<東京下町の散策と食事を楽しむ> (3) 深川 と 「山利喜」 (煮込み) (2016年4月18日) 地図→①門前仲町 ②森下 |
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深川の北に位置する森下にある老舗 『山利喜』での 「煮込み」を楽しみにいく。 門前仲町から、富岡八幡宮など寺社を中心に訪れながら、北に向かい森下駅まで、散策する。 この日最後に訪れた深川神明宮の石碑「由来記」に、深川の名の起こりが刻まれている。 ・・・・・「この地は、 葦の茂る三角州で住人もなかったが、深川八郎右衛門が一族を連れて開拓した。徳川家康が江戸に入府、慶長元年(1596)当地を巡視したおり、深川八郎右衛門を呼び地名を尋ねた。住人も少なく地名もないと答えると、家康は その姓「深川」を地名とするように命じた」・・・ |
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門前仲町(永代橋方面を見る) |
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門前仲町の駅前は、清澄通りと永代通りが交差する広い交差点である。 江戸時代、このあたりは富岡八幡宮の別当寺 (神社を管理するために置かれた寺のこと) である永代寺の門前町として栄えたことから、深川永代寺門前仲町と呼ばれていた。 富岡八幡宮を訪れる前に、黒船稲荷神社にいく。 清澄通りを南に向かい、黒船橋を渡ったあと、左の路地をはいっていく。 黒船橋→ |
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黒船稲荷神社 鶴屋南北 住居跡 |
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3本目の路地を入ると、黒船稲荷神社がある。 ここは、東海道四谷怪談の作者 四世鶴屋南北の住居跡で、境内には説明板がある。 宝暦5年(1755)日本橋で生まれ、文政12年(1829)ここの居宅で没した。 家業を捨てて狂言作者を志し、文化元年(1804)河原崎座の「天竺徳兵衛韓話(いこくばなし)」で大当たり、作者としての地位を確立し、文化8年(1811)鶴屋南北を襲名した。 1~3代目鶴屋南北は、歌舞伎 道化方役者の名跡、4,~5代目は狂言作者。 通常、南北というと、4代目を指すという。 |
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永代通りの景色 |
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大横川を渡って、永代通りまで戻り、富岡八幡宮にいく。 左側には、深川不動尊の長い参道が始まる 向かい側には、門前茶屋がある。今度、あさり料理を食べにこよう。 |
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富岡八幡宮 |
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すぐ先が、富岡八幡宮であるが、参道の大鳥居の周りは工事中であった。. すぐ奥 参道の右手には、大関力士碑がたち、向かいには、伊能忠敬の銅像が建つ。 門前仲町の一丁目に隠宅を構えていた伊能忠敬は、寛政12年(1800)ここに参拝後、蝦夷地の測量に出た、という。 隣には、大きな神輿の格納庫があり、「深川八幡祭り」の大神輿が納められている。 |
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富岡八幡宮は永代寺の長盛法印が寛永4年(1627)に創建したといわれる。 当時は永代嶋八幡宮と呼ばれ、八幡大神を尊崇した徳川家の保護を受けて、6万坪の所有地で、江戸庶民に親しまれたという。 拝殿の右手には、「横綱力士碑」が建つ。「横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため, 江戸時代最後の 横綱第12代陣幕久五郎が中心となり, 明治33年(1900)に建てられた。」という。「古くから庶民に親しまれてきた相撲であるが、幕府が初めて江戸での勧進相撲を認めたのは貞享元年(1684)の富岡八幡宮の境内であった。享和元年(1801)までは春、秋二場所のうち一場所がここで行なわれた。」という。(説明板) その後江戸市内各地で行なわれたが、天保4年(1833)以降は本所 回向院が勧進相撲の定場所となった。 明治42年(1909)以降は両国国技館となる。 |
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八幡橋 |
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富岡八幡宮の東側に八幡橋がある。 境内裏にある参拝者駐車場から外に出て、横綱力士碑の奥にあたる場所の路地を進むと、細道の上に架かっている。 渡った先に「旧弾正橋(八幡橋)」という説明板がある。 「もと、京橋楓川(もみじがわ)に架けられていた弾正橋で、大震災後新しい橋が架けられたので、この場所に八幡橋として保存されることになった。 この橋は 鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として、価値の高い橋である。」という。 ≪前回の八丁堀の散歩の時に訪れた弾正橋の、もともと架けられていたものである≫、 西にある深川不動尊まではすぐである。 |
