<東京下町の散策と食事を楽しむ> (7) 本所七不思議と周辺の散策 両国 「もゝんじや」 2017年3月30日 地図→本所・錦糸町・両国 |
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今回は両国の老舗での猪鍋を予定、しかも、午前中の予定もなかったので、早くから散策を開始できることとなった。 吾妻橋をスタート、「本所の七不思議」ゆかりのある場所をたずね、北斎の美術館、そして夜は猪鍋と、一日を通して贅沢な散策を楽しむことができた。 |
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吾妻橋 |
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雷門通りから、馴染みのある景色を左手に見ながら吾妻橋を渡る。 隅田公園の桜はすでに咲き始め、多くの人であふれている。 ただし吾妻橋を渡って東に行く人は少ない。 ここには、安永3年(1774)の架橋された木造の「大川橋」とよばれていたが、その後 明治9年(1876)に架け替えられて吾妻橋となった。 200mほど先の、五叉路を南に進み、二つ目の信号を左折すると、本所中学校がある。 |
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本所中学校 |
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正門の左手に「明徳小学校跡」と刻まれた大きな石碑が建ち、由来が記された立派な金属製の説明板がある。 「本所表町本久寺の寺子屋を前身とし、旧肥前平戸藩主 松浦肥前守の下屋敷跡に、開校され・・・・」とある。 このあたりが、本所七不思議の「狸ばやし」のもとになったところという。 |
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摂社 若宮 牛嶋神社 |
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元の南北の通りにもどり、南へ向かって春日通りを越えて、100m程先を右折すると、左側若宮公園の北側に、牛嶋神社がある。 吾妻橋の北-隅田川の東側に牛嶋神社があり、以前、鎌倉街道「下の道」を歩いた時に、頼朝に関係のある神社との覚えがあったので、、立ち寄った。 小さな社殿で、石柱に「摂社 若宮 牛嶋神社」とある。 向島にある本社の牛嶋神社の摂社であり、また大祭の際の旅所とされている。 若宮公園の南側の道を、真東に進む。 |
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妙見山別院 |
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三ツ目通りを横切って200m程先の左角に、妙見山別院がある。 能勢妙見山の東京別院で、妙見山別院と呼ばれている。 能勢妙見山は、大阪府能勢町にある日蓮宗の霊場で、鎌倉時代に能勢氏が妙見山にある寺に、妙見菩薩を祀ったのが始まりで、その後,江戸時代には「能勢の妙見山」として賑わい全国に知られるようになったという。 能勢氏の江戸下屋敷のあったこの地に、江戸中期にこの別院が建てられたという。 |
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大横川親水公園 |
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続いて東へ進むと、紅葉橋があるが、その下は、川ではなく、南北に走る大横川を埋め立てて造られた、親水公園となっている。 約1、800mという長さで、地下水のくみ上げで地盤沈下が激しく、浸水する危険がある為、川の一部を埋め立てて公園とした、という。 橋の北側の壁一面に 本所七不思議の、簡単な説明と絵が絵が刻まれている。 橋の東側には、墨田区が制作した真新しい[高札風の説明板」」がたてられている。 池波正太郎の「鬼平犯科帳」とゆかりのある場所に、墨田区が整備したという。 ここには、鬼平情景-出村の桜屋敷-が描かれている。 この先でも目にする。 |
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法恩寺 |
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次の信号を右折し、最初の道を左折すると、報恩寺の山門前にでる。 そこから南に長い参道がのびている。 墨田区の「高札」によると、「長禄2年(1458) 太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に、城内鎮護の祈願所を設けたことに始まるという。 其の後、元禄8年(1695)に現在地に移ってきたが、当時は二十ヶ寺の塔頭を要していたという。 参道の南側には、江戸十大祖師という大きな掲示がある。 長い参道→ この辺りが「送り提灯」ゆかりの地である。 |
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≪錦糸公園を経由して亀戸中学校へ≫ |
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法恩寺の参道を南に出ると、蔵前橋通りとなる。 ここから先は、錦糸町駅近くを通って、その先 東側の亀戸中学校をの東側にある、「置いてけ堀」のゆかりの地を目指す。 錦糸町のエリアマップによると、すぐ東に、「タワービュー通り」が南北に走り、その東200mほどの角に、「すみだ江戸切子館」のあるので、訪れた。 |
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すみだ江戸切切子館 |
