<東京下町の散策と食事を楽しむ>


(6) 浅草寺周辺の石塔  森下の桜なべ
                           2016年12月26日

                     
地図→①浅草寺南西  ②浅草寺北西 


 今回の散策は、時間が限られた関係で、浅草寺及びその周辺に点在している石塔を訪ねる。
鎌倉での用事を済ませ、午後4時に銀座線の田原町駅に到着した。
日が短く、暗くなってくるのでスピードを上げて散策、その後、森下の桜なべを楽しむ。 


浅草通り
 田原町駅の出口から通りへ出ると、浅草通りである。
 このあたりには自転車専用レーンができている。確か舛添都知事が五輪までに大きく増やすと言っていたことを思い出したが、200mほど歩いただけだが、バス停や、交差する小さな道との間とかがぎくしゃくとした動きで、これが専用レーンだと呼ぶには問題ありそうな感じであった。

 通りの向かい側には仏壇を扱う店が多く並び、通称 仏壇通りともいうらしい。

氷見寺
 次の交差点を左に曲がり、かっぱ橋道具街通りを少し進むと、左手に氷見寺がある。
 氷見寺は慶長16年(1611)に 八丁堀に創建され、その後 他の八丁掘りの寺と同様に、移転させられ、正徳3年(1713)に浅草に移ってきたという。

 境内の奥、本堂前の木の陰に、石塔が建っている。
正面 「まよひ子のしるべ」
左面 「志らする方」 右面 「たづねる方」 と刻まれている。
 建立年代は不明。 

 この後で訪れた浅草寺の「迷子しるべ石」に説明板があるので、そこで紹介するが、この種の石塔は全国で建てられて。  記憶にあるのは、東海道 桑名宿の春日神社の銅鳥居の前にある「しるべ石」である。

本法寺
  2ブロック東に行くと本法寺がある。
「はなし塚」がある事で有名な寺である。 塀には末広亭などの落語亭や圓生などの多くの落語家の名前が赤い字で刻まれた石が積まれている。

 本法寺は 天正19年(1591)江戸城紅葉山に初代日先上人が開山、その後江戸城築城後八丁堀に移り、明暦の大火後この地に移ってきた、と説明板にある。

 門を入ると、右側に熊谷稲荷があり、その前に石塔が建っている。
江戸中期に浅草寺から、熊谷安左衛門の菩提寺であったここ本法寺に勧請されたといい、石塔には、安左衛門の句が刻まれている。
 熊谷稲荷は、江戸時代から霊験あらたかな稲荷として名高い稲荷であり、全国に二か所しかないという珍しい白狐が祀られているという。

 
 続いて境内の奥に、石碑がたてられており、その一つが「はなし塚」である。
 昭和16年(1941)、太平洋戦争に向かうの戦時下で、各種芸能団体が演題について自粛を強いられており、落語会では時局に合わないものとして禁演落語を選び、その名作と先人の霊を弔う為に、塚を建立し台本を納めた。
 戦後復活祭が行なわれ、戦時中の台本などに替えられたという。

 ここから、浅草寺の本堂に向かうが、いつも雷門から入っているので、今回は別ルートで向かう。

通りの景色

<雷門通り>

 国際通りを北に向かい、雷門一丁目交差点を右折、雷門通りを東に向かう。
正面にスカイツリーがきれいな姿を見せている。

<オレンジ通り>
 200mほどで、オレンジ通りを北に向かう。
道路がきれいなレンガ色に舗装されている。




                                                      <新仲見世通り>
 100mほどで、東西に走る新仲見世通りを横切る。
 天井の高いアーケードが続いている。

 
<伝法院通り>
  

 浅草公会堂を右に見て突当りが、伝法院で、浅草寺本坊通用門の看板が掲げられている。
 伝法院は限定公開であり、ぜひ一度は訪ねたいと思っている。

鎮護堂
 その隣に、鎮護堂がある。「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火、盗難除け、商売繁盛の守護神として知られているという。明治5年(1872)浅草寺に住みついたた狸の乱行を鎮めるために祀ったことが始まりという。