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深川不動堂 |
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<参道> |
永代通りからの長い参道の両側には、商店がびっしりと並んでいる。 深川不動尊または深川不動堂とも呼ばれるが、正式な名前は、 「成田山 東京別院深川不動堂」 である。 → 境内建物 左:本堂 正面:旧本堂 奥:内仏殿 ←出世稲荷社 |
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<深川不動堂・・旧本堂> |
元禄(1688~1703)の初め頃より、成田山不動が盛んに信仰されるようになり、江戸の商人が成田詣でをするようになった。 そのころ、子供に恵まれなかった、歌舞伎の初代市川團十郎が成田山の不動明王に祈願して授かって以来、市川家は代々成田山を信仰し、「成田屋」の屋号を称するなど、成田不動信仰は広く浸透した。 元禄16年(1703)本尊の不動明王を成田山から江戸に運び江戸で公開・・・・第一回目の出開帳が、富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われた。 以来たびたび出開帳が行なわれてきた。 明治の神仏分離令・廃仏運動のなかで、出開帳が行なわれた深川への移転の動きが始まり、明治11年(1878)遷座が決まり、、明治14年(1881)に、堂宇が建立された。 <参考> 成田山新勝寺は、平安時代の半ば、平将門の乱の平定の為に、朝廷が寛朝僧正を遣わしたことに始まる。天慶3年(940)寛朝は上総国に上陸、不動明王を奉じて、将門を調伏するために不動護摩の儀式を行った。 この年が新勝寺の 開山という。 |
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永代寺 |
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参道の途中にある。 説明板によると、「寛永4年(1627)に富岡八幡宮の別当寺として長盛上人により当時の永代島に創建された。広大な敷地を持ち富岡八幡宮とともに広く知られ多くの参詣人を集めた。 明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となったが、明治29年(1896)に塔頭の一つであった吉祥院を、永代寺と改称して継承した。」という。 |
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伊能忠敬住居跡 |
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このあと、清澄通りを北に向かうが、寄り道して伊能忠敬住居跡に寄る。 赤札堂の信号の前を西に向かい、最初の角を左折すると、「旧東京市深川食堂」の説明板がある。 その先で葛西橋通りにぶつかるが、その角に住居跡の石柱が立っている。 |
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清澄通りの景色 |
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<法乗院> |
清州通りの東側には、森下駅の手前の小名木川の南まで多くの寺院が建っている。 深川一丁目交差点を過ぎると 法乗院がある。 江戸三えんまのひとつ、「深川ゑん魔堂」としてしられている。 <心行寺>、 その隣が心行寺で、深川七福神のひとつ福禄寿として親しまれている。 <海辺橋> 少し先で、仙台堀川に架かる海辺橋を渡る。 |
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<芭蕉 採茶庵跡> | ||||||
海辺橋の手前、西詰に、採茶庵跡の石柱と像が立っている。 芭蕉の門人 杉山杉風(さんぷう)が持っていた庵室で、海辺橋付近であったといわれる。 芭蕉庵からここに移り、少し過ごした後、この仙台堀川で船に乗り、隅田川を遡って奥の細道紀行に旅立ったという。 <滝沢馬琴 誕生の地> 海辺橋を渡った先の「老人福祉センター」の前に 「滝沢馬琴 誕生の地」の説明板がある。 「明和4年(1767)旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれた。 儒教思想に基づく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著わし、読本作家の第一人者と称された。」という。 手前に、南総里見八犬伝が置かれている。 |
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浄心寺 |
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2つ目の信号を右に入り200m先の浄心寺に行く。 広々とした境内の奥に現代的な本堂の建物が建つ。 入口両側には、大きな法華経供養塔・・・・日蓮宗の題目塔が建っている。それぞれ天保2年(1831)と享保16年(1731)建立という。 境内は広く閑散としているが、広場の周囲に石塔などが並べられて、それぞれに小さな説明文がついている。 浄心寺は、万治元年(1658)の創建で、開基は第4代将軍家綱の乳母となった三澤の局 。 浄心寺では、身延山 久遠寺の出開帳が行なわれたという。また江戸十祖師の随一とされた。 境内東側に鐘楼がある。 この梵鐘は、川越藩の時の鐘として使われていたものという、説明文がある。 文久元年(1861)鋳造されたもので、川越の行傳寺の鐘を借りて時の鐘として長年使われていたものがもとになっているといういきさつが詳しく記されている。 |
