<東京下町の散策と食事を楽しむ> (17) 井之頭公園・吉祥寺 カヤシマ 2022年11月17日 |
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孤独のグルメで紹介されたこともあるという、吉祥寺の「カヤシマ」で、昼食会を開くことになった。 午前中の短い時間なので、「井の頭公園」と、近隣のみの散策となった。 |
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井の頭公園 |
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(クリックすると拡大) |
徳川のはじめ、このあたりは鷹狩り場とされており、家光が寛永6年(1629)に訪れた際、この池の水は江戸の飲料水の源=上水の頭であることから、「井の頭」と命名し 池のほとりの木に小刀で、井の頭と刻んだと伝えられている。 その後 井頭池は広重の「名所江戸百景」などにも描かれるなど、有名な景勝地となった。 豊富な湧き水にめぐまれ、「三宝寺池」「善福寺池」とともに「武蔵野三大湧水池と呼ばれていた。 大正6年(1917)日本で最初の恩賜公園として開園した。 |
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池の景色 |
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御茶ノ水 |
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北西端の木陰に、「御茶ノ水」がある。 徳川家康がこの池の湧水を関東随一の名水とほめてお茶をいれた という伝説から、その名がついたという。 現在は湧水減少のため、地下水をポンプで組み上げているという。 |
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御殿山遺跡 |
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1962年武蔵野市が市史編纂事業の一環として発掘したときに発掘されたという、遺跡である。 直径5mの竪穴住居跡等、多くの遺物が発掘され、この地域には、約3~4千年以前の集落があったことが判明したという。 |
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井の頭弁財天 |
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池の西の端に井の頭弁財天がある。 天慶年間(938~46)に、関東源氏の祖 源経基 が 伝教大師の作という弁財天女像をこの地に安置したのが始まりという。 その後 源頼朝が建久8年(197)に東国の安定を祈願し社を建立したとされている。 |
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神田川源流 |
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ここから流れた神田川は、中野区で善福寺川と合流、その後7妙正寺川で合流し 下流は隅田川となる。 | ||
井の頭池を一周した後、井の頭駅前前から来たに向かい、五日市街道まで進む。 その北東角に、武蔵野八幡宮がある。 |
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武蔵野八幡宮 |
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創建は延暦8年(785)に、坂上田村麻呂が宇佐八幡の分霊を水道橋付近に祀ったのがはじまりという。 明暦の大火により、江戸小石川・本郷付近にあった吉祥寺と門前町が消失した際、寛文元年(1661)周辺町民に移住を命じ、武蔵野原野に「吉祥寺村」が開村し、それとともに村民の氏神として遷座してきたという。 吉祥寺ウドの説明板がある。 |
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鳥居の左手に、「井の頭弁財天の道標」と、その脇の祠に庚申塔が納められている。 道標は約2mの高さで、「神田 御上水 井之頭辨財天」と彫られ、左には『これよりみち』とある。、天明5年(1785)に建立された。 もとは、八幡宮の対角にあったものがここに移転されたという。 |
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安養寺 |
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八幡宮の東側にある。 山門の手前に石塔群が並んでいる。 左写真の庚申供養塔は、寛文5年(1665)建立で、市内で最も古いものという。(クリックすると拡大) 寛文5年(1665)建立、高さ117cm,幅39.5cm,厚さ13cmで、「南無阿弥施仏」 「甲辛」ときざまれている。「甲辛」は「庚申」の意味だと、説明文にある。 その右にある庚申塔(右写真)は、一般的な三猿青面金剛の庚申塔で、亨保4年(1719)の建立である。 境内には 安永2年(1773)に鋳造された市内で最も古いという梵鐘がある。 |
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月窓寺 |
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「吉祥寺サンロード」を、駅方面に向かうと月窓寺の山門がある。 南に回って、本堂に向かう。 家康が江戸に入った頃、月窓寺の前身の「東岸寺」が井の頭池東岸に創建された。 寛文元年(1661)、現在地に移転、その後、月窓寺と改めた(時期不明)という。 月窓寺には 元禄2年(1689)制作の市内最古の 「乾漆造白衣観音坐像」(非公開)があり、この観音像は、村人に馬を飼うものが多かったことから、馬頭観音として信仰されたという。(HPより) |
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カヤシマ |
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最初の頃の井之頭五郎の「孤独のグルメ」で紹介されたカヤシマでの昼食会。 店の前は 庶民的な親しみのある佇まい。 昼食時で大変混雑していたが、牛すじ大根などなど、つまみもオーダーでき、日本酒-東京の地酒-もそろっている。 五郎も食べていたナポリタンも美味しく味わった。 店内の雰囲気 |
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