 境内の北側から、伝法院の庭の一部が見える。






 伝法院通りを西に行くと五叉路となる。 そこから、北西に向かう道が「浅草六区通り」といわれる商店街である。時間の関係で行けなかったが、次回の楽しみとしておこう。
 五叉路を北に向かうと両側は、ちょっと寄って行こうという気になる親しみのある飲み屋が並んでいる。

迷子しるべ石
 浅草寺本堂はすでにライトアップされて、昼間の本堂とは別の荘厳さがあった。

 その前の小さな建物の西側に「迷子しるべ石」が建っている。 安政7年(1860)新吉原の松田屋嘉兵衛が仁王門(現宝蔵門)前に造立、昭和20年の空襲で倒壊したため、昭和32年に再建されたものという。
 石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻まれ、一方に「志らする方」、一方に「たずねる方」として、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換したという。

銅製宝篋印塔
 本堂のすぐ西側に、高さ8メートルという銅製の宝篋印塔が建つ。
宝暦11年(1761)江戸を代表する鋳物師 西村和泉守藤原政時が鋳造したもので、台東区内最大の宝篋印塔という。
 安政2年(1855)の震災で被災し、倒壊したままになっていたが、明治40年(1907)に日露戦争凱旋記念として修復されたという。

 ここから、西にある影向堂に向かって石橋を渡る。

板碑と供養塔
 すぐ左側に、大きな板碑が、補強されて建ち、その右側には「三尊名号供養塔」がある。
 
 説明板は「西仏板碑」と言っているが、西仏か建立者の名らしい。鎌倉末から室町初期のものという。
材質は秩父粘板岩(青石)で、高さ217cm、幅48cmといい、上部が破損している。
 
 三尊名号は、正面に「南無阿弥陀佛」、「観世音菩薩」 「大勢至菩薩」と刻まれている。
 文政10年(1827)江戸屏風坂下(現在の上野)の鹿島屋弥兵衛が発願したという。
 

浅草寺 銭塚地蔵堂
 影向堂の前を抜けて、浅草寺境内の西側の道を北に少し進むと、赤い幟の立つ、銭塚地蔵尊がある。
享保年間(1716~35)以降の創建といわれ、昭和39年(1974)に再建された。
石造りの「六地蔵尊」が安置されており、その下に寛永通宝が埋められていることから「銭塚」の名があるという。
 脇には「カンカン地蔵尊」が祀られている祠がある。


影向堂の角まで戻り、西に向かう。
 右側には花やしきの浅草門がある。 周囲が暗くなってきているのに、結構賑わいを見せている。

 国際通りに出て、北に200m程進むと左側に萬隆寺がある。

萬隆寺 庚申塔
 山門を入った正面に本堂があるが、すでに暗くて見えない。
萬隆寺は、明暦3年(1657)の大火のあと、湯島からここに移ってきたという。
すぐ左手に、石仏がならぶ。
そのうちのひとつに、寛文5年(1665)建立の庚申塔がある。

 ちょうど午後6時、閉門の時間で詳しく 見れなかったのが残念である。

 集合時間にあと30分、急いで田原町駅まで戻り、地下鉄で森下駅に向かう。

みの家
 今回は、馬肉料理の老舗 「みの家」である。
4月に訪れた「山利喜」の数軒先にある。 明治30年(1897)から続くといい、今の建物は昭和29年(1951)に建てられたという風格のある店構えの店である。
桜のマークになべと入ったネオンが輝き、『登録商標 桜なべ みの家』とある昔からの商家に特有の「看板」が独特の雰囲気をだしている。


 2階にある籐敷きの座敷に向かい合って鍋を囲むスタイルで、ロースとヒレの桜なべを堪能。
 メンバーの一人が持参した弘前からのリンゴをお土産に頂き、2016年の忘年会も兼ねての楽しい宴会であった。