由来は、橋の北詰近くに幕府金座御用の後藤庄三郎、南詰近くに幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、二つの後藤をもじって五斗+五斗で一石と名付けたという。

 明治6年(1873)の一石橋は、長さ14間(約25m)、幅3間(約5.5m)だった。 大正11年(1922)鉄筋コンクリート花崗岩張りの橋となり、その時の親柱が一基残されている。
江戸時代、一石橋に立てば 八つの橋が眺望できることかあら「八つ見の橋」とも呼ばれ、広重の「名所江戸百景」に描かれている。
 

迷子しらせ石標
 この一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石標が、安政4年(1857)建てられた。 日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり迷子保護の立場から町奉行に申請したものという。
 正面  「満(ま)よひ子の志るへ」
 右側面 「志らす類(る)方」 
 左側面 「たづぬる方」    とあり、
左側に迷子や尋ね人の紙を貼り、心当たりがあれば、その旨を右側に貼っていたという。
高さ約175cm、である。

金座跡…日本銀行
 常盤場芦交差点までもどると、北側に日本銀行が見える。
江戸時代の幕府直轄の貨幣鋳造機関としての「金座」があったところ。 
 当初 江戸、駿府、佐渡、京都の4ヶ所に置かれたが、江戸中期には、この1ヶ所だけとなった。それが一石橋の由来となった後藤役所である。
その後、明治政府が接収、明治2年(1869)造幣局が設立された。

西河岸橋
 交差点から、東へ約100m、西河岸橋がある。
日本橋川の右岸地域が西河岸町の地名であったことから、明治24年((199) 西河岸橋として架設された。
 現在の橋は大正14年(1925)架け替え。

日本橋方面を見る

日本橋 元標の広場
 三越新館前に行く。
 日本橋北西詰に 広場がある。まず目につくのが、高さ約7mの鉄柱である。 真ん中に大きく「東京市道路元標」との文字が表示されている。
もとは、日本橋の中央に建てられ東京都電の架線の柱として使用されていたが、都電廃止後の昭和47年(1972)の道路改修にt伴い、この場所に移されたものである。
 東京市道路元標のあった場所には50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれている。
 そのレプリカが、この広場に置かれている。
 

日本橋
 江戸幕府の開府に伴い、慶長8年(1603)に初代の日本橋が架けられ、、翌年五街道の起点として定められた。
、何度かかけかえられたが、元和4年(1618)の記述によると、長さ約68m、幅約8mであった。
 
 明治44年(1911)現在の石造二重アーチ式が完成。 長さ49m、幅28mである。

 この時の橋の4つの親柱には徳川15代将軍慶喜の筆による橋銘レリーフがついており、そのまま今も残っている。
       

橋の南西詰には高札場、南東詰は罪人の晒し場があった。

魚河岸跡
 
 北東詰には「日本橋魚市場発祥の地」の石柱と「魚河岸跡」の説明板が立っている。
 「日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには 「魚河岸」があり、本船町、小田原町、按針町の広い範囲で、魚市が開かれ、大変なにぎわいを見せていた。佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した残りを売り出したことにはじまる。」という。

 大正12年(1923)の大震災の後、築地に移り、東京中央卸売市場へと発展した。 

   <震災前の魚河岸-奥は江戸橋クリックすると拡大  説明板の写真

三浦按針屋敷跡
 江戸橋に行く途中に、三浦按針の屋敷跡にいく。
日本橋北詰の信号の先の一方通行の道を右に入っていく。
昭和初期までは「按針町」と呼ばれていた。
今でも電柱には「按針通り」の看板が付いている。
 三浦按針(ウイリアム・アダムス)は慶長5年(1600)豊後国臼杵に漂着した。徳川家康に招かれ、造船、航海術、天文学などを指導した功績で旗本になり、相模国三浦郡に領地を、江戸に屋敷を与えられた。
 元和6年(1620)按針は平戸で病死、領地であった逸見に供養塔が残されている。

江戸橋
 17世紀に架けられた。(寛永9年(1632)という説と、正保年間(1644~47)の説がある)
 当初の位置は今よりも下流で、すぐ東脇は楓川(埋め立てられ、現在の首都高速都心環状線となる)が流れていた。
 橋の下は、漁船や乗合の舟、隅田川の船遊びの為の屋形船などが停泊し、上総国木更津への舟も行き来していたという。
明治8年(1875)に石橋となり、昭和2年(1927)昭和通り開通に伴い、現在地に架け直された。

郵便発祥の地
 橋を渡ると、日本橋郵便局がある。
「郵便発祥の地」のレリーフがある。
明治4年(1871)前島密の理念により創設された郵便制度が、東京-大阪間で始まった。
発足当時、駅逓司(郵政省)と東京の郵便役所が置かれた所。

