<東京下町の散策と食事を楽しむ>


(8) 
神田周辺の散策    淡路町居酒屋「みますや」 
                                   2017年6月13日
                          

                     
地図→ ①神田   ②水道橋


 今回は、神田にある古い居酒屋ということで、集合までの約5時間を、神田須田町から水道橋まで足を延ばし、御茶ノ水方面かから淡路町まで戻るコースを散策した。
 古くは万世橋近くを、旧中山道が通っていて、近いうちに再びこの近くを歩く予定である。

 秋葉原駅の南をながれる神田川のほとりの柳橋神社を、今日の出発地としたが、そこまでは 山手線などのJRの線路の東側にある「神田ふれあい橋」と呼ばれる橋を渡る。
 この橋は、東北新幹線の工事用の橋であったが、完成後も残されたもので、両岸を結ぶ近道として利用されている。
 神田川の対岸に神社が見える。 


柳森神社




 橋を渡り、柳原通りを左に進むと、道路より一段低くなった場所に柳森神社がある。 

 長禄2年(1458)太田道灌が江戸城の鬼門除けとして現在の佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祀られたのが始まりといい、万治2年(1659)に神田川掘割の際現在地に移されたという。

 道路から降りる石段の右側に,藤塚らしい小山が築かれておりそこに「富士講関係の石碑群」がたっている。 
 説明板によると、「延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した浅間神社を合祀し、天保期には、富士講と深い関わりのあった神社であったという。境内には富士塚が築かれていたが壊れたため、境内にあった石が積み上げられ、石碑が置かれた」、という。


 境内の奥には「おたぬきさん」と呼ばれる福寿神が祀られている。
五代将軍綱吉の生母桂昌院によって江戸城内に福寿稲荷として創建された。

 大奥の女中たちは他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと、こぞって崇拝し、その後明治に入りこの柳森神社に合祀されたという。


 柳橋通りに戻り、西に向かって200m程進むと、右に神田川にかかる万世橋がある。


万世橋
 神田川をまたぐこの場所に初めて橋が架けられたのは、明治17年(1884)という。(もっと以前には、ここから約150m上流に筋違橋門に付属する橋があったという。)
さらに上流の昌平橋が復旧したのに伴い、新万世橋となり、その後明治36年(1903)鉄橋となり、万世橋となった。
 今の橋は、昭和5年(1930)に架け替えられた。

  万世橋交差点を横断してから、戻り中央線の高架をくぐり、レンガ造りの建物沿いに進む。

<橋の北側から見る神田川>→


旧万世橋駅跡
 高架下に、旧万世橋駅のホームがの跡が残されている。
 明治45年(1912) 国鉄中央本線のターミナル駅として開業された駅である。
 2階に上がる階段は、開業時からあるもので、その後交通博物館となってからも使われていた。


淡路町の歴史ある建物
 神田郵便局前の広場から、ここから少し寄り道して、神田淡路町に残る歴史のある建物を見に行く。
この一画は、第二次大戦の戦火から焼け残り大正から昭和初期の建物がまだ現役として使われている。
 神田郵便局の裏側の道を、南に進む。

寄道の目的の一つが、以前から行きたいと思っていた、「神田やぶそば」である。

<神田やぶそば>
 郵便局の裏通りの最初の右側に、樹木に囲まれた神田やぶそばがある。
創業明治13年(1880)というそば屋で都の歴史的建造物にしていされていたが、2013年に火災で焼けて、新たに建て直されたものである。



 午後一時を過ぎていたので、比較的ゆったりと、『そばとろ』を堪能した。(これだけでは足りなく、『かけそば』も追加した。)
<ぼたん>  
 その角を南に入っていくと、次の角に、2階建ての棟が連なっている いかにも風格のある料亭と言える「ぼたん」がある。
明治30年ごろ創業で、建物は昭和初期という。
 以前一度だけいったことがある「鳥すき焼き」の店である。


<神田まつや>
 その先の広い靖国通りに出る手前に、そばやの「神田まつや」がある。
明治17年創業という。


<いせ源>
 元来た方向にもどり、ぼたんの東側に、「名代 あんこう鍋 いせ源」という古い看板のかかった店がある。
天保元年(1830) 京橋でどじょう屋を始めたのが最初で、その後神田に移り、大正時代からあんこう料理専門店となってという。建物は、大震災後のあとの昭和5年(1930)に建て直されたもの。

何年か前の冬に座敷であんこう鍋を楽しんだことがある。


<竹むら>
 その向かい側が、甘味処竹むらである。
昭和5年(1930)創業、建築の3階建ての建物で、いせ源とともに、昭和のたたずまいを感じさせる一画である。

昌平橋
 郵便局まで戻り、神田川を昌平橋で渡って、神田明神をめざす。
昌平橋は古く、寛永年間(1624~44)には仮設されていたという。一口橋(芋洗橋)とか相生橋とか呼ばれていたが、元禄4年(1691)に将軍綱吉が湯島に聖堂を建設した時に、孔子誕生地の昌平郷にちなんで、昌平橋と改名したといわれる。

