<東京下町の散策と食事を楽しむ>


八丁堀 と 「さわ鶏」 (水炊き)  
(2016年2月2日)

                    
地図→東京駅-亀島橋-弾正橋-八丁堀駅


  八丁堀の路地裏にある老舗の味-「博多水炊き」を楽しむ。
八丁堀の地名や、駅の名前は有名であるが、「堀」そのものははどこにあったのか、今どうなっているのか、東京駅八重洲口から八丁堀駅の近くの店まで辿りながら、その歴史を訪ねる。


八重洲通り(東京駅前)
 東京駅八重洲口から、東へ向かう。
駅前の通りは外堀通りで、文字通り江戸城の外堀が埋め立てられた跡である。
外堀から東側は、一部に武家屋敷は点在するが、基本的には町人の町割りであった。
 200m程で旧東海道(今の国道15号線)を越える。 →
    (奥に小さく日本橋が見える。)

久安橋と楓川(もみじがわ)
 昭和通りを越えた先で高速道路の上を渡る。 よく見ないと橋とはわからないまま通り過ぎてしまうが、久安橋といい、歩道と車道の間に親柱のかわりに、モニュメントが建てられている。
 今は、下に首都高速道路が走っているが、以前は「楓川」(もみじ川)という川であった。近くにある石の説明板には 「『久安』の名は、昔この付近に御坊主久安の拝領地があったことに因む」と書かれている。
 楓川は、この北を流れている日本橋川と、南の京橋川とをつないでおり、京橋川から東へは、八丁堀(桜川と呼ばれた)で、亀島川につながっていた。そこには弾正橋があった。  
 江戸時代には、八丁堀はこの4つの川に囲まれた地域であったが、、明治以降はそのうちの主に南半分が八丁堀と呼ばれっようになった。

 →橋の上から高速道路の新橋方面を見ると、ずっと先に架かる橋は「宝橋」で、もっと先には、八丁堀のある弾正橋がある。

川を渡ると、越中守の屋敷前に行くので、「越中橋」ともいわれた。

玉円寺
 その先から、八丁堀の町となる。

 道路左側に八丁堀周辺の地図と史跡の案内板がある。
 500m程北を流れる日本橋川には鎧橋がかかるが、江戸時代にはそこは「鎧の渡し」という渡船場だったという。源頼義が奥州征伐の途中暴風雨にあい、自分の鎧を海に投げ入れ竜神に捧げ、川を渡ったという伝説が残る。(次回に訪れよう)   
  
鈴らん通り→     
 少し先で、八丁堀の町を南北に350mほど続く「鈴らん通り」がある。 かっては「仲町」と呼ばれ、最盛期には銀座以上の繁華街であったという。

そこで、左折して2本目の通りを左に行くと、玉円寺がある。もとは、これから訪れる京華スクエアーの近くにあり、ここに移転してきたという。
八丁堀で唯一のお寺で、「寺あって墓なし」という八丁堀七不思議にある寺である。

 八重洲通りに戻り,東に向かう。すぐに亀島川に架かる広い亀島橋となる。

亀島橋・亀島川
 亀島川は日本橋川から分流して、南に流れ、その先で南東に向かって隅田川に合流する。 この川の東側は、以前は霊岸島といわれたが、今は新川と呼ばれている。

 橋の西詰 北側の空き地に堀部安兵衛武傭(たけつね)之碑と刻まれた大きな石碑が建っている。亀島川との関連は不明。





亀島川(北方面)
 橋から北方面をみると、日本橋川との間の水門と、その先にはスカイツリーが見える。

 橋の東詰(北側)に 亀島橋に関わる大きな説明板がある。

 慶長年間 江戸幕府はこの地に江戸湊を築き、水運の中心地として江戸の繁栄を支えていた。
寛永7年(1630)に亀島川と隅田川の合流する霊岸島側に、幕府の御船手組(おふなてぐみ)屋敷 (・・・戦時には幕府の水軍として、平時には幕府御用船を管理・・・・) が置かれた。
大坂夏の陣で功績のあった向井将監忠勝が任じられ、代々続いたため 亀島川の新川側は将監河岸と呼ばれた。

 諸国から船で運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るために、霊岸島を東西に流れる「新川」(運河)が 河村瑞賢により 万治元年(1660)開削された。
  河村瑞賢(1618~99)は、、明暦の大火で木曽の材木を買占め、土木建築で財産を築き、各地の治水事業や江戸へ運ぶ物資の海運航路の発展に尽力した。運河に面して居を構え、ここで没したという。
新川(運河)は昭和23年(1948)に埋め立てられた。