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間宮林蔵の墓 |
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浄心寺から東へ100m程進んだ交差点角に間宮林蔵の墓の案内石柱が立っており、北に少し行った一画に、墓がある。 安永9年(1780)(一説に4年)常陸国筑波郡に生まれ、伊能忠敬に測量を学び、寛政12年(1800)に幕府の蝦夷地御用雇となった。 文化5年(1808) 幕命により松田伝十郎とともに樺太を探検、翌年単身でシベリアに渡り、樺太が島であること、後に命名された間宮海峡を発見したことで世界的に有名になった。 そのまま北に300程すすむと、左手に霊光院がある。 山門前に「阿茶局の墓」の石柱が立つ。 |
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霊光院 |
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本堂前に詳しい説明板が立っており、右奥に進むと、ひときわ高い宝篋印塔が建っている。これは、霊光院の開基である阿茶局の墓塔として、寛永14年(1637)に建てられたもの。 阿茶局は、弘治元年(1555)生まれ、今川家の家臣神尾(かんお)忠重の妻となったが、忠重の死後、家康の側室となった。大坂冬の陣には和睦の使者をつとめ、家康の死後は、秀忠の五女和子の後水尾天皇への入内に際し、母代として在京したという。秀忠の死後は尼となり霊光院と称した。 「この宝篋印塔は、総高363cm、安山岩、近世前期の様式をよく残している貴重な石塔である。」と説明板にある。 次の交差点で、左折し深川資料館通りを西に行く。 資料館への入館は時間がないので諦めた。 すぐ隣に霊厳寺の山門がある。 |
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霊厳寺 |
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寛永元年(1624)、裕管霊厳上人の開山で、霊厳島(今の中央区新川)に創建され、その後 明暦3年(1857)の明暦の大火により延焼し、万治元年(1658)に現在地に移転された。関東十八檀林(浄土宗の僧侶の養成機関・学問所)のひとつである。 <六地蔵>境内左手に江戸六地蔵が安置されている。説明板によると「深川の地蔵坊正元が、京都六地蔵に倣って宝永3年(1706)発願し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩を造立したと伝わる。 享保2年(1717)造立、272cmの高さである。」 「旧東海道」 品川の品川寺と、「鎌倉古道 中の道」 の 新宿 太宗寺で見ているので、三つ目の六地蔵である。 <松平定信の墓>本堂の左に、柵に囲まれた墓がある。 松平定信は,宝暦8年(1758)御三卿の田安徳川家の初代宗武の子として生まれ(8代吉宗の孫にあたる)、後、陸奥白河藩の養子となった。 天明の飢饉の後の藩政を建て直し、藩主としての手腕を認められ、天明7年(1787)11代将軍家斉のもとで老中首座となった。吉宗の享保の改革を手本に、前任の田沼意次の利権政治を代えて、厳しい倹約政策など「寛政の改革」を断行した。 尊号事件により失脚、文政12年(1829)死去。 |
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深川稲荷神社 |
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清澄通りに戻る。突き当りが清澄庭園で、次の角を左折していくと入口であるが、今回は時間がない為見学はあきらめる。清澄3丁目交差点を左折し、最初の信号で、北に向かうと、角に神社がある。 説明板によると、寛永7年(1650)の創建で、以前は旧町名にちなんで西大稲荷と呼ばれていたという。 深川七福神のひとつ 布袋尊として親しまれている。 石碑があり、清澄町の由来の説明がある。 「ここは慶長のころ、小名木川の河港として栄え舟大工が多く住んでいたので、深川海辺大工町と称され、明治にはいり西大工町となった。清澄町に合併したもう一つの伊勢崎町は、元木場の一部で、神田京橋の材木商の貯木場であり、川舟組の住居もあった。」という。 |
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萬年橋 |
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稲荷前から西に向かい、200m程先の万年橋通りを北に向かう。 小名木川に架けられた萬年橋をわたる。 小名木川は、家康が塩の確保の為に、行徳塩田(千葉県)から塩を搬入するために小名木四郎兵衛に命じて 中川(今の旧中川)と隅田川を結ぶ運河を開削させたのが始まりという。 その後塩以外にも物量が増大し、東北方面からの物資を銚子から利根川を遡り、内陸経由で江戸に運ぶのが主要ルートとなり、江戸物流の重要河川として認識されるようになったという。 少し東側に防潮水門として、小名木川水門が設置されている。 <清州橋 ケルンの眺め> 萬年橋を渡ると、説明板があり、「清州橋はケルン市に架けられたライン川の吊り橋をモデルにしており、この場所からの眺めが一番美しい」という。 |