 昌平橋から万世橋方向を見る→
    筋違橋があった付近。

神田旅籠町
クリックすると地図拡大   橋をすぎると、神田旅籠町と書かれた「町名由来版」が立っている。それによると、「昌平橋の北側のこの地は、中山道の第一の宿場町である板橋宿と、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅館が多く建ち並んでいたという。
 天和2年(1682)の江戸大火ー八百屋お七の大火で、旅籠町は類焼し、その後旅籠はなくなって、米、炭、潮、酒を扱う問屋が増え、商人の町へ成長していったという。
(左写真クリックすると、拡大→安政3年(1856)の頃の地図)


 昌平橋通りの東側の細い道を北に進むと、「講武稲荷神社」がある。

 ビルの一画の狭い場所であるが、講武所付属地で払い下げを受けたという。
安政4年(1857)の鎮座といわれる。説明板によると、運慶作と伝えられる身体を祀っている。


 「講武所」は、幕末の幕府が設置した武芸訓練期間で、旗本・御家人を対象に剣術・洋式調練・砲術などを訓練したといい、当初江戸の鉄砲州に置かれ、のちに神田小川町に移転した。

神田明神
 北に向かい、秋葉原駅から続く神田明神通りにでて、昌平橋通りを横切り、坂を上って行く。 昔の中山道のルートである。坂の途中左側には、湯島聖堂の長い石塀が続いている。

 右側の参道入口に「神田神社」という額が掛った大きな鳥居がある。鳥居脇には 弘化3年(1846)創業というあま酒茶屋の天野屋がある。
参道側には 「麹室之図」の説明板がある。
明治37年(1904)に建築された麹室は今でも天野屋で造られる甘酒や味噌の為の麹を作るのに使用され続けているという。、
  <随身門>
 



<社殿>





 神田明神の正式名称は「神田神社」で、社伝では、天平2年(730)の創建という。
 はじめは今の大手町の将門塚周辺にあったが、江戸城の増築に伴い元和2年(1616)現在地に移ってきた。祭礼の神田祭は、2年に一度行われ、、江戸城内にもはいり、天下祭とも呼ばれた。
 神田・日本橋・秋葉原・大手町などの108町会の総氏神である。
 天明2年(1782)には権現造りの社殿が造られたが関東大震災で焼失、その後本格的は鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造りで再建された。
 6月30日の大祓の神事の為に 茅の輪が用意されていた。

湯島聖堂 
    <大成殿(孔子廟)>  湯島聖堂へは、東京医科歯科大学との間にある小公園側にある西門から入った。

湯島聖堂は 五代将軍綱吉が儒学の振興を図る為、元禄3年(1690)聖堂を創建し、上野忍岡にあった林羅山の私邸にあった孔子廟と 林家の私塾をここに移したのが始まりという。
その後 寛政9年(1797)に幕府直轄の学校として「昌平坂学問所」が開設された。
 西門の先の杏壇門の奥に大成殿が姿を現す。大震災により焼失した後 寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。
当時の門などが再建されており、旧中山道沿いに建ち、神田神社(神田明神)へ通じていた「明神門」がある。
 中ほどに、「楷樹」が植えられている。
中国山東省の曲阜(きょくふ)にある孔子廟に植えられている銘木で、書道 楷書の語源になったといわれ、大正時代に曲阜から持ち帰られた種子から育ったという。

相生坂

 南出口を出て、神田川沿いに水道橋方面に向かう。
緩やかな坂で、湯島聖堂の石塀が続くが、神田川の対岸の駿河台にある淡路坂と並ぶので、「相生坂」といった。東側の坂は昌平坂と呼ばれている。

 


水道歴史館
   御茶ノ水駅を過ぎて、順天堂大学の手前を右にまがると、100m程先に水道歴史館がある。
 江戸時代からの上水にまつわる歴史や木樋(左)などの多くの現物が展示されている。
  <蛇体鉄柱式共用栓>明治末から大正までつかわれていた共用栓で、水の出口が竜をかたどっている。 後の水道の「蛇口」の語源となった。
 
<江戸上水の歴史>
クリックすると拡大


大きなパネルでわかりやすく説明されている。(クリックすると拡大)




概要は次の通り:
神田上水
天正18年(1590)家康の江戸入府に先立ち、城下に飲料水を供給するため家臣・大久保勝五郎に上水開設を命じた。
小石川に水源を求め、目白台の流れを利用し神田方面へ通水させた。その後随時拡張され、井の頭の池や善福寺池、妙正寺池を水源とした。