亀島川(南方面)
 亀島橋の南側に渡る。、
亀島橋は元禄12年(1699)の町触(まちぶれ)に橋普請の記載があり、そのころ架橋されたという。(説明板)
 今は、高層の商業ビル、住宅ビルがびっしりと並んでいるが、「江戸時代には右側の八丁堀側には、町奉行以下の与力・同心の組屋敷が置かれ、 左側の新川には、酒問屋を中心とした問屋が栄え、亀島川は全国の物資を運ぶ船が往来し、大いに繁栄していた。

 左写真の 川の右側が日比谷河岸、左側が将監河岸と呼ばれた。

南側 西詰
 橋の西詰・南側にくると、石碑や説明板が立ち並ぶ。
説明板の解説によると、「東洲斎写楽は、雲母(きら)摺りの豪華な背景とリアルな表情・姿態の浮世絵師であるが、その生涯は不明の点が多かった。
 写楽は 「阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」  「江戸八丁堀に住み、阿波藩につかえる斎藤十郎兵衛で文政3年(1820)に死亡」という二つの資料があり、斎藤十郎兵衛で八丁堀に居住との説が注目されるようになった。」という。

「伊能忠敬は、文化11年(1814)深川の隠宅を八丁堀亀島町に移し地図作成を続け、4年後にこの地で没した」という。


その横には、芭蕉の句碑が建っている。
八丁堀を詠んだ

   菊の花 咲くや石屋に石の間(あひ)

日比谷『稲荷神社
 西詰からすぐに左折して、川沿いの道を南に進んで行くと、ビルの間にある駐車場の奥に、鳥居の朱が目立つ稲荷神社がある。
 神社の由緒によると、「もとは江戸の日比谷の海岸(今の日比谷公園)に社殿が建てられていたが、慶長11年(1606)の江戸城日比谷御門の建築の為に、八丁堀先の干潟に移されてきた」という。
 2月 最初の午の日に行われる初午祭のお知らせが周辺の大きなビルの入口玄関に掲げられているのが街中の稲荷神社らしい風情であった。

高橋
 すぐに鍛冶橋通りとなり、左は、亀島川に架かる「高橋」(たかばし)である。
古くから記録に残っている橋で、江戸城と深川を結ぶ橋であったようである。船の出入りが激しかったので、橋台の高い橋=高橋という。
 赤穂浪士が泉岳寺への途中に渡ったともいわれる。

<橋の南側> 
この橋の南が、八丁堀(桜川)が亀島川へ合流する所である。

 その南方面は鉄砲洲と呼ばれる。
その由来は、堀岸と海に挟まれた埋立地の形状が種子島に似ているとか、大筒や鉄砲の試し撃ちをして所とか諸説あるようである。

八丁堀の東側 稲荷橋
 高橋から南に向かう道を鉄砲洲通りといい、少し進むと右側に桜橋第二ポンプ所の建物がある。
その手前角に小さな「稲荷橋」という橋標が残されている。
以前は、鉄砲洲稲荷神社があり(今は100m程南にある)橋の名前の由来となっている。

 八丁堀の一番東に架かる橋で、埋め立てに伴い撤去され、川の東側跡地に第二ポンプ所が建てられ、屋上が桜川屋上公園として整備されている。

八丁堀の東側  亀島川
 ポンプ所の向かいの亀島川沿いは、現在工事中であったが、八丁堀と亀島川の合流点である。

八丁堀は、慶長17年(1612)ごろ、江戸湊の船着き場築造の為の水路が開削され、江戸城への物資搬入や防衛上の観点から、堀川が築かれたものである。
京橋川の下流から亀嶋川まで約八丁なので、八丁堀と命名されたというのが通説である。 明治に入り桜川と呼ばれた。
昭和40年(1965)から4年で、埋め立てられた。

鉄砲洲稲荷神社

通りをさらに南に行くと、交差点の先に神社がある。工事中で境内の脇から入る。
古くからあった神社で、室町時代末期には埋め立てが進んだ今の新京橋付近に八丁堀稲荷神社として移された。その後寛永元年(1624)に鉄砲洲に移されてきたという。