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川船番所跡 |
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萬年橋の北側に、「川船番所跡」の説明板。 寛永年間(1624~44)には小名木川を使って利根川水系を結ぶ輸送ルートが整っており、ここに正保4年(1647)頃には、すでに幕府による川船番所が置かれていた、という。 明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛永元年(1661)川船番所は中川(今の旧中川)との合流点に移転し、ここは元番所と呼ばれた、という。 |
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深川芭蕉庵旧地 |
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次の角の左奥に、芭蕉稲荷大明神のぼり旗が見える。史跡芭蕉庵跡の大きな石碑が立っている。 大正6年(1917)の津波のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたことから、芭蕉庵のあった所とされている。 杉山杉風に草庵の提供をうけ、深川芭蕉庵として延宝8年(1680)から元禄7年(1694)大阪で病没するまでここを本拠とした。 ここから200m程先に江東区の芭蕉記念館があるが、入館は16:30まで、という事で、見学できず。 |
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御船蔵(みふなぐら)跡 |
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新大橋通りまで進み、新大橋に向かう。 手前左手に隅田川テラス入口の通路ががあり、その先に 「御船蔵跡」の石柱が立つ。 「寛永9年(1632)この付近に幕府は軍艦安宅丸(あたけまる)を伊豆から回航格納し、天和2年(1682)にいたって解体したが、のちここを明治まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称した。この付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである。」 との説明あり。 その安宅丸は家光が幕府の船手頭 向井将監に命じて造らせた御座船という。江戸名物のひとつだったが、維持費用が高い為綱吉によって解体されたという。 大型軍船の建造が禁止された後、大型の「安宅船」より小さい、中型の「関船(せきぶね)」といわれる軍船が、使われるようになったという。幕府は関船「天地丸」という御座船を使っていた。 隅田川の景色→ |
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新大橋 |
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「新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄6年(1693)に架けられた。この橋の架設により江戸市中との交通が便利となり、深川の発展に大きく寄与した。初めは現在地より200m程下流に架けられていたが、明治45年(1912)鉄橋となり現在地に架け替えられた。」(説明文より。 深川神明宮へ行く途中で見つけたが、ここから南東200mほどにある「八名川小学校」の校舎の脇(北側)に、その橋名板・・・志ん於ほはし・・・が残されている。(また 橋の一部は、明治村に移されて保存されている。 |
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深川神明宮 |
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森下駅前に行く前に、駅の南西200mほどにある深川神明宮を訪れる。 慶長年間(1596~1614)に摂津国の深川八郎右衛門ほか6人がこの辺りに新田を開拓し(深川村の名前の由来となった)、その八郎右衛門の宅地に伊勢神宮の分霊を祀ったのが、深川神明宮の始まりという。 その八郎右衛門が開基となり、兄の秀順法師が開山・創建した泉養寺が、深川神明宮の別当寺を勤めていた。(現在は市川市国府台にある) 深川七福神のひとつ 寿老人 として親しまれている。 |
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深川神明宮の前に「日本画家 伊藤深水誕生の地」という説明板が立つ。明治31年(1898)神明宮の門前で生まれたという。 200m程で森下駅前の交差点に到着。 |
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山利喜 |
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駅前の「山利喜」で, 5時待ち合わせ。 大正9年(1924)深川区(今の江東区)森下に店を構えたのが最初という。 「煮込み」と「やきとん」が看板メニューで、店の前の大きな赤ちょうちんが、その味と酒の両方の楽しみを期待させる。 牛のシロを6時間以上じっくりと大鍋で煮込んだという「煮込み」を堪能した。 |
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