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錦糸町のエリアマップによると、すぐ東に、「タワービュー通り」が南北に走り、その東200mほどの角に、「すみだ江戸切子館」のあるので、訪れた。 館内では、クリスタルのグラスが展示・販売されており、江戸切子の出来るまで・・・・『硝子生地→墨付け(割出し)→荒摺り→三番掛け→研磨→出来上がり』 という工程の簡単な説明と、各工程のサンプルが展示されている。 隣の建物では、実際に職人が働いており、館内からガラス越しにその様子が見えるようになっている。 冷酒用のグラス 気に入ったのがあり、機会をみて再度來ることにした。 |
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タワービュー通り |
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切子館から100m程もどり、錦糸町駅に行くためにタワービュー通りを南へ進んで、錦糸町駅にいくことにした。 そこには、歌手の市川由紀乃さんが一日警察署長として、TV局のインタビューを受けていた。 駅前の通りまで約300m、うしろにスカイツリーを見ながら、一方通行の道をのんびり歩くことができた。 錦糸公園 駅の北側にある広い錦糸公園には桜が満開の一歩手前で、多くの家族連れでにぎわっていた。 |
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錦糸公園の南の道を東へ進み、横十間川に架かる錦糸橋を渡って川沿いに南へ向かい、京葉道路にぶつかって東へ。 ENEOSのスタンドの角を100mほど南にむかうと、第三亀戸中学校の正面となる。 |
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置いてけ掘りの碑 第三亀戸中学校 |
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正門の右側に「江東区登録史跡 おいてけ堀跡」の石碑と、説明板が立っている。 説明板によると、「明治2年(1909)作成の地図に、亀戸町字横川と清水の間(現在の亀戸中学校付近)の堀に「オイテケ堀」と記されており、また、その後発行された「東京近郊名所図会」其六では、この「オイテケ堀」を実地調査し、四方に樹木はなく釣堀のようになっていること、地元でおいてけ堀と呼ばれている場所が一か所だけではないことが記載されている。」という。(右説明板をクリックすると拡大) 「おいてけ堀は、天明7年(1787)刊の黄表紙「亀山人家妖(きさんじんいえのばけもの)」に取り上げられていることから、18世紀には伝承として成立していた」 という。 |
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錦糸掘公園の河童像 |
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ここから400m程西に、河童の石像があるというので、見に行く。 京葉道路に戻り、西に400mほどの江東橋四丁目の信号を南に入った所に小さな「錦糸掘公園」がある。その北側コーナーに「おいてけ掘『河童』の由来」の説明板と、石像がある。 本所周辺には淋しい堀がたくさんあり、多くの魚が釣れた。おいてけという声の主は、河童と伝えられているという。 |
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江東橋 |
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京葉道路を西に向かうと、埋め立てられた大横川に架かる江東橋となる。 先ほど ここから数百m北の紅葉橋を渡ったが、この大横川は、明暦3年(1657)の江戸大火の復興後の一環として 本所地域を南北に貫通した河川として整備されたという。 この付近が「送り拍子木」の話のあった所といわれる。 |
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北斎通り |
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大横川親水公園の中を200mほど北に進み、、「北斎通り」を西に向かって散策する. すぐ先の歩道に、北斎通りの由来=『本所割下水(わりげすい)』 が記された説明板が設置されている。 それによると、「割下水とは、かってここを流れていた下水の呼称で、1650年代末以降の本所開拓の中で開鑿(さく)された下水で、かってはその両側に道があった、という。」 「昭和初期に暗渠になり、平成に入ってから道路整備され、『北斎通り』という名前となった。」 北斎もここの住人であり、北斎通りは、ここから約1km西に続く。 文久2年(1862)の本地絵図が記されている.(写真をクリックすると拡大) |
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足洗い屋敷 |
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しばらく北斎通りを進むと、三ツ目通りと交差する亀沢4丁目交差点の北東角に、三階建ての黒いビルがたっている。 ここが、足洗い屋敷のあった位置であるという。 |
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野見宿禰神社 |
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そこから3つ目の交差点を過ぎて左側に小さな神社がある。 歩道側に立つ立札形式の説明板によると、「この東側に相撲の高砂部屋があり、明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰(のみのすくね)を祀ったのが、この神社の始まり」という。 境内には相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、二つ目の石碑に47代柏戸以降の名が刻まれており、72代として、稀勢の里の名が真新しく輝いていた。 (クリックすると拡大) |