 二宮金次郎の銅像が建っている。
久しぶりに見る像であるが、最近TVを賑わせいている別の姿の像を思い出した。
・・・歩きスマホは危険で、規制の必要が叫ばれており、その影響で、「薪を背負っている銅像は危険を助長するので、椅子に座って本を本を読んでいる姿の像」が出てきたという。


八丁堀の跡・・・桜川公園と西側
 第二ポンプ所の一区画西側にある桜川公園にいく。
八丁堀(桜川)の埋め立て跡地に整備された公園で、北の端に小さな説明板が建っている。
クリックすると拡大 この堀を境に北側一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側を南八丁堀と称して、当時の地名としての八丁堀は広範囲にわたっていたという。
当時の堀(桜川)のあった地図と、そこにかかる橋が描かれている。(写真をクリックすると拡大)



 公園の西側の新大橋通りを横切った先に 工事中の空き地と自転車置き場が長く続いている。、八丁堀の埋め立て跡とわかる。

弾正橋
 
 公園から北に向かい、鍛冶橋通りに出ると八丁堀駅はすぐ右であるが、弾正橋を見に京橋方面に向かう。 
100m.程進むと鈴らん通り、その角に京華スクエアーの建物が見える。

 少し先に首都高速の高架が見えてくる。
高架下が小公園となっており、この下に 久安橋から続いている首都高速が走っている。
公園内の説明石碑によると 「寛永年間(1624~44)にはすでに楓川上に架かっているのが記されている。弾正橋は北八丁堀に島田弾正少粥屋敷があったのがその由来」という。
 「当時ここで交差している3つの堀川に3つの「コの字」状の橋が架けられ、「三ツ橋」として名物であった」という。
 今の橋は以前よりも北側に位置している。
ここから少し南が、八丁堀(桜川)の西の端であった。

 
八丁堀駅方面に戻る。

与力・同心 組屋敷跡
 











 200m程左に「京華スクエアー」の名称の建物があり、コミュニティセンターなどが入っている。
その脇が南北に350m程続く鈴らん通りである。
ここは、明治34年(1901)開校の京華小学校だったという。

 鈴らん通り沿いに「「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」の説明板が立っている。

 「八丁堀のできたはじめの頃は寺町だったが、その後の拡張計画で、玉円寺だけ残して多くの寺が郊外に移転し、そこに江戸町奉行配下の与力・同心組屋敷が成立した」という。
 南北約700m、東西約300m、約32,800坪の範囲に組屋敷があった。
与力の屋敷は武家地、同心は町屋敷で町地に相当、約半々の割合だったといわれる。
 「南北両町奉行が成立する頃は、与力50人(騎)、同心280人で、それぞれに分かれて勤務していた。
与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30表二人扶持で、100坪ほどの屋敷地だった。」という。



南・北 町奉行所について

 町奉行は、寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称され、旗本が就く役職の中では最高のもの(大目付を除く)であり、一方、与力・同心は将軍家の家臣(旗本ないし御家人)で世襲制で、奉行所に勤めており、、町奉行とは直接の主従関係はなかった。(ただし内与力と云われる奉行の家臣もいた。・・・格は低いが・)
 与力-今の警察署長クラス

 北・南の町奉行は管轄する地域を分けていたのではなく、2ヶ所で、月番制で、訴訟の受付を行っていた。
 所在地は数回変わっており、、江戸期最後には、南町奉行所は数寄屋橋、北町奉行所は呉服橋に置かれていた。

町の景色ー秋山三五郎商店
 時間が残っていたので、鈴らん通り近辺を歩いていたら、古くて格式のある店が目に留まった。
 「神佛師 秋山三五郎商店」という看板があり、仏壇や、祠などが展示されている。
 あとで、Webを調べたら、江戸末期創業の神仏具屋で、初代の秋山三五郎が製作した神田多町の神輿は、上野の国立博物館に重要文化財として保存されている という。

さ和鳥
 予定の時刻となり、八丁堀駅の北にある、「さ和鳥」に到着。
麻布十番で、17年前に関東で初めて博多水炊きを紹介したという。
その後、築50年以上というこの八丁堀の一軒家に移転してきたという。
もちろん、水炊きを楽しんだ。
 にこごりなどの上品なつまみのあと、濃厚な鶏スープの鍋に いろいろな鳥肉や野菜が順に入れられ、最後は鶏そばで締め
  ・・・絶品の水炊きであった。



散策日  2016年2月2日 東京駅-八丁堀駅