 郵便局の裏を100m南に進み、左折すると小公園がある。
海運橋親柱が残され、説明板がある。

海運橋跡
 海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入口にかけてあった橋で、江戸初期には高橋と呼ばれていた。
 維新後、海運橋と改称され、明治8年(1875)に長さ15m、幅11mのアーチ型の石橋となった。
 「文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となった」という。

兜町
クリックすると拡大 首都高都心環状線の下を進むと、みずほ銀行がある。建物の角の壁に大きな「兜町歴史地図}が掲げられている。(クリックすると拡大)




 みずほ銀行の建物の南東角に、「銀行発祥の地」のレリーフがある。
明治5年(1812)の国立銀行条例に基づいて、三井八郎右衛門ら8名の出願により、翌年日本で初めて「第一国立銀行」が建てられた場所である。

兜神社
 首都高速に沿って日本橋川に向かう。突当りにこじんまりとした兜神社がある。
由緒によると、明治11年(1878)東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、取引関係者一同が創立した。という。

 境内に「兜岩」が安置してある。 前9年(1050年代)の頃、源義家が東征の折、この岩に兜を懸けて戦勝を祈願した、と伝わる。
 兜町という町名は、この兜岩に因んでつけられたという。

 江戸橋までもどり、日本橋川の北側に位置する小網神社にいく。

小網神社
 神社のHPによれば、創建は不明。文政元年(1466)悪疫が流行した際、この地に祀られた稲荷社が始まりという。
 明治維新の神仏分離令により、小網稲荷神社として村社に指定されたという。戦後、小網神社となった。

 現社殿と神楽殿は、昭和4年(1929)の造営で、その後の戦禍を免れて残されている。
          <五角形の神楽殿>

鎧橋
 神社から100m程南の日本橋川に鎧橋がある。
、今まで見てきた橋と違い、鎧橋が最初に架けられたのは、明治5年(1872)で、三井・小野・島田の3人の豪商が費用を出し合って建設された、という。
 橋が架けられたのと前後して、米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、商業の町として発展した。
 
 

鎧の渡し跡
 鎧橋西詰に、「鎧の渡し跡」の説明板がある。
古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、鎧橋ができるまで続いた。
  「江戸名所図会→クリック}
 「伝説によると、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の折、ここで暴風・逆浪にあい、船が沈みそうになったので鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだといわれている。また平将門が兜と鎧を納めた所とも伝えられている。」

 茅場町に入る。
江戸城の拡張工事の時、神田橋付近の茅商人をここに移し、町を開いたのでその名が生まれたという。

        東京証券取所→

日枝神社
 100m程南の細い路地が日枝神社の参道で、奥に鳥居が見える。

 千代田区永田町にある山王日枝神社の日本橋摂社である。
天正年間(1573~92)より、日枝神社の祭礼に八丁堀北嶋(鎧島)祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことに始まるという。
 神仏分離令により、薬師堂と智泉院が敷地から分離された。

智泉院
 日枝神社の裏手の道にある。
日枝神社の御旅所を設置した際、別当寺として薬師堂を建立したのが始まりという。
 説明板には、「上野寛永寺の末寺で、寛永12年(1635)に創建されたた。   江戸時代 病を治す御利益のある薬師信仰が盛んで、「茅場町のお薬師様」として多くの参詣者を集めた」という。

 本堂脇の瑠璃殿前の天水鉢は、天保12年(1841)に本尊が開帳されたのを記念して、当時の坂本町(今の兜町)の人々により奉納された。 
 坂本町の名前がある天水鉢 →
 奥の銅製の地蔵尊は
        彫刻家・戸張狐雁の作

其角 住居跡
  智泉院から永代通りに出る角に、「其角住居跡」と刻まれた、小さな石碑が立っている。

 芭蕉の第一の門弟といわれる其角の住居跡で、宝永4年(1707)終焉の地である。  当初は榎本を名乗っていたが、のち 宝井と改めた。
 
隣接して、荻生徂徠が住んでいたという。

 永代通りを左へ行くと茅場町交差点、本日の散策は終了。



 交差点から南へ100m程進み、右折すると、次の通りに 「かやば町 鳥徳」 がある。

鳥徳
 予定の5時より早く到着したが、すでに他の客が数人、店の前にいた。 今晩の料理に期待が持てる雰囲気がすでに漂っていた。

 明治時代から続く鳥料理の店。今は4代目という。

 店内は我々にはぴったりで、くつろいで、ゆったりと料理が楽しめる雰囲気である。  隣のカウンター席のガラス越し一面に見える焼とりのコンロ、職人さんの調理風景・・・これも良い。
 
 まずは焼鳥から・・・ジューシーでしっかりとそれぞれの味が引き立っている。  
  ひと通り味わってから あまり見慣れない「倶利伽羅焼」をオーダー・・・・・ウナギのかば焼きを、焼き鳥風に串刺しで食べる ・・・・つまみにちょうど合う。

店内の5人

帰り際の寒さが 心地よい茅場町の夜

ベレー帽が似合う年頃の三人。