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緑町公園 |
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その先に、緑町公園がある。 公園の南側には、すみだ北斎美術館がたち、北側の北斎通りよりには、数種類の立札形式の説明板が立っている。 「南割下水」の説明や、葛飾北斎生誕地の説明、江川太郎左衛門屋敷跡前などである。 それらとともに、「両国物語」として「津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡」の説明板がある。 「この上屋敷には火の見櫓があった。 通常火災を知らせるときは版木を鳴らすが、この櫓には版木の代わりに太鼓がさがっていて、この太鼓で火事を知らせていた。 なぜこの屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのか誰も知らず不思議箱ととされていた」という。 |
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北斎美術館 |
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今回はいつもと違い時間に余裕があったので、美術館をゆっくりと見学した。 建物の外観はアルミでできており、窓がないと思っていたら、ビデオ紹介の部屋からスカイツリーがきれいに見えた。 |
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江川太郎左衛門屋敷跡 |
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緑町公園の西側の道路のの中ほどに、大きな説明板が立っている。 天保6年(1835)、35歳で韮山の代官に就任し、伊豆・駿河・武蔵・甲斐の五か国の天領を管理していた。伊豆・駿河以外の支配については江戸屋敷で、手付3人、手代14人を使っていた、という。 この地で、55歳で亡くなった。、 ここから、隅田川の西岸にあった松浦家の上屋敷跡を訪れる前に、少し寄道をして、両国駅の南側・・・北斎の住居跡と、勝海舟の生誕地を訪れる。 |
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北斎住居跡ー榛稲荷神社 |
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江戸東京博物館の東側・・清澄通りを南にすすみ、総武線のガードをくぐって100程先の東京東信金の脇の細道を西にいくと、小さな稲荷神社がある。この辺りに、江戸時代武士が馬術を訓練するための榛(はんのき)馬場のあった場所で、この馬場に祀られていたのが、この榛稲荷神社という。 本所に生まれた北斎は、生涯で90回以上も転居を繰り返したといい、この神社の近くに北斎が住んでいたことは特定できるという。 当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」で、絵を描く北斎と、娘が描かれているが、北斎美術館に展示されている「北斎アトリエ」では、それを蝋人形で再現している。* 墨田区商店街連合会発行の「すみここ」より、コピー。 |
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勝海舟生誕之地 |
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清澄通りをそのまま南へいき、京葉道路を横切って100mほど進んで、西に100mほどで、両国公園がある。 その南東のコーナーに、「勝海舟生誕之地」と刻まれた大きな石碑と、その後ろ側の壁に 「勝海舟幕末絵巻」という長い掲示板がたっている。 勝海舟は文政6年(1823)にこの地で生まれ、そのごの黒船来航から戊辰戦争までの歴史が描かれている。 |
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置いてけ堀・御竹蔵跡 |
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江戸東京博物館前の交差点まで戻ると、日大一中・高の建物の前に、立札風の説明板がある。 それによると 「この辺りには幕府の資材置き場だった御竹蔵があり、その周りには掘割があった。 ここにも、七不思議の一つの「置いてけ堀」の話が伝わっており、、作られたのは寛政年間(1789~1801)といわれ、七つ以上の話が伝えられている」という。 御竹蔵は、次にでてくる「本所御蔵」の俗称という。 |
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本所御蔵跡 |
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江戸東京博物館の北側を、交差点から、隅田川に向かう道は、遊歩道になっていて、亀に載った家康像がたっている。その先の壁に大きな説明板がある。 このあたりは、本所御蔵という幕府の米倉があり、享保19年(1734)には4万4千坪の敷地で、安政5年(1858)には37棟246戸にもなったという。 (クリックすると拡大) |
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旧安田庭園 |
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突当りが、旧安田庭園で、北に向かうと横網町公園の西門と向かい合っている、安田庭園の入口がある。 中をゆっくり散策する予定であったが、工事中であった。後日 開園してから改めて訪れたい。 そこで入り口から隅田川に向かって進み、この西側の「落ち葉なき椎の木」の由来の場所で、庭園内にあった両国公会堂付近を見に行ったが、工事用の壁に覆われていて見えなかった。 右は、西側道路から見た庭園の壁。 |