玉川上水
 三代家光の時代江戸の都市化に伴い新たな上水の開設が必要となり、承応3年(1654)、江戸町人 庄右衛門・清右衛門兄弟により、多摩川を水源とする多摩川上水が開設された。

その後 次の上水が開設された。
万治2年(1659) 亀有上水
万治3年(1660)青山上水
寛文4年(1664)三田上水
元禄9年(1696)千川上水

石積・石樋の復元
 水道歴史館の西側に給水所公苑が整備され、神田上水の堀の護岸に使われた石積みや、、「石樋(石垣樋)」が移築・復元されている。

水道橋から下流方向
 外堀通りまで戻り、水道橋まで進む。
何十年かぶりに訪れた水道橋駅前は大きく変容していた。
 
 
 折角なので、水道橋を渡ってJRの駅の南側にある三崎稲荷神社を訪れる。

ビルの谷間にあるが、創建は建久(12世紀末)といわれる由緒ある神社である。 当初の豊島郡三崎村から各地を移転し、明治38年(1905)に当地に移ってきたという。

御茶の水分水路
  水道橋まで戻り、今度は外堀通りの南側の歩道を歩いて、神田方面に行く。 クリックすると拡大
すぐ先の小広場に「お茶の水分水路」の石碑とその案内図がある。

上の写真の水道橋から見た神田川の左側に大きく口を開けているのが、分水路である。
案内図にあるように(クリックすると拡大)、ここから昌平橋までの間、外堀通りの下をもう一本の川が掘られている。

神田上水懸樋跡
 少し先に「神田上水 懸樋跡」の石碑がたっている。

神田上水は、井之頭池の湧水を水源としてその後各支流と合流して、目白台下の大洗堰に至り、水戸藩邸を通ってこの神田川を懸樋で渡っていた。
その先で神田や日本橋方面へと続いた水路である。
クリックすると拡大

 右は、水道歴史館のパネルに展示されている安藤広重の「お茶の水の図」である。
・・・・神田川の上に架けられた神田上水の懸樋が描かれ、その奥に小さく水道橋がある。 (クリックすると拡大)

お茶の水橋と聖橋
 お茶の水橋で神田川を渡り、駅の南側を進んで聖橋まで行く。

←お茶の水橋から上流方面。

   聖橋から下流方面を見る→

 神田川をまたぐ地下鉄丸の内線、その右・神田川の南岸を通る中央線、その先で神田川をわたる総武線など、複雑に入り組んでいるのが 聖橋から一望できる。 
更に写真では見えないがここ神田川の真下を直角に進む千代田線も走っている。

ニコライ堂
 聖橋から駿河台を南に下り100mほどで、右側の丘にニコライ堂が姿を現す。
 正式には「東京復活大聖堂」と呼ばれ煉瓦造りの聖堂で、その名前は日本に正教を伝えたロシア人大主教ニコライに由来する。

 明治17年(1884)から工事が始まり24年(1891)に完成したもので、大震災の後、ドームと鐘楼が修復された。高さ約35m、建坪318坪で、日本最大のビザンチン式建造物である。



 今晩の集合時間にはまだ時間があるので、その前の本郷通りを下らずに、西に100m程進んでから、左折して日大の建物群を見ながら小川町まで行くことにした。。

池田坂
 途中の下り坂に、「池田坂」という標識がたっている。
この辺りに池田姓の旗本が屋敷を拝領したためという。
標識には「新撰東京名所図会」に紹介されている内容がかかれている。

 この西側辺りには、大久保彦左衛門の屋敷跡や、小栗上野介屋敷跡などがあるというが、次回にまわす。

大田姫稲荷神社
 坂を下り切った所に、真新しい鳥居と石柱に囲まれた神社がある。
古くは「一口稲荷(いもあらいいなり)神社」といったという。
長禄元年(1457)、太田道灌の娘の疱瘡が京都の「一口稲荷神社」に祈願したところ治癒したことから、旧江戸城内にその神社を勧請したという。
その後、社を鬼門に移し「太田姫稲荷神社」と称した。
 代々の将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行なったという。
 
 今回の散策はここまでで、ここから南へ進み靖国通りにでて東へ進み、最終目的地 みますやに行く。
小川町交差点を越えてから都営新宿線小川町駅の右側にあるA6出口をすぎて、右へ曲がって50m位の場所にある。
 、

みますや
   2階建てのいかにも親しみのある建物で 「みますや」という看板が、3本 架かっている。
その真ん中の看板には、「明治38年創業」 (1905)とある。
東京で現存している居酒屋の中では最も古い店といわれる。

赤ちょうちんと 縄のれんをを見るだけで、中の雰囲気が想像できる。

 
 値段も手ごろで、メニューも盛りだくさん、どぜう料理、肉豆腐などなど5人で各々好みの料理とそれに合う酒を オーダーして楽しんだ。




クリックすると拡大



<帰り際の店の外での雰囲気①>
<                  ②>
 



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