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首尾松の鉤舟 |
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安田庭園の西側の自動車道路に突当り、隅田川側の歩道を南に進む。 そこに、このあたりの場所を隅田川の対岸から描いた、「首尾松の鉤舟」の絵と説明がかかげられている。 隅田川の一年を描いた『隅田川両岸一覧』のうちの一枚で、舟の先に大きく描かれている松が、西岸の蔵前の米蔵の真ん中あたりにあった松で、「首尾の松」と呼ばれ、そのあたりは釣りの名所であった。 釣糸のさきにある右側の森(蔵前からみると対岸)が、肥前平戸新田藩 松浦家の上屋敷という。 これが、「落ち葉なき椎の木」 の屋敷である。 (次の行の写真をクリック) |
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安田庭園を見ることができず、、夜の部の集合時間には時間がありすぎたので、前回訪れた「回向院」の南側に足を延ばしてから、両国橋の東側・・・片葉の葦の場所と、「ももんじや」・・に向かうことにした。 国技館前をすぎてから、隅田川テラスにでる。 テラス沿いの壁には、隅田川や両国橋。回向院かんする浮世絵が数多く描かれており、当時の様子を想像しながらのんびりと歩ける場所である。 両国橋の下をくぐり、、堅川との合流点の手前で、、テラスから街中へもどる。 |
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一之橋 |
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堅川の真上を首都高速が通っているが、本所側から新大橋・森下方面を繋いでいるのが、一之橋である。 説明板によると 「幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。 万治2年(1659)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。」という。 (江戸城に向かって縦(東西)に流れることから、たてかわとなった) 赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としてしられる。 |
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旧両国橋・広小路跡 |
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両国橋に向かって北に進む途中、出羽海部屋、井筒部屋、春日野部屋の3つの相撲部屋がある。 京葉道路手前に、区画整理中の駐車場があり、その前に説明板がたっている。 「旧両国橋は、今の両国橋の下流約50mのこの辺りに架かっていた。 武蔵と下総の国を結ぶ交通の要衝となり橋の袂には火除け地としての広小路が設けられた。日本橋側は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席などが並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物子屋、屋台などが並んだ繁華街となった。 寛保2年(1742)の調査では、一日に2万人以上が往来したとされている。」 |
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片葉の葦 |
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少しさきの京葉道路に向かって左側の空き地の隅に、真新しい、立札形式の説明板がたっている。 <駒留橋跡> このあたりに、旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半の小さな橋・・・・駒留橋があった。ここに、本所七不思議のひとつである片葉の葦が生えていたので、別名片葉掘といわれ、淋しい場所であったという。 右→クリックすると拡大(矢印) その横の説明板に、「片葉の葦」の由来がある。 |
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両国橋 新旧 |
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両国橋の中ほどまで渡り、そこから「向こう両国」方面を見ると、残念ながら首都高速のため、全体の景色が見えない。 橋の東詰には、「隅田川両岸一覧」のうちの一枚で「両国納涼 一の橋弁天」が描かれている掲示版がある。 真ん中の上方(左右の境目)に見える小さい橋が、今の竪川に架かる一之橋。 (クリックすると拡大) |
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ももんじや |
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、すぐ先が、京葉道路沿いのももんじやである。金色のイノシシが目立つ。 いのししや鹿などの獣肉をあつかっている店を「ももんじや」と呼んだという。 この店は、享保3年(1718)創業という、老舗である。 味噌味の猪鍋は、はじめてであったが、肉の味わいが最高であった。 他に鹿肉のたたきも楽しんだ。 はなしの種に熊のソース焼きも皆で食したが、イマイチであった。 店の会計わきには、鹿や熊の毛皮が架かっており、秋田出身の友人が熊の毛皮を懐かしそうにしている姿が印象的であった。 <完> |
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